一人ひとりに与えられた

2024年5月19日(主日)
主日礼拝『 ペンテコステ(聖霊降臨)礼拝 』

使徒言行録 2章1~13節
牧師 常廣澄子

 本日はペンテコステ(聖霊降臨)の感謝礼拝です。お読みいただいたところには、イエスが天にお帰りになる前、弟子たちに約束されていた聖霊が降って来た様子が生き生きと書かれています。それまで恐れと不安の中で隠れていた信徒たちは、この出来事の後、聖霊に満たされて見違えるように大胆に主の福音を語り始めました。そしてそこに、教会という神を礼拝する民、福音を伝道する共同体ができていったのです。それで、ペンテコステ(聖霊降臨)が教会の誕生日だと言われるようになりました。

 ところで、この素晴らしい出来事が起きたのは、どんなところだったでしょうか。1章の13節には「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。」とあります。これは中近東地方にある一般的な家の、平べったい屋根の上につくられた部屋です。屋上の間と言ったら聞こえが良いかもしれませんが、何の変哲もない殺風景な空間であって、何か素敵な事が起こるとはとても思えない所です。しかし、イエスが復活して天に挙げられた後、ここが弟子たちや信徒たちに残された居場所だったのです。

 ここエルサレムはイエスを十字架につけた町であり、その仲間である弟子たちにとってはまだまだ危険で、面倒なことがたくさん起こっていた場所でした。彼らのおかれていた状況を想像すると、ただ泊まっていた家の上の部屋に取り残されていただけです。これが使徒言行録1章に書かれている弟子たちの有様だったのです。しかし、イエスは弟子たちに「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」(1章4節)と言い残して天に挙げられましたので、このイエスの御命令を守って彼らはこの危険なエルサレムを離れずにいたのです。

 彼らはこの町の中で、何の助けも得られず、誰からも守られない孤立無援の人たちでした。何をどうしたらよいのか分かりません。「自分たちはいったいこれからどうなるのだろう」と、不安な思いで戸惑っていたに違いありません。彼らはほんとうに小さな無力な群れでした。周囲の人たちはもちろん彼らに対して冷たく無理解でしたし、むしろ悪意を抱いている人たちばかりです。そのような彼らには一体何が期待できたでしょうか。

 しかしこの時、彼らはひたすら心を合わせて祈っていたのです。1章14節「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」ここにはイエスの母マリアも、我が子を見捨てて逃げてしまった人たちと一緒にいます。1章15節「そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。」ここに集まっていた百二十人ほどの人たちは皆心を合わせて、一つになって祈っていたのです。心を合わせて祈るということは、深い悔い改めがないとできません。彼らは、復活されたイエスの憐みの下で、互いに赦し合う関係ができていたのです。その時に起こったことが聖霊降臨です。

 皆が心を合わせて祈っていた時に、まさに奇跡の霊、イエスが言われた「父が約束されたもの」、天におられる神、すべてのものの創り主の霊が降ってきたのです。すなわち「イエスを死者の中から復活させた方の霊」(ローマの信徒への手紙8章11節)です。そして不安に怯え、成すべきことも分からず戸惑っていた彼らを生き返らせ、力を与え、自由に大胆に神の言葉を語らせたのです。これはまさに世界を揺るがせる出来事でした。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(1章8節)とある通りです。

 お読みした使徒言行録2章1-7節をもう一度読んでみましょう。「(1-7節) 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。』」

 五旬祭の日というのは、収穫の感謝として初穂を捧げる祭りで(レビ記23章参照)、これは過越祭から7週間後、すなわち50日目(ギリシア語では50番目をペンテコステという)に守られましたので、このような呼び方をします。

 まず7節「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。』」この言葉に注目したいと思います。3章に入ると、ペトロとヨハネが神殿の入り口で、足の不自由な人を癒したことが書かれていますが、その時ペトロは言いました。「わたしには金や銀はない」と。4章13節では、「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚いた。」と書いてあります。

 これらのことを考えますと、弟子たちが聖霊を受けたのは、彼らが特別な人間であったからではありません。お金持ちでもありませんし、学問に秀でていたわけでもありません。何か特別な感性があったとか、とりわけ敬虔な人間であったわけでもありません。もし聖霊がそのような特別な資格のある人たちだけに降るものであるならば、聖霊は私たちと全く関係ないものになってしまいます。

 この場面を想像してみたいと思います。彼らがいたのは、殺風景な何もない部屋です。何かが起こりそうもありませんでした。ここにいた人々はすぐにガリラヤ出身だとわかるような無学で朴訥とした普通の人たちでした。決して特別に宗教的な人間であったわけではありません。それどころか、彼らの中にはイエスなんか知らないと言う人間さえいたのです。信仰の英雄とはほど遠い人たちです。このようなことを考えますと、聖霊というお方は、自分などには降ってくるはずがないと考えているような者に降されるのだということがわかります。まずそのことを私たちは信じなくてはなりません。本日の招詞で、ヨエル書3章1節「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」が読まれました。神の言葉に例外はありません。聖霊は私たちすべての人のところに来られるのです。3節にありますように、聖霊は「一人一人の上にとどまった」のです。私たちもまた、聖霊が降される前の彼らのように、実に弱くて愚かで、力もなく、いつもおどおど生きている者です。そのような私たちといつも一緒にいてくださるために、神は聖霊を降されたのです。聖霊は信じる者の助け主、慰め主、弁護者です。

