2022年7月31日 主日礼拝
コリントの信徒への手紙一 6章1~11節
牧師 常廣澄子
聖書の民であるユダヤ人は、争い事を法廷に持ち出す前に、その地域や会堂の長老に諮って事件を解決していました。この手紙の著者パウロもまた、ユダヤ人として育ち、またファリサイ派のラビから律法を学んでいましたから、人間の裁きについては敏感であり慎重でした。
お読みいただいた個所は、コリント教会内で起きた争いごとについて書かれています。コリント教会では今までにも分派争いや不倫の問題等いろいろなことが起こっていましたが、今回の問題は、教会内部で起こった訴訟事件です。これは事件の中味そのものよりも、それを教会内で処理しないでこの世の法廷に訴え出たことが問題になっています。
ギリシア人の町コリントでは、争いごとが起きると、人々は事件を法廷に持ち込んで、雄弁を振るって討論し、決着するやり方が普通でした。ギリシアでは、昔から弁論術が盛んでしたから、人々の争い事を裁くために、裁判官、公定仲裁人、陪審員等、裁判に関係する仕事をする人がたくさんいて、多くの人が裁判についてよく知っていたのです。ですから、教会内で起きた争いごとに対しても、法廷に持ち出して裁くというやり方をしていたようです。
しかしパウロは「(1節)あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。」とあるように、事件を法廷に持ち出す前に、なぜ神を信じる教会内の人たちに伝えずに、外部の人々に訴え出るのか、と疑問を呈しています。パウロは、教会の仲間の間での争いをこの世の法廷、つまり信仰のない人々に訴え出たことを、心よしとしなかったようです。
このパウロの考えは、この世の法廷を軽んじているように思われるかもしれません。しかし、この世の法廷、つまり神を信じていない人々の法廷では正義が損なわれるから、というような意味ではありません。法廷(裁判所)は、それが属している社会を反映していますから、神との正しい関係を持っていない法廷に訴えることの問題を指摘しているのです
パウロは、人間はどんなに正義に満ちていて「何らやましいことはない」と確信できることであったとしても、それで義とされるわけではない、つまり神の義の前では、人間の正義などは問題にならないということを意識していたのです。しかしこの世の法廷は、まるで正義の番人であるかのような存在となっています。そのことをパウロは問題にしているのです。
パウロの不満はさらに強い形で表現されます。「(2節)あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。」パウロはキリストを信じ、神の霊に教えられて生きている者としてその責任を自覚しています。パウロは神による正義というものがどのようなものでなければならないかをわきまえていたのです。
ここでパウロは、教会に属する人たちは聖なる者とされていると言い、本来はその聖なる者とされているコリント教会の信徒たちが対処すべきであるのに、教会内で片付く問題を信仰のない人々の手に委ねてしまうことは、本末転倒ではないかと言っているのです。パウロは大事なことを強調する時には、2節にあるように「あなたがたは知らないのですか」とよく言います。ここでは3節にも9節にも(この後では、15、16、19節にも)出てきます。
「(3節)わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。」天使というのは、神の下にある存在としては最高の位置にある者ですが、天使もまた神による被造物であり、この世の一部です。パウロは「聖なる者が世を裁くのです。」ということをさらに明確に伝えるために、「天使たちさえ裁く者である」と語っているのです。そしてこの裁くという動詞は未来形ですから、終末的なことを意味していると考えられます。つまり神の最終目的は、キリストを信じる者たちに委ねられているということなのです。
しかし実際は、コリント教会では極めて小さな事件さえも、信仰に則って判断することができなかったようです。ですから、「神を信じて聖なる者とされたあなたがたは、この世にあって世の見張り人であり世を裁く者でさえあるにも関わらず、日常生活に関わる争い(たぶん日常生活での衣食住や金銭的な問題なのでしょう)が起こると外部の人たちに裁きを依頼するとはいったいどうしたことか」とそのふがいなさを嘆いているのです。「(4節)それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。」このようにパウロは皮肉を込めて語っています。
さらにパウロは言います。「(5節)あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。」「(6節)兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。」コリント教会の人たちは自分たちの知恵を誇っていましたので、パウロはそのことを戒める良い機会だと考えたようです。教会の兄弟間の争いを不信者の前に公表して解決を求めるなど、あなたがたはそれほどに無能なのですか、兄弟間の争いを仲裁できるほどの知恵ある者は一人もいないのですかと語っています。
