2024年5月12日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』
ルカによる福音書 13章10~17節
牧師 永田邦夫
本日もルカによる福音書からのメッセージをご一緒に聞いて参りましょう。
本日箇所は標記の通り、13章10節から「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。」と始まっています。
先ず、主イエスが地上で歩まれた伝道の歩みを俯瞰しておきましょう。主イエスは、ご生涯の最終目標とされていました十字架の死と復活について、最初に弟子たちに告げられた言葉が、このルカによる福音書(以下「本書」と略記)9章21~22節に「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。』」とあります。
それから、さらに主イエスの歩みが進みまして、三度目の予告が、エルサレム入城を前になされた予告で、本書の18章32~33節に「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」と記されています。
さらに、本書の初めの予告から三度目の予告に至るまでの、主イエスの伝道の歩みの中で、わたしたちに対して非常に厳しさを感じさせる出来事があります。それは、主イエス変貌の出来事(9章28~36節)、そして「弟子たる者の覚悟」(9章57~62節)等です。
長くなりましたが、本日の説教箇所に入ります。13章10節は「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。」と始まっていますが、そこに何が起こったのかを見ていきましょう。
11節に「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。」とあります。この女性は何歳ぐらいか記されてはいませんが、“病の霊に取りつかれて十八年間”とは、相当長い年月で、多分この女性にとっては半生かもしれません。その間、腰が曲がったままですべてのことを行い、そして生きて来たのです。
わたくしも、田舎で育ったころに、そのような方が近所に住んでおられたのを記憶しており、この女性のことがよく理解できます。
聖書に戻りまして、11節には「病の霊に取りつかれている女」と記されています。この言葉の直訳は「病魔にかかった女」です。また、当時の人々は、“病苦はすべて悪霊のなせるわざ”と理解していた、とも言われています。当時はまだ医学が進んでいない時代でしたから仕方ないとも思わされますが、わたしたちがそのように簡単に考え、また言うことは赦されません。
また、11節にあります「十八年間も病の霊に取りつかれていた」その「十八」という数字に注目しましょう。これについて、他の個所で、直前の13章4節には「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は」と記されています。また旧約聖書では、「イスラエルの民が主の目に悪とされること(偶像礼拝)を行ったので、十八年間ペリシテ人、アンモン人の手に渡された。」という出来事が、士師記10章6~8節にあります。
これらの箇所で言います「十八」という数字は、文字通り「十八」というよりも、一桁で最も大きい「九」のさらに二倍の「十八」を表す、とも言われています。
次の12~13節には、「イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。」とあります。
この箇所の記述は非常に簡潔で、要点のみを記しており、詳しいことは想像するしかありません。主イエスがいままで行われてきた病人の癒しでは、その人に向かって、色々と声掛けをする場面がありましたが、ここにはそれがありません。
主イエスにとって、当日の礼拝にその女性がどのような状態で、そしてどのような気持ちで出席していたのか、十分わかっておられたのです。
もう一度、今まで起こったことを整理し理解してから、次へと進みましょう。当日の安息日礼拝に、十八年間という長期間、病の霊に取りつかれて腰が曲がったままの女性が出席しているのを主イエスがご覧になり、その方に「婦人よ、病気は治った」と言ってその上に手を置かれました。すると、その女性は癒され、腰もまっすぐになって神を賛美し、喜びを表したのです。
因みに、ここで主イエスが言われた唯一の言葉「婦人よ、病気は治った」のその言葉について、原文に近い訳では「あなたは、あなたの病から解放された」です。このほうが意味がよく伝わってきます。
本日の説教題は、ここから取って「解放の時」とさせていただきました。
主イエスが癒しのわざをなさった時、病の女性に対しての声掛けとあわせて、「その上に手を置かれた」(13節)と記されていますが、その意味は、主ご自身がこれから癒しを行おうとする人の上に手を置くことによって、その手を通して、父なる神のご意思やその思いが、相手の人に伝えられるのだ、との解釈があります。
ここで思わされることがあります。それは、礼拝の後の祝祷のことです。手を挙げて祈りますが、わたくしの手は皆さまに直接触れてはいません。しかし、神の恵みと祝福が皆さんの届くようにとの願いが込められています。
