収穫のための働き人

2023年6月11日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』

ルカによる福音書 10章1~16節
牧師 永田邦夫

 本日も、ルカによる福音書からのメッセージをご一緒に聞いて参りましょう。本日の説教題は、ご案内の通り「収穫のための働き人」です。ここでの「収穫」とは、御国のために、主なる神ご自身が中心となって収穫される、その「収穫」のこと、そしてこれを受け「働き人」とは、御国に連なって、主のために用いられて働く「働き人」のこと、今日のわたくし達も、その一人一人です。

 わたくし自身も微力ながら「働き人」として、本日、久しぶりにこの講壇に立たせていただいておりますことを、大変うれしく、そして主なる神に感謝しております。それは、入院、そして肺癌手術という苦難を克服して、今ここに立たせていただいております故に、喜びもひとしおです。

 では早速、本日箇所に入っていきます。1節に「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」とあります。では、本日箇所の理解をより深めるために、本日箇所に至るこれまでの、主イエスさまの伝道の歩みを確認しておきましょう。先ず初めは、ガリラヤを中心としての伝道の歩みでした。漁師のペトロやヤコブを弟子として招き、さらに数を増やして、計十二人を選び使徒として、主がその傍に置いて、悪霊追放や、病気のいやしの権能を授けて、伝道の歩みを共に続けて来られました。

 その後イエスさまは、大きな転換期を迎えます。それは、主イエスさま御自身の「死と復活を重ねて予告」された後の、エルサレムに向かう決意表明(9章51節)でした。そして、本日箇所の10章に入りますと、冒頭の1節に「主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に云々」とあります。この節で、「ほかに」とは勿論、“先に選んだ十二人とは別に選ぶ七十二人”という意味です。しかし、これに続く「御自分が行くつもりの町や村」とは、文字どおりの意味よりも、“これから先、自分の意思を受け継いで伝道を担ってくれる、全ての人々”、と理解することが出来ます。因みにこの記事は、ルカによる福音書だけにある記事です。

 では、ルカによる福音書の執筆目的や、その特徴を踏まえながら、「七十二人の選出の意味」を理解したうえで、先へと進みましょう。本書の著者ルカは「わたしたちの間で実現した事柄(イエス・キリストによる福音の出来事)を詳しく調べたので、これをローマの高官、敬愛するテオフィロさまに書き送ります(1章1節~4節)」との書き出しです。すなわち、イエス・キリストによるこの福音の出来事は、単にユダヤに留まらず、世界的な出来事であること、そしてこれは決して危険な宗教ではないことも、ぜひ、テオフィロ閣下に知っていて欲しいとの願いを込めて、ルカはこの福音書を執筆しました。

 以上のルカの思いが、10章にも込められていることが伝わってきます。それは、この10章の記事が、前述の通りルカによる福音書にだけある記事であること、そして、七十二人選出の意味等からです。では、この「七十二人」という数の由来について確認しておきましょう。いくつかの説はありますが、最も確かなのは、創世記の10章にあります、ノアの子孫の数に由来している、と言うことです。因みに、ノアには三人の子、セム、ハム、ヤフェトがいて、さらにその三人から生まれた子孫の数は、合計七十二人になるのです。

 そして、1節の後半のことばで、 そしてもう一つのこと、「二人ずつ先に遣わされた」と、記されている言葉にも触れておきましょう。これは伝道の直接の友として、“二人ずつ組み分けして”と言う、主イエスさまの優しい心遣いも、ここに表われています。

 次の2節に進みます、「そして、彼らに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」とあり、これは本日箇所で最も大切なみ言葉です。そしてなんと、聖書本文では、2節から始まっている、イエスさまのみ言葉は、12節まで続いて、一つの「 」の中に納められています。それは主イエスさまが、先ほど選んだばかりの七十二人を送り出すに当たって、その人たちに向かい、一気呵成に語り告げている、そのようなお姿を予想することが出来ます。 
では、「収穫は多いが、働き手が少ない。」のお言葉から詳しく見て参りましょう。「収穫」とは、主なる神の御手によって司られており、これを受ける形の「働き手」、それはいま選ばれたばかりの七十二人です。その七十二人は、御子イエスさまにより働く場へと送り出されていきます。

 では、その収穫が多いのに、これを受ける働き人がなぜ少ないのでしょうか。これを解き与えるような聖書のみ言葉が、マタイによる福音書9章36節~38節にあります。ここでは、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」とあります。

