2024年4月14日(主日)
主日礼拝『 召天者記念礼拝・誕生日祝福 』
コリントの信徒への手紙 二 5章1~10節
牧師 常廣澄子
今朝は、ご一緒に主にある生活を共にした方々やそのご家族など、先に天の家にお帰りになった方々を偲んで記念の礼拝をおささげしています。今お名前を読み上げていただきましたが、まだそこにおられるのではないかと思ってしまうような方々もおられます。日頃親しくお話ししたりお交わりして来た方々のことは、在りし日のお姿が目に浮かび、いつまでも心に残っています。 今、天に帰られたと申し上げましたが、まだこの地上にいる私たちには、それがどこにあるのか、この世から姿を消された方々は今どこにおられるのか、何もわかりません。けれども先日もお話ししましたが、主にあって死ぬ者は本当に幸いな者です。主イエスのおられる天に迎えられているからです。まずそのことを感謝したいと思います。
今朝はコリントの信徒への手紙から、御言葉を読んでまいりますが、この手紙はパウロという人によって書かれました。パウロは主イエスを信じる前、クリスチャンを捕らえて牢に入れたり、迫害していた人でした。主を信じる者たちを捕らえようと必死になっている時に復活の主と出会い、180度人生の方向転換をして、今度は逆に主イエスの福音を語る者となったのです。主の救いの福音、つまりキリスト教が各地に伝えられて、真の神を信じる人が起こされていった背景には、パウロによる大きな働きがあります。(実に新約聖書の中にある手紙のうちの七つは直にパウロが書いたものですし、その他にもパウロに関係しているものがたくさんあります。)
しかしパウロが伝道していた頃は、まだまだ律法の教えにがんじがらめになっているユダヤ教の力が強く、異教の神々を信じる偶像礼拝もたくさんあって、主イエスの福音を語り伝えることは簡単なことではありませんでした。どれほど大変な苦難や試練の連続であったかは、このコリントの信徒への手紙二 11章23-28節に書かれています。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」
ここを読むとおわかりのように、パウロが受けた艱難辛苦は並大抵のことではありませんでした。一つ一つ取り出して考えてみても決して軽いものではありません。しかしそのような苦難の中にあるパウロを支え、慰めていたものがあるのです。そのことが明らかにされているのがこの個所です。
実はこの個所は4章16節からつながっています。そこでは「外なる人」と「内なる人」という表現が出てきます。つまり、私たちの肉体や古い人間性は衰えていくけれども、新しく生まれ変わって、その内にキリストの霊を宿す人は、日々新しくされ成長していくという比較の表現です。また、今目に見えているのは彼が受けている艱難や苦難ですが、彼の目にはまだ見えていない永遠の栄光がありました。パウロは数々の苦難に遭う時、それをいつも永遠の重い栄光との比較において見ていたのです。つまり見えないものに目を注いでいくことによって、今目の前に見えている困難や悲しみに勝利することが出来たのです。パウロにとっての伝道生活は、様々な苦難によって絶えず死の危険にさらされていました。しかし彼の中では、死はそのとげを失っていた、つまりパウロは死が恐くなかったのです。その理由を探っていきたいと思います。
天に挙げられる時、イエスは「わたしはまた戻って来る」と言われました。ですから人々はイエスの再臨は近いと思っていました。パウロもイエスの再臨が近いと信じて伝道していたのです。主の再臨が来る前に何とかすべての人に福音を伝えたいと必死に各地を歩き回り、救いの福音を伝えていったのです。
コリントの信徒への手紙一15章で、パウロは死者の復活について語っています。「(51-53節) わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」
パウロはこの「一瞬のうちに今とは異なる状態に変えられる」という祝福に自分も与りたい、再び来られるイエスによって栄光の姿に変えていただきたいと願っていたのかもしれません。けれども、その願いが満たされるとは限りません。その前に死ぬかもしれません。しかしもしそうであっても、その時には輝かしい主のみ前に招かれ、天上の住まいにおいて主と共に住める祝福がある、パウロはそう確信していましたから、何があろうと恐れませんでした。彼の願いはどうしたら主を喜ばせることができるであろうかということだけだったのです。
パウロほどではありませんが、私たちもこの地上でいろいろな苦難があります。しかし主を信じる者にとっては、この世の生は終わり、やがて永遠の栄光に変えられるということを知っています。なぜならば、この滅んでいく体のかわりに不死の体を与えられる約束があるからです。「(1節)わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」
現在の私たちの体は、ちょうどキャンプ等をする時に地面に張るテントとか、車や自転車などに掛けておくカバーのようなものを想像すると良いかもしれません。長い間雨風にさらされていると古びて弱くなり、やがて破れてボロボロになります。それと同じで、私たちの肉体も長年の苦労でだんだん弱ってきて壊れる時がきます。つまり死を迎えます。肉体の命はすべて死に定められているからです。しかし主にある者には、「神によって備えられている建物」「天にある永遠の住みか」が備えられているというのです。それは神によって用意されているものであり、一時的なものではなく永遠の住まいです。
パウロがこの地上の肉体を幕屋(テント)に例えたのは、自分がテント造りの仕事をしていたためかもしれません。あるいはイスラエルの民が約束の地カナンに入るまで、天幕生活をしながら、困難な荒れ野の旅を続けていたことを思っていたのかもしれません。そのように私たちはこの世では一人の旅人であり寄留者です(ヘブライ人への手紙11章13節参照)。この世にずっと千年も万年も住み続けることはできません。私たちが本当に落ち着くところは神と共にある所、私たちが出てきた所なのです。
