種なしのパン

コリントの信徒への手紙一 5章1〜13節

 コリントにある教会の問題は、第一には分派争いでしたが、今度は別の問題が持ち上がりました。それはある教会員が犯した不品行つまり不倫の問題でした。「(1節)現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。」ここに書かれている妻とは、おそらく父親よりもかなり年の離れた若い妻であったのでしょう。形式上は彼女の息子であるはずのこの男性が、母親となっている彼女と不倫の関係にあるというのです。これはコリントの教会がどんなに堕落していたかがわかる事例です。

 それは人間の弱さでもありますが、それを仕方がないといって放っておいて良いことでしょうか。この問題に対してコリント教会の人たちがとった態度は、パウロが言っているように、「(2節)それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。」そのような事実があるにも関わらず、教会全体がこのことを悲しんで懴悔するのではなく、かえっておごり高ぶっている態度をパウロは𠮟責しているのです。

 それは6節からもわかります。「(6節)あなたがたが誇っているのは、よくない。」そういう人がいるなら、「むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。」パウロはそう語っています。パウロは「不品行に対する怒り」をぶつけています。不品行や不倫という行為によって傷を負う人、被害者がいるわけです。パウロはその視点から考えていますから、そのような悪人をあなた方の中から除きなさいと言ったのでしょう。

 当時、コリントという都市は、神殿娼婦と言われる公認の形がありましたし、町全体が堕落したような雰囲気の中にあったようです。ですから教会の中にこういう問題が起こっても、意に介せず逆に居直って高ぶっていたのかもしれません。日本語の「高ぶる」という言葉には説明がいるかもしれません。ある学者はこのように解釈しています。つまり、コリントというギリシアの町ではこの事件はさほど悲しむべきこととは考えられなかったのではないかと言います。ギリシア悲劇には往々にして近親相姦的なテーマがありますし、ここにはギリシア人的精神風土、つまり美的なことにあこがれ、芸術観賞癖を持って気位高く暮らすと言う思想が現れているのではないだろうか、彼らはそういう考えで生きているから、たとえそのような不品行な者がいたとしても、自分たちの中からそういう人を排除することなどとは考えなかったのであろうと説明しています。しかし、パウロが批判しているように、高ぶっている思いを持っていては、神が喜ばれる教会形成はできないのです。

 パウロはこの問題をいい加減に扱うことはしませんでした。確かに人間の集まりである教会は何の汚れもない清い所ではありません。罪人の集まりですから、何が起こるかわかりません。しかし、教会は愛による交わりの生活だからといって、神がお許しにならないことが行われてはならないのです。パウロはこの時、コリントからは離れていましたが、教会が聖さを持っていなくてはならないことを伝えようとしています。「(3節)わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。」自分は今遠く離れているが、教会のことについては一緒にいるあなたがたと同じように、その人を裁いているのだと語っています。

 パウロはここで、何らかの規則によってこのことを処理しようとは考えませんでした。歴史の中の教会は、何か問題があると、いつでも戒律や規則によって、教会の聖さを保とうとしてきました。しかしそのような規則は人間が作ったものです。パウロはどこまでも信仰によってこのことを処理しようとしたのです。本当の裁きはキリストの権威によって、霊によって行われるものだからです。「(4〜5節)つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。」パウロとコリントの人たちは、いま肉体的、物理的には離れているけれども、霊によってつながっている、つまり信仰によってそのような人を裁くのだと語っているのです。

 そしてパウロは、そのような行為をしたあの男性を既に裁いてしまった、つまり彼をサタンに引き渡してしまった、と言います。そして「それは主の日に彼の霊が救われるためです。」と語っています。ここでパウロは、彼の肉が滅ぼされても、その霊は主の裁きの日に救われるようにと考えたからだと、微妙に食い違うようなことを言います。本来は、彼を裁いてサタンに引き渡したのは、彼の肉が滅ぼされるだけでなく、その霊も主の裁きの日に永遠の滅びに入れられるためである、というべきかもしれません。しかし、彼の肉が滅ぼされるのは妥当かもしれないが、彼の霊については妥当でないのだと、パウロは究極的な意味で彼が救われることを願っているのです。

 この男性を裁くのはキリストです。最後の審判の時に救い主キリストがこの人を裁くのです。最後の審判者はサタンではありません。サタンは人間を滅ぼすことしか考えていませんが、キリストはサタンに引き渡された人間を裁きの日に救うお方です。パウロの目的は、彼の魂が救われることだったと思います。罪を犯した者もまた救いに入れられるようにという願いこそ、教会が求める願いでなくてはならないと思います。

