巻物を取って食べよ

2023年6月4日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ヨハネの黙示録 10章1~11節
牧師 常廣澄子

 ヨハネの黙示録を読み進めてきて、本日は10章に来ました。著者ヨハネは霊に満たされて天の幻を見ています。地上にいる私たちも霊の目を天に向け、天上の礼拝の様子や、霊が伝えることを自分の心のスクリーンに描いていきたいと思います。

 まず今までのことをたどってみましょう。天の玉座の中央に座しておられるお方は右手に巻物を持っておられました。この巻物は七つの封印で封じられていたので、誰も開くことも見ることもできませんでした。しかし、唯一この巻物を手に取って開くことができるお方がおられました。それは神の小羊イエス・キリストです。小羊イエスはその封印を一つひとつ開いていきました。こうして神の秘められた計画が少しずつ明らかにされていくのです。

 8章のところには、小羊が第七の封印を開いた時に、七人の天使が登場して、彼らに七つのラッパが与えられたことが書かれていました。そしてこれらの天使が命じられるままに一人ずつラッパを吹き鳴らすと、次々とおそろしい光景が展開されていきました。これは全世界と全人類が審かれていくということです。前回は第六の天使がラッパを吹いた時の災いが示されました。第七の天使がラッパを吹くのは最後です(11章15節)。

 10章では、第六と第七の天使の間にもう一人別の力強い天使が現れたことが書かれています。この「力強い」というのは、「大いなる」「巨大な」という意味で、他の天使たちより「権威ある」天使だと考えられます。「(1-3節)わたしはまた、もう一人の力強い天使が、雲を身にまとい、天から降って来るのを見た。頭には虹をいただき、顔は太陽のようで、足は火の柱のようであり、手には開いた小さな巻物を持っていた。そして、右足で海を、左足で地を踏まえて、獅子がほえるような大声で叫んだ。天使が叫んだとき、七つの雷がそれぞれの声で語った。」

 ここを読みますと、1章14-15節に書かれていた「天上におられるキリストのお姿」ととてもよく似ています。ですから小羊イエスともとれるのですが、この力強い天使はイエスのそば近くにいて、イエスに仕える天使ではないかと考えられます。明らかに以前に出てきた七人の天使たちとは違います。七人の天使たちより一段上というか、際立って大きな存在だということがわかります。なぜならば、手に開かれた小さな巻物を持っていて、七つの雷に指令を出すほどの力を持っています。

 この天使は、雲を身にまとい、頭には虹をいただき、顔は太陽のようで、足は火の柱のようでした。詩編97編2節には、審判者としての主が雲に包まれて降って来られることが歌われていますが、雲は神の臨在を表しています。また、虹は主の栄光の姿だとエゼキエル書1章28節に書かれています。太陽のような主の御顔の輝きがある所では、闇の業が留まることなどできません。火の柱のような足を持たれる主は、すべての不義の業を火で焼き尽くすように踏みつぶして消してしまわれるのです。そして「片足は海の上に、もう片方は地の上に踏み下ろして、獅子がほえるような大声で叫んだ」のです。このように海も陸も全世界を所有して支配する巨大な姿が描かれています。

 今この世界に起きている戦争や各地の争いごとを考えてみますと、この世の権力者たちは、自分の国の領土を広げよう、地上の所有権を獲得しようとして互いに争っています。そのために自国の軍備を増強して勝利を得ようと血眼になっています。しかしこの世界に審判が下され、神の国が建設される時には、人間が造った社会は跡形もなくなると預言されています(ダニエル書2章35節)。真に平和で幸福な神の国は人間の力によって造りだすことはできないのです。これは神のなさる御業です。

 この力強い天使は獅子が吠えるような大声で叫びました。その時、七つの雷がそれぞれの声で語ったといいます。聖書では、神が語られる声は雷の音にたとえられています(詩編29編3節等参照)。七つの雷がそれぞれの声を発したら、どのようなすさまじさでしょうか。天と地を結ぶ稲光と共に大いなる声が響き渡っていくのです。いったい何が語られているのでしょう。

 ヨハネはそれを書き留めようとしました。すると天から声があって、「それを書き留めてはいけない」と言われてしまいました(4節)。どうしてなのでしょうか。私たち人間が神のなさることをすべて知ることは許されていないということではないでしょうか。神ご自身だけがご存じのことであって、私たち人間が神のようになることはできないのです。神はあくまで天におられ、私たち人間は地にあります。思いあがってはならないのです。

 すると、この天使は右手を天に上げて、世々限りなく生きておられる方(すなわち全能者であられる神)にかけて誓いました。「もはや時がない」と(6節)。時間がない、神の最後の審判の時が迫っているということです。天使は戦慄すべき言葉を私たちに告げています。

 この天使が告げていることは、7節に書かれていますように、第七の天使がラッパを吹く時には、神がかねてから預言者たちを通して明らかにしてこられたように、神の秘められた計画が成就するのだということです。「(7節)第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」

