大きなしるしが現れた

2023年10月1日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ヨハネの黙示録 12章1~6節
牧師 常廣澄子

 聖書の中でも、ヨハネの黙示録は読んでいて、大変わかりにくくて理解しにくいところがたくさんある文書です。それは当時、キリスト教会が始まったばかりの頃はいろいろな迫害がありましたので、普通に書いたのではすぐにわかってしまいますから、わざと読んでもわからないように書かれているからです。けれども、著者ヨハネが神の霊に導かれて、天に引き上げられて見たその映像は、まるでコンピューターグラフィックで描かれたように精密な情景だったようで、それを伝えているヨハネの文章はまるで現実にそこにいるかのように生々しいものがあります。

 これまでに、七人の天使が現れて七つのラッパが次々と吹きならされ、その都度七つの封印で封じられた巻物が一つひとつ開かれていく有様を見て来ました。それはすさまじい光景でした。巻物が一つずつ解かれていく時に描き出される光景は、一言でいえば裁きの有様だったからです。

 前回お話しした11章では、「(15-17節)さて、第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。『この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。』 神の御前で、座に着いていた二十四人の長老は、ひれ伏して神を礼拝し、こう言った。『今おられ、かつておられた方、全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです。』」とあり、そこでは救い主キリストの支配が宣言されていました。そしてそれと同時に、神の怒りによる裁きも宣言されていました。それが18節に書かれています。「(18節)異邦人たちは怒り狂い、あなたも怒りを現された。死者の裁かれる時が来ました。あなたの僕、預言者、聖なる者、御名を畏れる者には、小さな者にも大きな者にも報いをお与えになり、地を滅ぼす者どもを滅ぼされる時が来ました。」
  
 このように、黙示録に描かれている幻が何を示しているかと言えば、救いに与る者にとっては勝利の道を示すもの、つまりキリストによる支配が確立されたという勝利の宣言ですが、同時に、神に敵対し罪を重ねている者たちに対しては容赦のない裁きが行われるということなのです。

 この事を私達ははっきり聞き取っていかなくてはならないと思います。「ただ信じなさい、信じる者は救われます」と私達は言いますが、救いはそんなに簡単なものではありません。この社会には、人を脅して恐ろしい裁きを語って信者を勧誘する宗教もありますが、もちろんそれは間違っています。しかし、キリストにおける救いを語る時には、この救いを拒否する者に対しての裁きがあることは知っておかねばなりません。大事なのはその中心にキリストの十字架があるということです。キリストが架けられた十字架は、滅ぼされるべき者が滅ぼされた姿です。つまりイエスの贖いを信じる者はあのような悲惨で恐ろしい滅びに渡されずに済んだという救いの恵みを表しているのです。ですから、それを受け入れない者に対してはそれなりの裁きもあるわけなのだと思います。

 さて12章に入りましょう。お読みしたところでは、ヨハネは二つのものを見ました。女と竜です。先ず一人の女が登場してきます。「(1節)また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。」これは何とすごい光景でしょう。私たち人間が想像でき得る範囲を超えています。私たち人間の目では、まぶしすぎて太陽をまともに見ることはできませんが、この女はその太陽を着ているのです。足の下には月を置いて、頭には十二の星がついた冠をかぶっています。この女は全身が光り輝いています。全宇宙的に光り輝く姿です。これは非常に祝福された姿だと言えます。

 さらに注目することは、この女が子を宿しているということです。「(2節)女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのために叫んでいた。」この女は、産みの苦しみの中にあります。それから次に出て来るのは竜です。「(3節)また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。」続いて「(4節)竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。」竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしています。

「(5節)女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。」女は男の子を産みました。その後を読みますとおわかりのように、ここに表されている男の子は明らかにイエス様です。何の力もない無力で無防備な赤ちゃんとしてこの世に来られたイエス様です。このお方がこの世を救うメシア、救い主であられたのです。「この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。」と記されています。これは詩編2編の言葉から来ています。「(詩編2編7-9節)主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし 地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く。』」ここには御子イエスが鉄の杖ですべての国民を治めることになることが示されています。そして女が産んだ子どもは神のもとへ、その玉座に引き上げられました。復活されたイエスは今も生きて神の右に座しておられます。

 では天の大きなしるしとして現れた女はいったい誰でしょうか。イエス様を産んだのですからマリアだという解釈が古くからありました。とりわけカトリックの研究者たちの間ではこの解釈が支配的でした。この女は太陽を身にまとい、月を足の下にして、頭には十二の星の冠をかぶっているという実に神々しい姿でしたから、それがマリア信仰を生むきっかけとなったようです。

 しかしながら、古くから多くの人は、黙示録に示された輝かしい女は、教会を表していると解釈してきました。なぜなら教会は全天全地を貫く大きな祝福に与っている群れだからです。この女の頭にある十二の星をつけた冠は、夜空に輝く数えきれない星のように祝福を受けていることを象徴しています。言い換えると、ここには、神が受け入れ、神が祝福し、神の救いの約束に与っている教会の姿、キリストの民の姿が、一人の輝く女の姿として現されていると考えられます。
教会は全世界の人間の代表でもあります。つまり教会は地上において神の御心をなすところであり、神の子たちを産み出すところです。その教会が苦しんでいるというのは、全世界が苦しみ呻いていることです。教会が産み出そうとしている、その胎の実は希望の星です。しかし産もうとしながら産まれてこないその悩みと苦しみのゆえに女は泣き叫んでいるのです。

