2024年3月17日(主日)
主日礼拝
コリントの信徒への手紙 一 14章26~40節
牧師 常廣澄子
今朝もこうして皆さまとご一緒に主なる神を礼拝できますことを心から感謝いたします。私たちは神を信じる者とされ、毎週の礼拝を守るように教えられてきました。そして日曜日には教会の礼拝に出席するということが自然に身についてきました。もちろん私たちが住んでいるこの社会は、キリスト教的な風土があるわけではありませんので、日曜日にいろいろな仕事や用事ができて教会に来られないこともあります。しかし、神を信じる者の生活は、基本的に教会生活が基準になっているのではないでしょうか。週の始めに礼拝に出席することで、その一週間の歩みやその生活が整えられていくのだと思います。
しかしこのように言いますと、日曜日に教会に行ける人は幸せかもしれないけれども、世の中はそんなに甘くない、日曜日に働かなければならない者はどうなるのだ、とお叱りを受けるかもしれません。また、この3~4年は新型コロナウイルス感染症のまん延を防止するために、人が集まることを極力避けて来たこともありますので、教会に集まることを止め、インターネットによる配信によって自宅にいても礼拝が守れるようになって来ました。これは大変便利なツールですが、教会に行かなくても礼拝ができるのであれば、わざわざ教会に行かなくても自分で信仰を持ち続けていれば大丈夫だ、と考えるようになってしまった人も少なからずいるようです。しかし、このような状態は健全な信仰生活ではありません。実際、神を神とする信仰の心はだんだん冷えていってしまうのです。
確かに信仰は一人ひとりが神との間に結ぶ関係ですが、私たち一人ひとりがバラバラではイエスの体である教会はできあがりません。2024年度、私たちの教会の年間主題は「キリストのからだを建てあげる」であり、年間聖句は「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリントの信徒への手紙一 12章27節)というように決まりました。私たち一人ひとりがキリストの体である教会の部分であることを知り、教会に属する者として生きているかどうかが、神を信じる者として、秩序正しく生きているかどうかの尺度となるのです。
今朝は26節からお読みいただきましたが、パウロはここまでずっと異言を語ることや預言することを語って来ました。ここからは礼拝全体について語っています。この26節を見ますと、当時の礼拝の様子を想像することができます。「(26節)兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。」当時の教会は、今の私たちの礼拝のように説教者が立てられていたわけではありません。そこでは聖霊に導かれて、出席者のそれぞれが思い思いに語っていたのです。感動する者は賛美を歌い、教えたり、証ししたり、異言を語ったのです。パウロはこれらすべてを「あなたがたを造り上げるためにしなさい」とその目的を語っています。すなわち、それら一切はそこに参加している者たちの信仰に役立つものでなくてはならないということです。
また、その集まりが教会の益になるためには、すべてが秩序正しく行われなくてはなりません。「(27-28節) 異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。 解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。」異言を語る者がその集会を独占してはいけないのです。多くても三人くらいに制限して、それも一度に全員が語るような騒々しいものではなく、順番に語りなさいと勧めています。そして異言だけでは誰も分からないので、誰か一人が必ず解釈すべきだと言っています。またもし解釈する人がいないならば、教会での異言はさし控えて、後で自分だけで神に向かって語りなさいと言っています。
預言の場合も異言の場合と同様です。「(29節)預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。」預言する者は二人か三人に制限して、その他の人たちは聞き役に回って、語られる内容をよく検討しなさい、つまり良く吟味することが大切だと語っています。また「(30節)座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。」一人が長時間話すことは好ましくない、もし誰か他の人に聖霊の促しが与えられ、何かを語ろうとしているなら、先に話していた人は早々に自分の話に決着をつけて順番を譲りなさい、とも勧めています。一人で長々と話し続けることは慎むべきである、こういうことは集会の秩序を整えるために大切なことだとパウロは語っているのです。
こうした忠告は、ただ漫然と聞いていると何でもないことのように聞こえるかもしれませんが、実際にはそんなに簡単な事ではありません。自分が心を込めて信仰のことを一生懸命語っている時に、それを止めなければならないのは、たくさん話したいことがある人にとってははなはだ残念なことだと思います。おそらくコリント教会の集会では、教会員の誰もが相当熱く熱心に語っていたようですから、余計難しいことです。自分の後で話し出した人が、自分が話そうとしていたことを話しているとしたら、ますます釈然としない気持ちにさせられることでしょう。しかしそういうことも含めて、誰もが喜んで次の人に順番を譲れるようになりなさいというのです。そして話の上手な人も下手な人も、若者も高齢者も誰もが何の差別もなしに自由に信仰を語れるようになって欲しいというのです。
「(31節)皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。」これが一人だけが集会を独占してはいけない理由です。もしすべての参加者が、一人ひとり、たとえどんなに短くても順番に語る機会が与えられたなら、聞く人はいろいろな異なる体験を通して、様々な教訓や奨励を受けることができます。そして多くの益を受けることができます。だから、パウロは集会ではできるだけいろいろな人に話してもらう機会を設けるのが 望ましいのだと語っています。
