神の力によって

2023年7月2日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ヨハネの黙示録 11章1~14節
牧師 常廣澄子

 ヨハネの黙示録はよく解らないところがたくさんあって大変難しいものです。しかし、ある意味でこの黙示録は神の啓示の書ともいえるのです。私たちには覆いがかけられていて見えなくなっていることがたくさんありますが、その覆いを取り払って見えるようにしてくれる書物だともいえるということです。ヨハネに示された幻を通して、神はそれを私たちに告げています。
さてここまでのところでは、著者ヨハネは自分が見たことを、つまり天上の礼拝の様子や、ラッパを吹く度に繰り広げられる様々な出来事を語ってきました。しかし、この11章からはただ見ているだけでなく、ヨハネ自身が何らかの役割を担うことを命じられています。彼自身の行為が求められているのです。「(1節)それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。『立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。』」

 まずヨハネには「杖のような物差し」が与えられました。これは植物の葦のことです。葦という植物は幹がまっすぐに伸びていて節目がはっきりしているので、当時はこれを使ってものを測っていたようです。何を測るのかと言えば、「神の神殿と祭壇、そして神を礼拝している人を数えなさい」と言われています。神殿や祭壇が正しく測られ、そこで礼拝している者が正しく数えられるということは、神が真実の神の民(神を神として仰ぎ、その前に身を低くし、このお方を信じる信仰を言い表し、賛美し礼拝している者たち)を、いい加減にあしらわれることはしないということです。つまり正しく測ったり数えたりすることは、神がきちんと自分の民として確保し、保証し、その御手の中で守られるということなのです。教会という神の民に対しては、神の守りがあるのです。今、礼拝を捧げている私たちもまたその数に入れられ、守られていることを感謝したいと思います。

 ところがここで、「測ってはならない」と言われている事があるのです。「(2節)しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。」ここで、異邦人と言われているのは、神を信じなくて否定する人たちのことです。測ってはいけないというのは、先ほどと反対に、神の守りの中にはないということです。エゼキエル書44章9-11節を見ますと、そこには、聖所の中に入ることができる者と入ってはならない者とがあったことが書かれています。割礼を受けていない異邦人や、神殿に仕える祭司のレビ人であっても偶像崇拝に陥った者は、聖所には入ってはならないと書かれています。

 この事を文字通り機械的に受け取ったのがファリサイ派の人達です。エルサレム神殿には、異邦人の庭という場所がありますが、彼らはそこから先は聖所に入ることができません。このように、割礼を受けているかどうか、ユダヤ人であるかどうかという外面的な印で区別していたのです。しかし、今ここでヨハネが「測ってはならない」と言われているのは、機械的に外面的な印に対して言われているのではなく、神を受け入れず、神を信じない人達のことを言っています。彼らが神の民として数えられることはないというのです

 そしてこの人達が四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろうと言われています。不思議なのは四十二か月の間という期間です。これは何を意味しているのでしょうか。四十二か月というのは、十二か月で割ると三年半になります。これは七年の半分です。また日数で言えば、四十二か月に三十日を賭けると千二百六十日です。旧約聖書の時代、アラムの王アンティオコス・エピファネスが聖なる都エリサレムを占領して、神殿を破壊し、礼拝ができなかった期間がちょうど三年半であったところから(ダニエル書7章25節参照)これを文字通り三年半と解釈する人もいますが、黙示録全体の表現方法から考えますと、これは象徴的な数字だとも解釈することができます。

 三年半というのは七という完全数の半分、つまり不完全数ですから、制限された期間だと解釈することができます。また、七という数字が神の御業の完全数であるのに対して、その一つ前の六は不完全な悪の数と解釈されることがあります。今ここでは六の七倍の四十二か月が悪に赦される最大限の期間とされています。悪の力が強くて勝ち得ないように見える場合があるかもしれませんが、決して七ではないことを覚えておきたいと思います。悪の力は制限されているのです。

 今なお終わりの見えない、ロシアとウクライナの戦争もそうですが、私たちは日々の生活の中で今は悪の力がこの社会を支配しているのではないかと感じる時があります。毎日のニュースを聞くと、想像できないような恐ろしい事件が報道されています。今の時代はどこにも光が見えない、将来に希望を持つことができない重苦しい世の中です。しかし、この状態はずっと続くのではない、必ず終わりが来る、と聖書は語っているのです。

 さて、神を否定し、神に敵対する力が支配して、悪がはびこるのを許されたこの期間に、二人の神の証人が立たせられます。「(3-4節)わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう。この二人の証人とは、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である。」証人というのは、殉教者という意味です。粗布をまとっているのは、悔い改めの象徴です。この二人の証人が「地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である。」というのは、ゼカリヤ書4章から来ています。神から使命を与えられている人のことです。オリーブからは油がとれます。燭台はその油によって闇を照らす光を輝かせます。つまりこれは、全地の主である神に立てられ、主の聖霊を無尽蔵に供給されて、暗黒の時代に人々に神の言葉を語る働きの象徴なのです。この個所ではそれは教会を指しています。私たちは皆この世にあっては祭司の役割を担っているからです。その人達の群れが教会です。二人の証人は燭台であると言われていますが、黙示録1章には「七つの教会は七つの燭台である。」とありました。