「(6節)あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。」誇ることは高ぶることと同じです。パウロはこの不品行の出来事を傍観していたコリントの人たちに、誰もが知っているパン種の例をあげて説明します。パン種は、パンをふくらませるものです。粉にパン種を入れて練り、塊を作って焼き上げると、ふっくらしたパンができることは世界中のいたるところで行われています。少しのパン種が粉全体をふくらませ、どのようにでも変化させることができることは誰でも知っていることです。パウロはそのことを取り上げて、コリント教会に入り込んできた悪いパン種のせいで人間が膨れあがる高慢な心を戒めています。

 新しいパンを作りたいのであれば、古いパン種は捨てなければなりません。おいしいパンを作るには新しいパン種が良いのです。しかしここではパン作りの話をしているのではありません。人間生活のことを話すためにパン種のことを用いたにすぎません。人間の生活にはパン種はない方が良いのです。その方が本当の人間として生きていけます。パン種が入っていると腐ったり、余計なものが入り込んでしまいます。パン種が入っていないならこのような問題は起きてきません。6節の「練り粉全体」というのは「教会」です。そこに「わずかなパン種」として存在する不品行な人たちによって教会は悪しき影響を受けるのだということ、その処理をなおざりにしていることは、教会という身体全体を腐らせる結果になるのだということを語っているのです。

 パン種が入らないパンもあります。聖書ではこれは特別な意味を持ったパンでした。それは過ぎ越し祭のために用いられるパンです。出エジプト記12章には、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを出る時の事が書かれていますが、その記念すべき夜に食べたのがパン種を入れないパンでした。パンは最も大切な食物ですが、パン種は腐敗のしるしでしたから、過ぎ越し祭の日にはパン種を入れないパンを食べるのです。それこそが救いのパンであったのです。

「(7節)いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。」と語っているのはそのことです。神を信じる者はパン種の入っていないパンであると言っています。それは私たちが過ぎ越しの小羊と言われているキリスト・イエスによって救われたからです。過ぎ越しの小羊として屠られたキリストが救い主であるならば、私たちはあの時に用いられたパン種が入らないパン、種なしのパンではないかと言っているのです。それで「(8節)だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」と語っています。コリントの教会の人たちを誇らせ、膨れあがらせ、高ぶらせていたパン種の話が、過ぎ越し祭に用いられる種入れぬパンの話になっていきましたが、神を信じる者にとっては自然につながっています。

 9節には「わたしは以前手紙で」とありますので、パウロはこの「コリントの信徒への手紙一」の前に手紙を書いたようですが、それについてはよくわかっていません。しかし大事なのはその手紙で、パウロはコリントの教会の人たちにみだらな者と交際してはいけないと書いて注意したらしいのです。11節にありますように、コリント教会の中には「兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪ったりする人」がいたようです。

 教会生活は信仰者にとってとても大切です。一般に、教会はみんなが親しく愛し合い、聖い生活をするところだと考えるかもしれませんが、実際は教会の中にも争いがありますし、問題も起こります。このような人とは交際もしてはいけない、一緒に食事もしてはいけない、と言われたら、どうしたら良いのでしょう。「(10節)その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。」そういう人たちは神がお裁きになります。

 私たちは誰一人自分が聖い者だと思っている人はいないと思います。自分が罪人だと思ったからこそ神の救いを信じたのです。私たちは絶えず罪の赦しを感謝しています。そうであるならばどうして人をとがめること等できるでしょうか。私たちが救われたのは、神が喜ばれる聖い人間となるためであり、神が望まれるような生活をするためです。パウロは、私たちに何よりも聖い生活を心がけるようにしなさいと勧めているのだと思います。コリントの信徒への手紙を読んでわかってくることはこのことです。

 私たち神を信じる者は、この世で道徳的に立派な行いをすることがその第一目的ではありません。自分たちの弱さ、罪を知っている者は、ただキリストによる救いを信じて赦された感謝に生きています。ですからその人生は神のためにあるのです。主の教会に加わった私たちはその思いを保っている時に、そのままで地の塩、世の光としての使命を果たし得るのです。それはただイエス・キリストの恵みです。

 コリントにある教会はパウロが最も心を悩ました教会の一つでした。そこにはギリシア的な体質、異教的な気風、特に道徳的な堕落と物質的繁栄が招いた様々な問題がありました。党派心やねたみや争い、知識や能力を誇って人を批判したり軽蔑したり、これらのことはどれも主の福音に生かされた群れの中にはあるまじきものでした。しかしそこには、事実そういうことが存在したのです。そして今日どうかすると私たちも同じ間違いを犯してしまう危険性を持っているのです。だからこそ、今朝も私たちは神のみ言葉によってしっかり教えられなくてはならないのだと思います。

(牧師 常廣澄子)