苦難の中にあるパウロを支えたのは、そのような希望でした。そしてその希望が強ければ強いほど、一日も早くその復活の栄光の体を与えられたいという願いも強かったことでしょう。パウロは、肉体の体を栄光の体としてくださる主の再臨を待ち焦がれていたようです。「(2-3節)わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。」ここからは幕屋(テント)という「家」の例えから、「着物」のように、新しい霊の体を「着たい(3節)」、古いこの地上の幕屋を「脱ぐ」という表現になっています。
「(4節)この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」実際パウロは、壊されそうな弱い肉体という幕屋に閉じ込められ、様々な苦難に押しつぶされそうな状態の中でもがき苦しんでいました。しかしそのような苦しさや厳しさに耐えかねて「地上の住みかを脱ぎ捨てる」つまり死によって自由にされ、人生から逃避しようというのでは断じてありませんでした。そうではなく、死人をさえよみがえらせる神の力によって、キリストの命に支配され、神の子たる身分を授けられることを望んでいたのです。ですから、むしろ古い体の上に霊の体という新しい着物を着ることを切望しているのです。すなわち裸にされるのではなく、上に着ることによって、死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうように、新しい存在に与ることを待望しているのです。
つまり、彼は地上にありながら、輝かしい天上のものを得ようと、一所懸命に魂の羽ばたきをしているかのようです。それは地上の生活に疲れて死を願うような消極的なものではなく、限りない神の祝福と栄光を知っているがゆえの希望です。そしてこの希望が満たされることの一切はただ神のみ手にありました。「(5節)わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。」神はイエスを通して私たちに贖いの御業を成してくださり、新しい命を与え、聖なる者として成長していくように導いていてくださいます。そうした一連の神の働きの中にこの希望があるのです。主なる神を信じる者に与えられる神の御霊は、私たちの内に、天にある永遠の住まいを思う気持ちを与えて、日々力づけていてくださるのです。パウロはローマの信徒への手紙8章23節で、このように願い求めています。「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」
実にこの希望は空しいものではありません。なぜなら霊の体を与えてくださるのは神であり、「神は、その保証として“霊”を与えてくださった」とあるからです。救いの完成は、単なる願望や幻想ではなく、御霊によって保証されているのです。「保証」というのは、売買契約を結んだ際に支払われる手付金のことで、契約の当事者はそれによって権利を取得するのです。信仰者に与えられている御霊は救いの完成ではなく始まりであり、身体のよみがえりの保証です。同時に、神は御霊を保証として送ってくださったことにより、救いの完成をも約束しておられるのです。ですから「わたしたちはいつも心強い」のです。パウロは「心強い」という言葉を6節と8節と二度も繰り返しています。
主を信じる者は御霊に導かれています。また将来、栄光の体が与えられる保証をいただいているのです。このことを思うなら現実がどんなに苦しく辛くても心強く生きていくことができます。6節に「体を住みかとしているかぎり、主から離れている」とありますが、これは私たちがこの世で肉体をもって生きている間は、もっと純粋に信仰生活を送りたいと思ってもいろいろな制限があってできないけれども、肉体を脱いで天の住まいに移された時には、私たちはもっと近くキリストと結ばれるということです。ですから死は恐れでも暗黒でもありません。より尊い栄光に入る入り口です。だからどんな時も心強く希望と喜びをもって生きることができるのです。
私たちはただ肉眼で見える世界だけに生きているのではありません。目に見えない世界があるのです。その見えない世界を理解させてくれるのが信仰です。私たちは信仰によって永遠の栄光を目指して一歩一歩進んでいるのです。また、いかなる時にも心強く生きることができるのは、確かな希望が与えられているからです。パウロは肉体を離れて早く天上の住まいに移って栄光の主と共に住みたいとまで、願っています。また使徒パウロの願いは「ひたすら主に喜ばれる」ことでした。「(9節)だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」
続けてパウロは、すべての者は皆神の裁きの下にあることを語っています。「(10節)なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」終わりの時、私たち人間は一人残らず神の前に立って「めいめい体を住みかとしていたときに行ったこと」を問われるのです。私たちはその行為に対して報いを受けるのです。それは神に仕えるか罪に仕えるかで善とも悪ともなります。しかしここで私たちは心から神の恵みに感謝いたします。主イエスの贖いのみ業を信じる者は、ただその信仰によって既に神の裁きが終わっているからです。神の恵みは人間の行為や業とは関わりなく与えられるもので、神に救われるために人間には何の業をも求められていないのです。ただ神の御子イエスの贖いのみ業を信じ、受け入れ、従うだけです。私たちは主に赦されて、導かれています。ですから、ただ主の前に日々応答の歩みをなしていくことが大切なのです。
パウロは、将来の栄光に心奪われて、現実の生活をいい加減にして良いとは決して考えませんでした。その栄光があればあるほど、日々緊張と恐れの中に過ごさねばならないと考えていたのです。この地上の生活を終えて早く主のお傍に行きたいと切に望みながら、なお地上にあって成すべき業を担うことに、強く責任を感じて生きていこうとするのがパウロの生き方でありました。私たちもまた、生きる時も死ぬる時も、主に喜ばれることを願いながら生きてまいりたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)
聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©️1987, 1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による。