2023年11月12日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』
ルカによる福音書 11章14~28節
牧師 永田邦夫
本日もご一緒に、引き続きルカによる福音書からのメッセージをお聞きして参りましょう。 本日箇所に入りますと、その冒頭14節aは 「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。」 と、主イエスが日常的に、悪霊追放による病気の癒しを行っておられたことを伺わせる記述です。
また、ルカによる福音書を遡って見ていきますと、主イエスは、伝道開始から間もない頃すでに「汚れた霊にとりつかれた男の癒し」(4章31節から)、そして、「シモンのしゅうとめの癒し」のとき、そこに集まって来た多くの人から悪霊追放を行ったこと(4章38節から)などが記されています。さらに進みますと、主イエスは十二弟子派遣の際に、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった、そして、神の国をのべ伝え、云々」(9章1節、2節)と主イエスにさらに弟子たちも加えて、悪霊追放を広く行っていたことが記されています。
本日箇所に戻りまして、14節bには「悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。」とあります。この日も、主イエスが行った悪霊追放によって、口を利くことが出来なかった人が癒され、ものを言い始めたので、これを見ていた群衆は大きな驚きを露(あらわ)にしたのです。さらに続く15節、16節には、「しかし、中には、『あの男は悪霊の頭(かしら)ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。」と記されています。イエスが行った悪霊追放の出来事を傍らで見ていた群衆の中には、前述のごとく、素直に驚きを示すのではなく、軽蔑的に「あの男は、悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているだけだ」と揶揄する者、さらには、イエスを試そうとして、「本当に天からのメシアならもっと大きなしるしができる筈だ、それを行ってみろ」と、けしかける者もいたのです。
なお、ルカによる福音書では、このような三者三様の人たちが、どんな人たちなのか特定はしていませんが、共観福音書の並行記事に目を通しますと、マタイによる福音書(12章24節)には、“主イエスは悪霊追放のわざを、悪霊の頭ベルゼブルによって行った”と、ファリサイ派の人々がイエスを中傷した、と記しています。また、マルコによる福音書(3章22節)には、エルサレムから下って来た律法学者がイエスを中傷した、と記しています。なお、ルカによる福音書で、このように特定していないのは、本書がローマの高官への献上を目的とし、また異邦人を視野に入れながら、世界的視野で書かれていることにその理由があると考えられます。
長くなりましたが次の17節に入りますと「しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。『内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。」とあります。なおこのとき、主イエスが言われた言葉は、この17節から始まって23節まで続いています。順次見ていきましょう。
17節で大事なお言葉は「内輪で争えば、どんな国でも倒れてしまう。」このことです。“主イエスが行った悪霊追放のわざは、その悪霊の頭ベルゼブルの力で行ったのだ”、として、悪霊の集団を一つの国に見立てて、言われたのです。ここにもイエスさまのユーモアが現れています。
なおここで、悪魔、サタン、悪霊、ベルゼブルなど、紛らわしい言葉が沢山出てきますので、それらの関係や働きについて整理しておきましょう。天には悪魔(「サタン」ともいう)がおり、その悪魔は、地上にいる沢山の悪霊に指図して、人間の中に入り込ませ、いろいろ悪い働きをさせる、と言われています。そして本日箇所にも出てきましたが、悪霊の頭がベルゼブル(バアル・ゼブル→その意味は「悪の大邸宅の主:ぬし」と呼ばれている)や、また、沢山の悪霊が同じ人の中に入りこんだ、レギオンの例(ルカによる福音書8章30節)等があります。なお、“悪霊が沢山いて、内輪で争っている”としか思えないその例は、昨今の社会の中に“否というほど”沢山あります。早く止んでほしい、と祈るばかりです。
次は18節、「あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行けるだろうか。」とあります。ここの意味は、もうよく理解していただけると思います。また、ここで “あなたたち”と呼んでいるのは誰を指すかは前述のとおりです。
次は19節です。その前半には「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。」とあります。ここで、“あなたたちの仲間”と言っているのは誰のことでしょうか。これについても、ルカによる福音書は特定していませんが、この箇所について、神学者の解説によりますと、当時のユダヤ人の中には、呪文、やまじないによる祈祷師がいて、悪霊追放を行っていた、とのことで、これらの人々を指している、とも考えられています。