 さてそのように、確かに彼らの上に聖霊が降ってきましたが、それで彼らが何か特別の人間になったわけではありません。依然としてガリラヤ出身の漁師でした。その恰好からも言葉からもエルサレムの人達にはみすぼらしい粗野な人達だと思われていたに違いありません。

 それと同じことが私たちにも言えます。私たちが神を信じ、神の恵みを受けるということは、私たちが特別に賢い人間になったり、見栄えの良い別の人間になることではありません。この時の弟子たちのことを想像してください。彼らは依然としてもとのままの人間でしたが、しかし同時に別の人間になったのです。聖霊を受けた彼らには力が与えられました。イエスを十字架に架けて殺したこのエルサレムが、自分たちに敵意を抱いている危険な町だということを忘れてしまったかのようです。彼らの目は以前と同じものを見ていましたが、その背後に見えないお方の存在を確信していたのです。

 彼らは自分たちがガリラヤ訛りの話し下手な人間であることも忘れていたようです。つまり自分に対しても外部の人たちに対しても、一切の恐れが消えてしまったのです。イエスの十字架を恥じるというような気持ちはもう微塵もありません。むしろ彼らはイエスを救い主として信じる喜びと、神からいただいた力に満たされています。彼らは神を喜び、神の愛と救いを語る使命感に満たされて立ち上がっていったのです。

 ですから、彼らはもともとの同じ人間ですけれども、また別な人間に変えられているということです。私たちも同じです。イエスを信じたけれども何も変わらない、ずっと元のままの自分だと思っているかもしれませんが、そうではありません。私たちは神を信じた時、確かに見えないところで別の人間になっているのです。先ほど言いましたように、聖霊は創造の神の霊です。創造者は人間を新しく造りかえる力を持っておられるお方です。私たちは絶えず新しい人に造りかえられているのです。変わっていかないはずがないのです。これが慰め主である聖霊の働きです。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(コリントの信徒への手紙二3章18節)

 さて、弟子たちは新しい人間とされて、力強くイエスを証し始めました。その時いったい何が起こったのでしょうか。11節「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」聖霊降臨の時に生じた奇跡の一つは、ガリラヤ人であった弟子たちが、各国の言葉で語り始めたということです。

 この時期、エルサレムには、外国で暮らしているユダヤ人たちが大勢集まって来ていました。「(9-11節)わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに」と書かれていますが、これらの地名は、当時のローマ帝国の東の端から、地中海の北部や南部、またアフリカあたりまでも網羅しています。彼らは当時でいう「(5節)天下のあらゆる国」から来ていたのです。エルサレムに来ていたこれらの人々は、言葉も習慣も職業も年齢も、あらゆることが異なる多種多様な人たちでした。その彼らが、自分の国の言葉で福音を聞いたのです。何というすばらしい奇跡が起きたのでしょう。ここに、すべての人に救いの福音を告げ知らせたいという神の御意志がはっきり表れています。

 しかしいったいこのような人たちはイエスと何か関係があるのでしょうか。彼らとイエスの間には厚い壁が横たわっていたのではないでしょうか。そもそもイエスはすでに死んで天に挙げられ、ここにはいません。もう過去の人です。無視できない時間の壁や距離があります。今日本の国に生きている私たちもまた、イエスとの間にさらに大きな時間や空間の隔たりがあるのではないでしょうか。言葉の違いがあり、文化や歴史的背景、風俗習慣や考え方等、あらゆる面で異なっています。この私たちとイエスとは何の関りがあるのでしょうか。

 今、世界で起きている戦争のニュースが映像で流される時がありますが、大きな建物の上に爆弾が落とされると、爆弾は屋上から地下の部屋まで貫き通し、建物は崩れ落ちてしまいます。例えが悪いかもしれませんが、聖霊の働きはまさしくこれと同じなのです。聖霊の働きは時間や空間のへだたりを越えていきます。いっさいの距離感、時間差がなくなり、人間の複雑な心理や価値観が破られてしまうのです。イエスは決して過去の人間ではなく、むしろイエスが今私たちと共におられることを感じるのです。この私のためにご自身を死に渡されたという、大いなる愛の御業が迫って来るのです。この信仰を、今を生きる私たちの現実のものにしてくださる力、本物にしてくださるお方が聖霊なのです。

 この二千年に及ぶ年月に、世界でも日本でも、イエスを信じてその福音信仰に生きた、数え切れない多くの人たちがいます。アフリカの奥地で伝道したシュバイツァーや、インドで愛の活動をされたマザー・テレサのように世界中で知られている人もいれば、そうでない人もいます。彼らは一途で純粋な信仰に生きて、そこに多くの奇跡がなされました。彼らは時間も空間も言葉も習慣も文化もあらゆる違いを越えて、聖霊によって神と共に生きたのです。私たちは信仰によって神の救い、神の恵みに与っているのですが、この「与る」ということは聖霊の働きです。この聖霊は私たちを神に結びつける絆なのです。今朝の礼拝に集わしめ、今日も私たちを主イエスに堅く結び付けていてくださるお方こそ、一人一人に与えられている聖霊です。この主の御霊が今も私たちと共におられることを感謝して、新しい週も力強く歩んでまいりたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)