2024年12月24日(火)
『 クリスマス・イブ礼拝 』
ヨハネの手紙一 4章9~10節
牧師 常廣 澄子
クリスマスは、神がその独り子をこの世にお遣わしになった日、さらに言うならば、神が人となってこの地上にお生まれくださった日です。
新生讃美歌205番「まぶねの中に」では、このように歌われています。
(作詞:由木 康)
1節 馬槽(まぶね)の中に うぶ声あげ
木工(たくみ)の家に 人となりて
貧しき憂い 生くる悩み
つぶさになめし この人を見よ
4節 この人を見よ この人にぞ
こよなき愛は あらわれたる
この人を見よ この人こそ
人となりたる 活ける神なれ
ある人は人間が神になるというのはわかるが、神が人になるということは理解できないと言います。確かに古代社会では、皇帝とか偉い人が神として祭られたり礼拝されたりしました。戦時中は、日本でも天皇陛下は神様でした。人間の中で優れた人や地位の高い人が神に昇格していったわけです。しかし神が人間になる、つまり降格することは考えられませんでした。
神は愛であると聖書は教えます。では、愛するというのはいったいどういうことでしょうか。それは同じ立場に身を置くということです。自分は暖かい部屋でお腹いっぱい御馳走を食べていながら、何もしないでいて、飢えと寒さの中に置かれている人を愛しているとは言えません。神が愛であるということは、神が人間の世界に降って来て、人間と同じ立場に身を置いて、先ほどの讃美歌のように、貧しき憂いや、生きる悩みをつぶさに体験して、私たちを悩みや苦しみ、いろいろな束縛から解放して、本当の意味で真に生きるようにしてくださったことを言います。「(9節)神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」
このヨハネの手紙には、愛について多くのことが書かれています。本日は4章の御言葉を取り上げましたが、著者ヨハネはこの前のところで、いろいろと愛について語った後、ついに涸れることのない愛の泉を見つけたのです。それが10節の「ここに愛がある」という言葉です。
ヨハネが見つけた愛は「神と人間との間にある愛」です。それは私たち人間が神を愛する愛ではなく、神が私たち人間を愛してくださる愛です。私たちは自分で神を信じて神を愛していると思っているかもしれませんが、10節に「わたしたちが神を愛したのではなく」とあるように、ヨハネは「人間は誰一人として自分の方から神を愛した者はいない」と語っています。
人間は神を愛するどころか、むしろ神に対して冷淡であり無関心です。いや、罪人である人間は、ともすると神はいない方が望ましいとさえ思っているのです。私たちは自分の好きなことを、自由に、思い通りにやりたいからです。そこに神が入って来て邪魔されたり、罰を与えられたりしたら困るのです。人間にとっては、神から正しさを求められることは好きではありません。生まれたままの人間は、神が嫌われているもの、つまり罪と言われているものの方が快いと感じるのです。ですから人間の方から神を愛するということはなかなかできないのです。
しかしこのように、人間は神を愛していないと言いますと、ある方は、いや自分は神を愛していると反論されるかもしれません。しかしたぶん、そういう方が愛しているのは自分が作った神であって、聖書が教える神ではありません。人間は自分の思い通りに動いてくれる神を求めていますから、自分が造り上げた神は好きなのだと思います。神に祈願するのは、私たちに幸せを与えて欲しいから、私の願いをかなえて欲しいから、あるいは自分に不都合な人をやっつけて欲しいからです。そして神がその通りに動いてくれないと、その神を愛すること、つまりその神を拝むことを止めるのです。その人は自分が神を差し置いて、自分が神になっていることに気がつかないのです。
私たちは、神が聖いお方であり、力があり、善であり、柔和であり、憐れみ深くて親切なお方だと教えられ、またそのように信じています。ですから私たちは神を信じ愛します。しかし、神の方ではなぜ私たち人間を愛してくださるのでしょうか。私たちは聖くもないし美しくもありません。聖なる神を引き付けるようなものは何もありません。それなのに、神は私たち人間を愛されるというのです。私たちは御子イエスを尊敬しています。その生き方や考え方など、人間に豊かな教えを与えてくださるからです。しかしイエスは私たち人間と付き合っても、得になるようなことは何一つないのではないでしょうか。