次は14節です。「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った『働くべき日は六日ある。その間(あいだ)に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。』」とあります。ここでの会堂長の言動に注目です。 先ずは、その会堂長が、イエスの言動に腹を立てたその時、言いたいことがあれば、主イエスに向かって直接言うことが必要だと思います。ところが、群衆に向かって不平不満を言っているのです。恰も、自分の言っていることについて群衆から同意を得ようとしているようです。これは全く姑息な考え方です。
次は会堂長が言った言葉の内容について考えてみましょう。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」でした。
旧約聖書の律法を文字通りに信じている人、たとえば律法学者や旧約聖書の時代の人々にとっては、「一週間の七日の内で、労働する日は六日であって、もう一日は安息日であり、働いてはいけない日である」と、安息日は“〇〇をしてはいけない日”と否定的にとらえていたのです。
しかし、本日の聖書個所のように、たとえ安息日であっても、人の命にかかわること、健康にかかわる重大なことを抱えている人、長年、病気で苦しんできた人がいたなら、その人の病気や苦しみを一刻も早く取り除いてあげること、苦しみから解放してあげること、これが思い遣りの心です。そして御国の福音にかかわることです。たとえ安息日であっても、ときにはそちらを優先して取り合わなければならない時があります。このことを覚え、そして大切にしていきましょう。
本日の聖書個所で、主イエスがなさった、長年腰が曲がったままで苦しんできて、当日その礼拝に出席していた女性は、正にその中の一人です。
そして主イエスは、当日その礼拝の中でその女性を見て、回りくどい言葉や問いかけもせずに、直ちに「婦人よ、病気は治った」と言って、その体に手を置かれたのです。
主イエスのその癒しのわざによって、その女性は「たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。」人に変えられました。
当日の礼拝に出席していた人々も、共にその喜びを分かち合う、これが人情というものです。以上が14節までの経過でした。
次の15節には「しかし、主は彼に答えて言われた。偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。」とあります。
家畜も同じ動物であり、しかも飼い主にとっては家族同様に愛情を注いでいる生き物です。たとえ安息日であっても、食べ物や水を与え、さらに病気だったら治してあげるのではないでしょうか。
ここでもう一つ注目すべきこと、それは、主イエスが会堂長や群衆をも念頭に置きつつ、“偽善者たちよ”と、複数で呼んでおられたことです。それは、先ほどから触れてきました通り、いま話の中心となっている会堂長と彼の視線の先にいる多くの群集がいたからです。
以上、多少の繰り返しにはなりましたが、今までの成り行きの要点をまとめました。
次は16節です。「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間(あいだ)サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか。」とあります。ここは、一見して難しいように取れますが、記されている言葉の内容は、いままで繰り返してきたことです。すなわち、たとえ安息日であっても、いま病に侵されている人の手当てに緊急性があるとき、またその癒しのチャンスが、その時しかないときは、その癒しを優先して行わなければならないことを示されました。
ただ分かりにくい点は、最初の言葉、すなわち「この女はアブラハムの娘なのに」です。このことについて触れておきましょう。“アブラハムの娘”とは文字通りの意味ではなく、同じ神の民、選民イスラエルに属している人だ、ということです。
ではここで、16節に関連しまして、わたしたちが経験してきたことを振り返って見ましょう。具体的に言いますと、日曜日の礼拝に来たくても来れない人の苦しみの言葉をお聞きしたとき、わたしたちはどのように対応してきたか、どのような言葉かけをしてきたか、ということです。
残念ながら、その人に代わって、何か他に良い解決方法を探してあげることも出来なかった、そのようなことが多かったと思います。
でも、わたしたちにできることは、そのような方の相談相手になることです。どうかこれからも、微力ながら、そのような方の相談相手になっていけるように願っています。
聖書に戻り17節です。「こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。」とあります。
これを聞いた時の反対者の主な人は会堂長でしょう。その会堂長は、当日の主イエスの癒しのわざに、反論を唱えていたからです。
そして、今主イエスのお言葉を聞いて“恥じ入った”一人かと思います。
わたしたちもこれから気を付けていきたいと思います。それは、規則や決まりに捕らわれる余り、最も大切なことを忘れてしまうことのないように、です。
一方、群衆はこぞって、主イエスのわざを見て喜びを表したのです。わたしたちも、この群衆の様に喜びを素直に表す者となって参りましょう。
(牧師 永田邦夫)
聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©️1987, 1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による。