広がる福音

2024年9月15日(主日)
主日礼拝『 年長者祝福 』

使徒言行録 8章1~25節
牧師 常廣 澄子

 前回までのところで、私たちは教会史上最初の殉教者ステファノについてみてきました。ステファノの死とその最後の素晴らしい説教は、それを聞いていた人々に大きな影響を与えました。1節から3節まで、ステファノの死によって引き起こされた出来事が書かれています。

「(1節)その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。」とありますように、エルサレム教会に対する迫害が強められ、そのことはキリスト教が各地に伝道されていくことにつながっていきました。その迫害の急先鋒はステファノが処刑される時に証人たちの上着をあずかったサウロという青年でした。彼は上着をあずかっただけではなく、「ステファノの殺害に賛成していた」のです。また「(3節)一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。」このようにクリスチャン迫害に対して積極的に関わっていたのです。

 しかし、エルサレムの町中の人がそのような迫害者であったわけではなく、「(2節)信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。」権力者によって処刑された罪人であるステファノを葬って彼のことを思って「悲しむ」ということは、注目すべきことです。これは当局の対応に反対している態度です。これらの人々が皆キリストを信じていたのならば当然ともいえますが、ステファノが処刑されたその日にすぐ大迫害が起こったのですから、教会員たちはステファノの死を悲しんで喪に服している状態ではなかったと思われます。ですから2節に書かれている「信仰深い人々」というのは、エルサレムに住んでいた一般的ユダヤ教徒のことではないでしょうか。2章5節には「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが」とありますから、ステファノはクリスチャン仲間から慕われ惜しまれただけでなく、まだキリストを信じていないユダヤ教徒にも尊敬されていたのではないかと想像することができます。

「(4節)さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。」迫害を受け、エルサレムにいられなくなって各地に散らされていった人たちは、「福音を告げ知らせながら巡り歩いた」というのです。ただエルサレムから逃げただけではなく、行く先々で福音を語っていったのです。散らされていきながらも、いよいよキリストにあって強く生きています。

 今私たちが生きているこの時代や今の日本社会では、このような迫害を受けることはありませんが、別の意味で教会は小さく弱くなっています。それは私たちがキリストの救いに与っている喜びや感謝を大胆に証できていないからです。私たちはいつからこのように引っ込み思案になってしまったのでしょうか。この御言葉のように、私たちも「福音を告げ知らせながら巡り歩く」人生でありたいと心から願っております。
 さて、各地に散っていった人々の中にフィリポという人がいました。このフィリポは、ステファノと同じように、使徒たちの働きを助けるために選ばれた、信仰と聖霊に満ちている七人の中の一人です(6章1-6節参照)。フィリポはサマリアの町に下っていき、キリストを宣べ伝えました。ユダヤ人はサマリア人に対して偏見を持ち、付き合いをしていなかったことを考えると、これは実に画期的な出来事です。
「(6節)群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。」フィリポの働きはただイエスがキリスト(メシア)だということを告げただけではありません。多くの人たちの病いが癒され、その生活が変えられました。「(7節)実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。」そして彼らはイエスを信じたのです。「(12節)フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。」8節には「 町の人々は大変喜んだ。」とあります。町中にすばらしいことが起こったのです。

 ところで、このサマリアの町にシモンという人がいました。「(9節)この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。(10節)それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、『この人こそ偉大なものといわれる神の力だ』と言って注目していた。(11節)人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。」
 ここに書かれていますように、シモンは魔術師でした。フィリポがこの町に来るまでは、人々はシモンの魔術に心を奪われていて、シモンを神の力を持つ偉大な人だと言って、彼に注目していたのです。しかしフィリポが来て、神の国とイエス・キリストの名による福音を告げ知らせると、多くの人たちはフィリポの語る福音を信じて洗礼を受けました。「(13節)シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。」シモンに従っていた人たちがフィリポの伝道によってキリストを信じて洗礼を受け、フィリポに従い始めると、シモンもまた洗礼を受けてフィリポについて行ったのです。キリストの救い、喜びの福音はそれほどに人の生活を変えていく力なのです。

 シモンは魔術によってサマリアの町の人々を驚かしていましたが、今度はシモン自身が、フィリポが行う素晴らしいしるしと奇跡に驚きました(13節)。違いはどこにあるのでしょう。シモンは魔術を行って、自分を偉大な人物であると自称していましたが(9節)、フィリポはイエス・キリストの名について福音を告げ知らせていました(12節)。フィリポは自分については何一つ語っていません。イエス・キリストの福音を語り、キリストの名によって人々は生まれ変わり、救われたのです。ここに、キリストを信じる者の勝利の秘訣があります。フィリポが伝えたキリストの福音はこの世の魔術なんかではありません。自分を偉大な者だと吹聴するような傲慢な教えではないのです。キリストの平和が私たちの心を支配する喜びの福音です。
 この福音を信じる信仰は私たちを真に生かす力です。この信仰こそが魔術や迷信に支配されているこの世の人々を救う力です。この信仰の力によって、エルサレムから散らされていった信者たちが各地に福音を宣べ伝えることができたのです。このキリストを信じる信仰が、生きている時も死ぬ時も、周囲の人々に大きな感化を及ぼし、豊かな実を結ばせるのです。
「(14節)エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。」この時、使徒たちはまだエルサレムに残っていましたが(2節)、サマリアの人たちが神の言葉を受け入れたことを知ると、ペトロとヨハネを遣わしたのです。「(15節)二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。(16節)人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。(17節)ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」二人が来て、人々の上に手を置いて祈ると、そこに聖霊が降りました。「(18節)シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、(19節)言った。『わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。』」何ということでしょうか、使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、その力をお金で買おうとしたのです。