 ルカによる福音書に戻り、主イエスがこの箇所で言っておられる「収穫が多い」の意味は、“たわわに実っている刈り入れ時”のイメージとは程遠く、“逆に、弱り果てている人、苦しみや、悲しみに打ちひしがれている人が多く、今すぐにでも、神の差し伸べる、救いのみ手を必要としている人が、いかに多くいるか”、ということです。そのような人々に取りましては、“収穫は待ったなしの時”、なのです。そのための「働き人」そして、先の選ばれている七十二人、更には、今日の教会に連なっていく、多くの人々に立ち上がって欲しい、と主イエスは言われているのです。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(2節b)と続けて言っています。

 3節に入ります、ここには「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」とあります。伝道者としていま選ばれたばかりの、七十二人に対して、彼らを力づけて、送り出す言葉としては、この、後半の言葉「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」には驚きを禁じえません。なにか“出鼻を折られた”思いにさせられます。では、当時の世相はどうだったでしょうか。伝道者の周りには、諸々の危険が押し迫っていた、とも考えられます。一方今日のわたしたちが、キリストの証人として、キリストの福音を世に知らせていくとき、直接は、このような危険や恐怖はないものの、伝道はそう簡単には進まないことも事実です。

 4節、伝道へ出かける際の持ち物について記しています。伝道には、今自分が身に着けているもの以外には、余分なものは持っていくな、また途中で会うかもしれない人に対しても、余分な時間は取らないように、目的地に急ぎなさい、と言っています。そしていよいよ、目的の家に入ってからです。

 5節「どこかの家に入ったら、まず『この家に平和があるように』と言いなさい。」とのことです。当時の人々は日常的な挨拶言葉としての「シャローム」(「平和があるように」)がありましたが、今、ここで言っている意味は、もっと具体的に、“神からの平和、平安がこの家にもたらされるように”という、願いが込められた言葉です。今日の世界中の人々が、このような気持ちになって、具体的に平和を願い、平和の挨拶を交わし、そして、それを実行に移して行けたら本当に素晴らしい、と思わされます。

 次は6節「この家に平和があるように」と願うことについて、その家に平和があり、また平和の申し子がいるなら、平和はその人の家に留まる、がしかし、“その平和がなくても、その平和は、あなたがたに戻ってくる”と言っています。ここで言われている「平和」これは神のみ手にあるものです、わたしたちが、いろいろ考えるよりも、全てを主なる神に託して、わたしたちは主なる神のご命令にしたがって伝道の業に励むことが大切です。

 また伝道の場として、「家から家へと渡り歩く」ことも禁じられています(7節b)。
 次は8節、迎え入れられた町に入ったら「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」とあります。この言葉は先の、5節の言葉『この家に平和があるように』よりも、一歩も二歩も進んで、具体的に、「神の国は、すでにあなたがたの家に近づいている、そのことを伝えなさい。」と言っています。伝道の目的は、その人のところへ、“神の到来を”告げる事であり、また、その成果とは、“神の国がその人の家に、実現すること”であると思います。以上、七十二人が、ある町、行く先々で、その伝道の言葉が受け入れられたときは、素晴らしい結果となりますが、もしそうではなく、迎え入れられなかった場合のことが、以下の10節~12節に記されています。もしそこで迎え入れられないときは、「それ以上、そこに拘(こだわ)らずに、ほかの伝道地に行きなさい。」と言っている、のも理解できます。その表れとして、「足についたこの町の埃さえも払い落として、そこに返せ」の言葉からです。

 そしてその際の大切なこと、それは、11節b、「神の国が近づいたことを知れ」の言葉です。それは、わたしたちが繰り広げます伝道の業は、その時の結果の如何に係わらず、神の国の福音は着実に、“終末に向かって”進んでいる、ということです。ですから、伝道者は、そのとき、その場の伝道から、次の伝道へと、気持ちの切り替えが大切である、と思わされています。何事もそれを高い視点から導いていてくださる、神のご意思に従って、伝道のわざを進めることが大切です。

 次の13節~16節の段落の教えについてです。コラジン、ベトサイダ、は、カファルナウムと共にイエスさまが最初になさった伝道の地です。イエスさまがあるとき言われました「はっきり言っておく、預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」(ルカによる福音書4章24節)の言葉に注目です。そして、伝道を受け入れない町への裁きのことが15節にありますが、わたしたちに取りまして大切なのは、16節の言葉です。わたしたちの伝道は決して独り舞台でなされるものではなく、神が中心となり、神の御心によって、わたしたちを用いてくださるのです。このことを忘れないようにしていきたいと思います。

 そして、イエスさまによって遣わされた七十二人が帰還してきて喜びの報告が17~20節にあります。ここでも大切なのは、伝道において伝道のいわば原点である、わたしたちの名は天に(すなわち神の御許に)記されている、ということです。どうか、このことに励まされ、また力をいただきながら、これからも困難をも乗り越えながら、皆さまと共に、伝道に励んで参りましょう。

(牧師 永田邦夫)