 迫っている時というのは、神の秘められた計画が成就する時です。ここで言われている成就するというのは、神の目的が果たされる、神の目的に達するという意味ですが、聖書の中には「神の時が来た」「時が近づいた」「時が迫っている」「時がちぢまっている」など、様々な表現によってその時のことを語っています。これは神の最終的な審判の時であり、何人も逃れることはできない主の時が来るということです。

 このヨハネの黙示録では、「もはや時がない」と語られています。それは最後の第七の天使がラッパを吹く時に起こる審きまでに時間がないと語っているのです。しかし、それは同時に、主イエスを信じる者、神に立ち返って生きる者にとっては、大いなる審きを逃れて救いに与ることができるのだということでもあります。

 ここでヨハネは再び天からの声を聞きます。「(8-9節)すると、天から聞こえたあの声が、再びわたしに語りかけて、こう言った。『さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ。』そこで、天使のところへ行き、『その小さな巻物をください』と言った。すると、天使はわたしに言った。『受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。』」

 ヨハネが「その小さな巻物をください」と言ったところ、なんと天使は「受け取って、食べてしまえ」と言ったのです。ここにある「食べる」という言葉は、その内容を吟味して消化することです。つまり完全に自分のものにするということです。ヨハネは巻物を食べました。それは、その巻物の中に記されていること、すなわち、神の福音がどういうことかを味わい知るということです。ヨハネは主の福音を完全に自分のものにしたのです。柔和な神の小羊イエスが十字架につけられ、血を流して私たちの罪の贖いとなられたということは、人間世界にとって偉大な奥義です。神がいかに私たち罪人の人間を愛しておられるか、これもまた大いなる神の奥義であり福音です。この素晴らしい神の恵みを味わい知ることです。

 本日、私たちはこの後で、主の晩餐に与ります。キリストのお身体と御血を象徴するパンとぶどう酒をいただきます。キリストが私たちの身体に入って生きて働いていてくださることを感謝することができます。私たちも福音を食べる経験をしているのです。

 では「あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い」とはどういうことなのでしょう。これは預言書エゼキエルが見た幻と同じです。「わたしが口を開くと、主はこの巻物を私に食べさせて、言われた『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」(エゼキエル書3章2-3節)また詩編119編103節で、詩人は「あなたの仰せを味わえば、わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。」と歌っていますし、ダビデも歌っています。「神の言葉は蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い(詩編19編10節)。」エレミヤは「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び踊りました(エレミヤ書15章16節)。」と語っています。

 ここには、神の言葉が持っている神の本質が語られています。神の御言葉は、それを食べて味わう者には何ものにもまさって甘くておいしいということです。甘いものをいただくと、疲れた心や身体が生き返ります。このように、神の約束の言葉は私たちに大きな慰めを与え、回復を与え、喜びを与えてくれるのです。苦しい時、悲しい時、不安な時、恐れる時、神は御言葉を与えて幾たび私たちを癒してくださったことでしょうか。

 しかし同時に、苦い面もあります。それはキリストの名による苦難と日々襲ってくる信仰の闘いです。キリストの福音は甘い面ばかりではありません。苦さや厳しさがあることを忘れてはいけないと思います。つまり、神の審きがどのようなものかを知らずに、キリストの十字架の福音を語ることはできないのです。聖書ははっきりこのことを語っているのです。

 著者ヨハネは「巻物を受け取って食べてしまえ」と言われた後に、「(11節)すると、わたしにこう語りかける声が聞こえた。『あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。』」という声を聞きました。これは、その小さな巻物に記されている神の秘められた計画(神の奥義)が何であるかを、すべての人に宣べ伝えなさい、すべての者に語って明らかにしなさいということです。実際ここにいるのは、その主の福音を語り、イエスを証ししたがゆえにパトモス島に流されているヨハネなのですが、そのヨハネに神はもう一度神の福音を
語るようにと促されたのです。苦難の中にありながらも、なお彼の心には伝道の重荷が燃え上がったのではないでしょうか。

 これは現在の私たちにも適用されることです。これは私たち教会の民に託されている命令であり、指令です。追い迫っている神の時をも知らずに争いを繰り返し、自己中心の思いを喚き続けている世界にあって、私たちは聖書を通して、すべてを支配しておられるお方の審きと救いと神の国が来ることを知らされているのですから、身をもってそれを証ししなければならないのです。

 十字架で贖いの死を遂げられ、三日目に復活されたイエスは、天に帰られる時に弟子たちに命じられました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイによる福音書28章18-19節)

 終末を待つまでもなく、霊的には天地の全権は主の御手に握られています。人類の救いは完成されているのです。ですから私たちは神の福音を宣べ伝え、この世の暗黒の力に縛り付けられている人々を解放するために働かねばなりません。そのためには、私たちもまた、神の言葉という巻物を食べて自分のものにしなければならないのです。

 今は恵みの時です。「先天性大脳白質形成不全症」という難病に冒されて33歳という若さで天に召された福本峻平さん(常盤台バプテスト教会員)が作った詩に「今こそ主、求めよ」があります。救いの日が暮れてしまわないうちに、私たちは今こそ主を求めなくてはならないと思います。

(牧師 常廣澄子)