次は20節です「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」とあり、ここには、「神の指で悪霊追放を行う」ことと、続いて、「神の国の到来」の二つのキーワードが並んでいます。実はこの二つとも、同じ意味のことを、言葉を代えて言っているのです。主イエスご自身が悪霊追放を行っていた、そしてそのこと自体が、神の国の到来なのだ、と言うのです。「神の指で」とは、神の力で何かを行うことです。そしてそのことによって、神の国が、そこに実現するのです。“神の指で行う”ということについて、旧約聖書から、その例を見ましょう。 出エジプトの時その直前にモーセがファラオの前で行った奇跡(あぶの災いをなくす)の出来事(出エジプト記8章16節~28節から)や、シナイ山でモーセが神からいただいた石板、すなわち十戒が刻まれている石の板のこと(出エジプト記31章18節)などが想起されます。
では21節、22節に入ります。21節「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。」ここは、サタンの働きについて、五つの言葉を並べながら説明しています。強い人、武装、自分の屋敷、守る、安全、等々です。サタンはこのように、二重三重にも、自分の身の回りを固めようとするものです。しかし、そのサタンより、もっともっと強いものが現れたらどうでしょうか。それが次の22節に「しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具を全て奪い取り、分捕り品を分配する。」と記されています。ここで。“もっと強い者”とは、他でもなく、主イエスのことです。イエス・キリストが悪魔に完全に勝利するために人間世界に来られました。以前は、罪がその人を雁字搦(がんじがら)めにして、身動きできないようにしていましたが、イエス・キリストが、世に来られたことによって、人間を自由にし、罪から解放してくださった、これが、“罪からの解放”です。
以上、21節、22節は、“サタンによる人間の束縛”と、“イエス・キリストの到来による解放”の二つを、ものの見事に対照的に記しています。これは言葉を代えると、罪の世界、と、神支配、両者の違いを、わたしたちに示しています。また、わたしたち、キリストを信じている者は、世の人に力強く、このことを示していかなければなりません。
次は23節「わたしたちに味方しない者はわたしたちに敵対し、わたしたちと一緒に集めない者は散らしている。」とあります。この言葉の趣旨は、“人は罪の縄目の支配”にとどまるか、“神のご支配のもと”すなわち、キリスト共に生きるか、そのいずれかである。その中間、すなわち、“どっち付かず”の状態はあり得ない(あってはならない)、と言っています。「わたしと一緒に集める」、「――集めない」とは、“羊の群れの世話をする良い羊飼い”(ヨハネによる福音書、10章1節~4節)のことを意識しながら、わたしたちに良い羊飼いになってほしい、と告げているのです。わたしたちは、キリストに在って神の国を証しし、一人でも多くの者をキリストへと導いていく、キリストが集め給うその働きに与らせていただきたいと、ひたすら願う者です。
次の段落(24節~26節)に入ります。ここでは、汚れた霊が人から出て行った後の行動がどんなものかが示されています。出て行った悪霊は,自分がもと居た場所の様に、居心地よい場所を探しますが、結局それが見つからず、自分が出て来た元の場所に戻ろうとする。そして、戻ってみると、そこは空き家になっていて、掃除もしてあり、すっかり整えられていた。そこでまた、悪霊は出て行って、今度は自分よりもっと悪い七つの霊(完全に悪い霊どもを大勢)を引き連れ来て住み着く、と言います。するとその家は以前の状態よりもっと悪くなるのです。
“その家”とは自分の心です。自分の肉体を住処(すみか)としている心、そして霊の全てです。人は、もし中途半端な心、精神でいたいと望むなら、そこには悪が蔓延(はびこ)って、この上ない悪い状態なります。そして、キリストに在る、清い信仰的な心を取り戻そうとしても、なかなか、それを取り戻すことが出来ず、結局、元の状態より更に悪なるばかりだ、と言います。人は、この世的な悪にも染まらず、また信仰も持たずに、中立状態を保つことはできません。この箇所は、そのことを私たちに示しています。
本日箇所は次の27節、28節までとしていますのでそこに目を通しましょう。「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群集の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょうあなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』」とです。ここを読みますと、天使ガブリエルが、イエスの母マリアのもとにきて言った言葉、すなわち「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカによる福音書1章28節b)を思い出します。
本日は、新共同訳聖書では、ベルゼブル論争との表題がありますが、悪霊追放にまつわる論争から、「神の国の到来」について、そのメッセージを聞いて参りました。感謝いたします。
(牧師 永田邦夫)