 パウロは、ローマの信徒への手紙の中で(8章22節)、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」と語っています。また。
列王記下19章1-3節には「ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に行った。また彼は宮廷長エルヤキム、書記官シェブナ、および祭司の長老たちに粗布をまとわせ、預言者、アモツの子イザヤのもとに遣わした。彼らはイザヤに言った。『ヒゼキヤはこう言われる。“今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない。”』 
と書かれています。ここには「胎児がまさに生まれようとしているのに、その力がない。」という言い方で、古い時代から希望の星であり救いの実であるものを生み出すことができない全人類、全被造物の悲しみの心を言い表して来ました。

 さて、3-4節にありますように、ヨハネが見たもう一つのしるしは竜でした。聖書では古い時代から神に背いて神の民を誘惑したり、神の民をそこなおうとする者を蛇や竜に譬えてきました。今ここに書かれている「火のように赤い大きな竜」は大変猛々しい暴力的な怪物です。このグロテスクな怪物の中には破壊的で悪魔的な力があります。主なる神が人間を救おうとされる時、そうさせまいとする力が強力に動き出すのです。救い主が生まれようとする時、それに対抗する悪魔、サタンが現れるのです。この竜には七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていました。
王冠をかぶっているということは、この地上を支配する力を持っているということです。その力は強大です。その尾で、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけると書かれています。この竜が暴れると、その尾を一振りしただけで人々はなぎ倒され、次から次へと破壊されていくのです。

 そのように猛々しい破壊力を持った力は、いつの時代でも人間の魂や生活を破壊していきます。
それはしばしば国家権力の形を取って武力的な形で現れます。最新鋭の精密な破壊兵器の形で現れることもあります。今日では一個の爆弾で多くの人間を殺傷することができる大量破壊兵器がつくられ、それが戦場で使われています。生物化学兵器という恐ろしいものも造られています。次から次へと今ある兵器を上回る兵器が造られているのです。軍拡競争です。ある国が最新鋭の兵器を造ると必ずそれを上回る兵器が造られます。そこに働く原理は、殺戮と破壊の原理です。人間をそのようにさせる力がこの赤い大きな竜の働きだと言えるのではないでしょうか。

 悪魔とかサタンを描いた絵を見ますと、それらはいかにもそれらしい姿で描かれています。見ただけで悪魔だ、サタンだとわかる姿です。しかし、本当は悪魔やサタンはそのような姿ではありません。ここに描かれている竜のように王冠をかぶり、力に満ちています。人々はこの人こそ自分たちの王だ、この人に従って行けば自分も強くなって成功するに違いないと思うのです。サタンはいろいろと姿を変えて現れ、実に巧みに人々を支配していくのです。パウロの言葉で言えば、サタンもまた光の天使に偽装するのです。

 私達はこれをただの物語だと思ってはいけないと思います。今日の世界もまたこの赤い竜の恐ろしい力に怯え、しかもこの赤い竜は女が産もうとしている子を食い尽くそうとして前に立ちはだかっています。つまり、教会の前には竜がいて、神を否定する力で立ちはだかっているのです。竜は人間が最高の存在だという思いにさせます。そして人間の力や知恵や知識を神のように思わせます。人間はこれから先ますます「神なんかいない」「私がすることは正しい」という思いになり、命も宇宙もすべて手に入れられると思うようになっていくのではないでしょうか。サタンは人間の心に働いて、何とかして神から引き離そうと働きかけているのです。

 女から産まれた子が神のもとへ、天の玉座に引き上げられた後も、女はなお地上にいます。復活されたイエスが天に帰られた後も教会はこの地上に残されているのです。地上に残された教会の前にはなおも竜が立ちはだかっています。そのように教会はいつも神に敵対する力や攻撃にさらされています。しかしそのような厳しい状況の中で、教会は守られているのです。最後の6節には「女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。」と書かれています。

 荒れ野は決して住みやすい場所ではありません。水も食べ物もありません。昼は強い太陽で焼かれ、夜は冷たい空気に震えます。いつ猛獣が襲ってくるかわかりません。そういう場所に神が備えられた逃れの場所があるのです。千二百六十日の間、女が養われるように神が用意してくださっています。千二百六十日というのは、11章でもお話しましたが、42ヵ月、3年半です。永遠ではないのです。限られた期間ということです。この期間、神が私達教会を守って養ってくださるのです。

 荒れ野は聖書の中ではよく出てきます。すぐに思い出すのは、エジプト出た民が40年間荒れ野をさまよった出来事です。荒れ野の生活では人々はただ神だけに頼って生きていました。荒れ野の中では私達人間は神が私達を守ってくださる、私達の必要なものを与えてくださることを体験するのです。そこでこそ私達は神に信頼していけば大丈夫だということを身を持って知るようになるのです。今荒れ野にいるように感じておられる方がおられるかもしれません。逆境の中で苦しみ、悩み傷ついておられるかもしれません。でもそこにも神の守りがあります。どこにいてもどんな時も神の支えがあること、神が私達を守ってお導きくださることを信じて生きてまいりたいと思います。

(牧師 常廣澄子)