 それに対してペトロは言いました。「(20節)すると、ペトロは言った。『この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。(21節)お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。(22節)この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。(23節)お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。』」

 シモンの誤りは、聖霊に対する大きな誤解です。シモンは長い間、魔術で人を従わせてきたので、キリストを信じて洗礼を受けた後も、いつもフィリポについて回り、フィリポがすばらしいしるしや奇跡を行うのを見て驚いていました。彼の興味は依然として不思議な魔術の世界だったようです。ですから、ペトロが手を置いただけで聖霊が降ったのを見て、何とかしてその賜物を手に入れたいと思い、その力をお金で買おうとしたのです。ここから、教会における聖職(聖なる権能や職務等)を金銭で売り買いすることを、シモニー(シモニズム)と呼ぶようになりました。

 皆さまはもうご存知だと思いますが、聖霊はペンテコステの日に祈っていた一同の上に降りました。誰かが手を置かなくても聖霊は自由に降ってきます。ですから、ペトロ自身、自分が手を置くことによって聖霊が与えられるとは思っていません。「(15節)二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。」ただ祈ったのです。祈った結果与えられたのです。聖霊は神の賜物であることを知っていたからです。

 いずれにしても、聖霊を人間の力によって思うように動かせると考えたところに、シモンの大きな誤りがあります。聖霊を侮るまことに愚かな行為です。シモンはキリストを信じるまで、みんなから偉大な人だと言われていました。信じた後もその心は変わらずに人々から崇められることを期待し、それを求めていたのかもしれません。このシモンのように、社会には人の上に立ち、人の先を行きたいという大きな幻や野心を抱いている人がたくさんいます。しかし、神に褒められる偉い人というのは、ルカによる福音書22章26節に「しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」と書いてありますように、人々に仕える人です。ここでのシモンは、ペトロが指摘しているように、彼の心が神の前に正しくなかったのです。

「(21節) お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。」この言葉はシモンに対して語っているだけでなく、私たちにもいろいろと反省を促す言葉です。シモンがフィリポの行う数々の不思議な奇跡に心を奪われて「心」を正すことを忘れていたということは、私たちに大事なことを教えています。例えば、神を信じてこの世の平和に関わる運動や社会福祉等の事業で活躍している方々がたくさんおられますが、その活動の成果や評価だけを重んじていくなら、危険です。神の愛に根差す心よりも業績やこの世の評価や名声などに視点や重点が行き始めるなら気を付けた方が良いのではないでしょうか。大事なのはその心です。この働きは本当に神に喜ばれ、神の御栄光のためになされているのか、絶えず問われていると思います。

 さらにシモンの心の重大な誤りは、聖霊を神の賜物として受けとっていないことです。シモンは聖霊の力を自分にもいただきたい、という願いを自分で神に祈り求めていません。フィリポの傍でその素晴らしいしるしや奇跡を見て、自分にも同じような力が欲しいという気持ちが起こった彼は、その気持ちを神に率直に素直に求めて祈ることをしないで、お金で買おうとしていたのです。お金は自分の力の表われです。そういううぬぼれや高ぶりの心こそが神の前に正しくないのです。私たちが今いただいているものはすべて、神からただで受けたものだと謙虚に認め、感謝して生きていくことこそが神に喜ばれる姿です。

 ペトロの叱責に驚いたシモンは、「(24節)シモンは答えた。『おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。』」ペトロたちに祈って欲しいと願い出ました。どんなことであれ、祈りが一番の解決法です。神の前にその願いを持ち出して、神の助けと導きをゆだねることです。「祈りによることはすべてよし」です。

 神の救いも賜物も、お金で買うことができない絶大な価値を持つものだということを忘れないようにしたいと思います。神の賜物はこの世のどんな価値あるものによっても交換することはできないのです。私たち救われた者には感謝と賛美しか神にお返しするものはありません。私たちは神の一方的な愛と恵みによって、無代価で、ただありのままの姿で救いに入れられていることを感謝し、神の前にへりくだって生きる謙虚な心を失わないようにしたいと思います。それが神の前にある正しい心です。フィリポのサマリア伝道で起きた出来事から、大切なことを学ぶことができたことを心から感謝いたします。

(牧師 常廣澄子)

聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©1987,1988 共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による。