しかし、預言する人の中にも、自分は霊感を受けたからといって、感動のままに長い話をして全体に迷惑をかけていることを意に介さない人がいたかもしれません。しかし預言する者は自分の霊を自分の知性と意志で制御できるはずなのです。「(32節)預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。」預言する者は、神がかりになって節度を失った心で語っているのではありません。預言は正常な精神によってなされるべきものです。ですから非常識であったり、無節制で混乱をひき起こしたり、無秩序であるはずがないのです。「(33節) 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。」とあるとおりです。
もしそれがどんなに熱心であろうとも、無秩序で喧騒を極めるような集会であるならば、決して教会の益となり、一人ひとりの信仰を成長させることにはなりません。ですからすべての集会は秩序正しく行われるべきです。その大きな理由は、33節にあるように、私たちが信じる神は平和の神であり、秩序を愛されるお方だからです。神は混乱と喧騒を嫌われるのです。神が造られた世界にも整然とした秩序があります。神はそれらをご自分の意志と目的にそって正しく導いておられるからです。
さて、集会における秩序について警告してきたパウロは、続いて教会の中での婦人たちの行為について語っています。11章2-16節では、礼拝での婦人の頭のかぶり物について語っていましたが、ここでは婦人たちの発言について語っています。「(33-35節)聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。」
ここを読むと、11章5節で女性も教会で預言することが認められていたことと、何か矛盾するように思えます。ここでは、女性は教会では黙っていなさいとか、女性が教会で語ることは許されていないとか、何か知りたいことあったら、家で自分の夫に聞きなさいとか、女性が教会の中で発言するのは恥ずべきことであるとか、一見女性の立場を認めていないような内容です。34節に「律法も言っているように」というのは、創世記3章16節の「お前は男を求め、彼はお前を支配する。」を指しています。しかし、ここでパウロが男を主であり、女をそれに従う立場に置いているのは、その本質においてではないと思います。パウロは他の手紙では、神の前には男も女もないこと、本質において男も女も人間は皆全く同等であることを語っているのです。
これらの言葉から察していくと、コリント教会では、キリスト教には男も女も差別はないのだと知った女性たちが目に余るような出過ぎた発言をしたり、集会中に質問をしたりおしゃべりしたりして集会の秩序を乱すようなことがあったのではないかと想像することができます。だからこの個所は、そうした人たちに、その行為を制して慎みを命じているのだと考えられます。実際に教会の秩序を保っていくためには、その当時のコリント教会の実情を考えて、こうした実際的な処置を取らせたのではないかと考えられます。
「(36節)それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。」しかしながら、他のすべての教会で行われていることが、どうしてコリント教会に適用できないのでしょうか。コリント教会がそのような無秩序になっているのは、まるで自分たちだけが神の救いを知っている、つまり自分たちが福音を作った気になって自由にふるまっているようなものです。しかし、そうではありません。実際、神の救いの言葉はすべての教会のものです。コリント教会はその中の一つです。ですからすべての教会に通じることには、本来はコリント教会の彼らもまた従順に従うべきなのだとパウロは語っているのです。
「(37-38節)自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。」この言葉には、少々パウロの皮肉が入っています。コリント教会には、異言を語れることを誇る人がたくさんいたように、いろいろな賜物を持った人たちもたくさんいて、彼らは自分が与えられた賜物を誇示するような雰囲気があったようです。ですから、いやしくも「自分は預言する者である」とか「霊の人である」と自任している人であるならば、いままで、パウロが説いてきたことを、それはパウロ個人が勝手に語った言葉ではなく、明らかに「主の命令」であると認めるのは当然のことである、パウロが語った言葉を聞いて、これを「主の命令」と認めることができないならば、その人は「自分は預言する者であるとか、霊の人である」とか言われる資格はない、とまで語っているのです。
「(39節)わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。」パウロはもう一度優しい言葉で最後の締めくくりをしています。預言を熱心に求めなさいといって、14章1節で語ったことを繰り返しています。そして異言も禁じていません。人々が語る異言を妨げないようにと言っています。「(40節)しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。」これが、今までいろいろ語って来た教会の実際的問題についてのパウロの結論です。預言も異言も賛美も教えも、すべてのことが極端に流れず、常軌を逸せず、秩序正しく行われなくてはならないということです。コリントという、物流、交通の要所で、多くの人が集まる土地にある教会が、秩序を維持して福音伝道に励んでいくことはパウロが強く望んでいたことでした。
私たちが現在行っている礼拝も、主の御名にふさわしく適切に秩序正しく行われているかどうか、常に顧みなければならないと思います。私が今までに参加したことがあるいくつかの礼拝のことを考えると、霊的であると思われている礼拝には、ややもすると人間的な感情が入り込み熱狂と無秩序になる傾向がありますし、他方、秩序を重んじて厳粛に行われている礼拝には、はつらつとした霊の力が欠けて、ただ機械的に行われてしまう感じがあります。どうか私たちの礼拝を主が祝福してくださり、一人ひとりの霊の賜物が十分生かされて活気に溢れ、しかも厳粛で秩序正しい礼拝をささげることができますようにと心から願います。礼拝は伝道の第一線です。たとえどんなにささやかな礼拝であっても、ここに私たちの神を思うすべてを注いで信仰の心を言い表していくなら、そこに秩序が生まれ、神の平和があり、神が生きておられることを示し得る礼拝となると信じております。
(牧師 常廣澄子)