 この二人の証人は極めて危険な悪の時代に、大変困難な使命のために立たせられているのですから、奇跡を行う超自然的な力をもって武装されています。神の助けが必要な時には、神は奇跡的な力を働かせてその僕達を守り助けられるのです。「(5節)この二人に害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。この二人に害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。」彼らが聖霊に押し出されて語る言葉は、火のような神の言葉であって、逆らう者を圧倒する力があったことがわかります。旧約聖書のエゼキエル書には、エゼキエルの鋭い預言の言葉に触れて、ベナヤの子ペラトヤが死んだことが書かれています。(エゼキエル書11章13節参照)

「(6節)彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力がある。また、水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを地に及ぼすことができる。」この二人の証人が行う奇跡は、エリヤとモーセが行ったことに非常によく似ています。預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力があります。また、水を血に変える力もあります。神は証人達がその使命を果たすことができるように助け、守っていてくださるのです。これと同じように私達にもいつも必要な助けが与えられているのです。

 ところが「(7節)二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。」二人の証人はその証しを終えると、底なしの淵から上って来た獣と戦って殺されてしまうというのです。底なしの淵というのは、9章1節にも出てきました。神に逆らうあらゆる悪が集まっているところです。そこから出てきた獣(これは神に敵対する力、悪魔の化身である反キリストでしょう。)が二人の証人に勝利してしまうのです。そして「(8節) 彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである。」

 多くの人達に悔い改めを迫って、力強い神の言葉を証ししてきた証人達が殺されて、その死体が大いなる都の大通りにさらされるのだと言われています。そして彼らの主もまたこの都(エルサレム)で十字架につけられたのだと語られています。二人の証人はキリストの歩まれた道を歩んでいるのです。ここでは古い時代の預言者達を思い起こさせながら、今まだ記憶に新しい主イエスの十字架の死に言及しています。そして旧約時代の預言者達と救い主の十字架が結びついています。

 イエスは十字架につけられて殺されました。人々はイエスを嘲り、ののしりました。「他人は救ったのに自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(マタイによる福音書27章42-43節)「(9-10節)さまざまの民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々は、三日半の間、彼らの死体を眺め、それを墓に葬ることは許さないであろう。 地上の人々は、彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りするであろう。この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである。」ここでも神の僕である二人の証人が死体となって大通りにさらされ、嘲弄の的となっています。世の人々は二人の証人が殺されたことを喜んでいます。勝ち誇って、互いに贈り物をやり取りするほどの喜びようです。なぜなら二人の証人は地上の人々を苦しめたからです。悪はついに勝利を得たかのように見えました。しかしその期間は三日半でした。七の半分です。神に敵対する力は必ず終わる時が来るのです。

「(11節)三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた。」三日半たって、命の息が神から出てこの二人に入ります。すると彼らは立ち上がりました。聖書が立ち上がるというのはよみがえるという意味です。この出来事を人々は目撃したのです。死んでしまった二人の遺体を葬ることが許されず、人々の嘲りの目にさらされていたその遺体が、彼らの目の前で生きる者となったのです。これを見た人々が大いに恐れたのは当然のことでしょう。

「(12-13節)二人は、天から大きな声があって、『ここに上って来い』と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。彼らの敵もそれを見た。 そのとき、大地震が起こり、都の十分の一が倒れ、この地震のために七千人が死に、残った人々は恐れを抱いて天の神の栄光をたたえた。」その時、天から大きな声がして、「ここに上って来い」と言うのを二人の証人は聞きました。人はどんなに頑張って努力し頭を鍛えても、それによって神に近づくことはできません。しかし、このお方の前にへりくだり霊の耳を研ぎ澄ませるならば、天から響くいと高きお方の声が聞き取れるのです。「ここに上がって来い」というこの命令形は、命令と同時に可能と許可の三つの意味あいが込められています。彼らは神の力によってよみがえり、雲に乗って天に上っていったのです。神の僕は、その使命が終わるまでは、いかなる危険の中にあっても守られますが、それが終わると、神は彼らを地上の務めから解放して、天の安息に迎え入れてくださるのです。

 主イエスはこの地上にあって辱められ苦しめられて殺されました。主に召された僕たちも、同じ運命をたどるのです。しかしイエスは死んでよみがえり天に挙げられたように、その僕たちも同じ運命をたどります。そのような神の僕の生涯の姿を、ヨハネはこの二人の証人によって見せられたのです。そしてその後、地上には大混乱が起きました。時に大地震が起こり、都の十分の一は倒れ、七千人が死に、残った者は恐れおののいて神を仰いだのです。

 私たちもまたキリストの証人です。日々キリストを信じる信仰によって生かされています。確かに私たちは小さく弱いですが、神がいつも私たちに力を与えて守っていてくださいます。教会も同じです。弱い時もあり、死んでしまったような状態の時もあります。けれども神は命の息を吹き入れて生き返らせてくださるのです。教会は生き続けます。今、世界には様々な災いが起こっています。しかし信仰を持ったからといって殺されることはありません。信仰をもって神の民に加えられた者は誰一人損なわれることはありません。私たち一人ひとりは神のものとして、神の前にきちんと測られ数えられていることを感謝して生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)