ここでの矛先は、コリント教会でキリストを信じて生きる人たちの霊的な貧しさです。天使さえも裁けるはずのキリスト者であるあなたがたが、仲間の争いさえも裁くことができないのは、知恵も愛もない人間だと言われても仕方がないではないかと詰め寄っているのです。こういう強い発言をするパウロの心には、神の教会は信仰的にしっかり立って、自分たちの問題は自分たちで解決する、愛のある共同体であって欲しいという期待があるのだと思います。
パウロの追及はさらに鋭くなり、事柄の根本的な問題に迫っていきます。「(7節)そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」これはいかにもパウロらしい言い方です。そしてその背後にはイエスの精神が生き生きと流れています。ここには「あなたがたの負けです。」敗北です、とありますが、これはキリストを信じ、主の霊に生かされながらも霊的に練られた品性ができていないということです。祈って神の助けや導きを待つのでなく、キリストを信じている者同士が訴えあっていること自体、敗北に他ならないと言うのです。
イエスは言われました。「しかし。わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイによる福音書5章44節)パウロはイエスが説かれた福音の教えはそのまま教会共同体の中でこそ実現されるべきだと考えていたと思います。「(8節)それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。」この個所からは、コリント教会の人たちがいかに福音というイエスの御心から離れていたかがわかります。
確かに彼らは不正な扱いを受けた被害者であったのかもしれませんが、だまされたり奪われたりする、そういう悪や不正の中で、逆に仕返しするかのように加害者となって不義を働き、奪い取っていたというのです。しかもそのような行為をなんと神の家族としての兄弟である教会員に対して行っていたのです。そこでパウロは、悪徳のリストをあげて、こういう者は神の国を継ぐことができないと語るのです。「(9-10節)正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」これを見ますと、パウロ時代のコリントにはいかに悪い行いが横行していたかがわかりますし、また残念ながら、それらが今の時代にも適用されることに気づかされます。商業都市コリントは風紀が乱れていました。女神アフロディテの神殿礼拝には、公然と性的な乱れがあったようですし、ギリシアの都市には公衆浴場や公衆運動場がありましたが、身体を洗っている間に盗難に遭うことがよくあったそうです。
ここに悪のリストが列記されているのは、決して今問題となっている訴訟事件と無関係ではありません。裁判ざたになるような事柄には、たいてい復讐心や敵意などがつきもので、自分の正しさや権利を主張して争うわけですが、その時、人の心は往々にしてよこしまな悪い思いに支配されてしまうのです。一種の貪欲さが入り込むからです。裁判に訴えることが、不義や不正から身を守るためではなく、逆に不正をして人から奪い取るような自体にもなっていたのです。そのような状態を憂えて、そのような者は「決して神の国を継ぐことができません」とパウロは語っているのです。
さて、ここで注目したいのは、「神の国を継ぐことができない」という表現です。すぐに気づくのは「救われることができない」という表現の代わりではないかということです。単純に考えるなら、これら二つは同じことを言っていると思われるかもしれません。しかし、これらの表現には厳密な区別がなされています。パウロにとって福音は罪の赦しです。それはどのような悪いことをした者でも、イエスを信じる信仰によって救われるというメッセージです。この福音の宣教のためにパウロは命を懸けているのです。それなのに今もし、悪い行為をした者は救われないと言ったなら、「信仰による救い」を捨てて、再び「行いによる救い」を主張することになってしまいます。
パウロはこのような深い考えのもとに、「神の国を継ぐことができない」と言ったのです。注意すべきは「国」という言葉です。国は支配を意味します。神の国は神が支配しておられます。支配は勝利なのです。今のロシアとウクライナの戦争のことを考えるとよくわかると思いますが、勝利することによって支配するようになるのです。つまり神が勝利することによって神の国が完成します。ところが、人間の悪行は神の勝利に傷をつけます。神の国について言うならば、悪い行為をする者がそこから斥けられるのは当然のことなのです。そしてこれは「信仰によって義とされる」こととは別のことです。「信仰によって罪が赦され救われる」ということが福音ですから、悪い行為をした者が救われないことはあり得ないのです。
感謝なことに、11節には「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」悪徳から脱出したと思われる人がいたことが読みとれます。以前には不義と醜悪な罪の中にいた者が、キリストの福音によって変えられているのです。つまり神の霊によってその心が洗われ、聖なる者とされ、義とされている、とイエスを信じることによる神の御業が語られています。これはイエスへの信仰が、常に私たち信仰者の生活の中での具体的な歩みを導くということです。厳しい社会状況にありますが、私たちは新しい週も主の導きを信じ、忍耐を持って歩んでいきたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)