私たちは神に造られたものですから、本来神を愛する義務があります。しかし神の方では、私たちを愛する義務はないのです。私たちが神の前に出る時はいつでしょうか。それは死んだ後に裁きを受ける時です。自分の罪を告白して罰を受けるためです。しかしそのような人間、滅んでいくことしかできない、何の値打ちも無い私たちを神は愛されるというのです。神は私たちが成すことや、考えていることを知っておられますから、どんなに失望しておられるでしょうか。しかし、神はそのようなダメ人間の私たちを愛してくださるのです。これが愛なのです。
私たちを愛してくださる神、その神は天地万物の造り主です。神は無限に高く聖い方です。すべての被造物は神の栄光を褒めたたえます。そのような偉大な神が、弱く小さく汚い私たちを愛してくださるというのです。神にとっては、私たち人間から何か助けや恩恵を受けること等いっさい必要ありません。そのように全く無力で何の役にも立たない私たちを、神が愛してくださるのです。私たち人間は誰かに愛されたり大事にされるとうれしくなります。家族や友達に愛されるのは幸せです。犬にも猫にも愛されたいです。しかし誰に愛されるよりも、自分の造り主である神に愛されることほどうれしいことはないのではないでしょうか。
では、神は私たちをどのように愛しておられるのでしょうか。神は、ただ心の中で、あなたを愛しているよと言っているだけではありません。何か私の良いところを見つけて、よくできたねと褒めているのでもありません。何と、神は私たち人間が罪人であるが故に私たちを愛してくださるのです。とても変な言い方かもしれませんが、そうなのです。もちろん人間が罪深いことを喜んでおられるのではありません。
神は罪人である私たち人間を愛されたのです。神は私たちの罪に対しては、先ず罰を与えなくてはならないお方です。しかし神は私たちを愛しておられます。そこで、私たちの罪の贖いのために、贖いの供え物(罰を引き受けてくれるもの)として御子をお遣わしになったのです。
「(10節) わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここに書かれているように、 神がまず私たちを愛してくださったのです。
私たちは、自然界はもとより、宇宙のいたるところに神の存在を感じ、被造物に対する神の愛を知ることができます。日常生活においては、神の守りを感じて感謝に溢れることもあります。しかしさらに深い意味で、神の愛がわかりたいのであれば、神が私たちの罪のために贖いの供え物として御子を遣わされたという事実を知らなければなりません。ヨハネが「ここに愛がある」と語っているのは、今申し上げたこの事実の中に神の愛があることを言っているのです。罪を犯して罰を受けるのは私たち人間ですが、その罰を受けるために神が御子を遣わされたということです。
人間社会では、悪い事をした人が、自分で迷惑をかけた相手のところに行って謝るのが当然です。あるいは助けてもらいたい人が、助けてくれる人のところへ行ってお願いするのが筋です。しかしここでは神の方から使いの者を遣わされたというのです。そして、遣わされた人は何と御子イエスです。神の独り子です。ここに神の愛があるのです。
私たちは誰かを使いに出す時には、その仕事によって誰に頼もうかと人を選びます。郵便を出してもらいたいのなら小さい子どもでもできます。しかし神は、ご自分に逆らって勝手なことをしている人間のところにご自分の独り子を遣わされたというのです。神はイエスという、ご自身に等しい方を人間世界にお遣わしになったのです。神がこのことをどんなに大切なことと考えておられ、どんなに人間を愛しておられるかという証拠です。神は私たちのために御子を贖いの供え物となさったのです。そして、御子イエスは十字架で死んでくださいました。神が人間の罪をどんなに悲しんでおられたか、また神がどんなに罪人である私たち人間を愛しておられたかがよくわかります。
なぜ神は御子を私たちのために贖いの供え物とされたのでしょうか。それは、このことによって、私たちの罪が贖われて(罪の罰がなされる)、そのおかげで私たちは正しく義なる者とされるからです。人間は自分が犯した罪に対して、その罪を償わねばなりません。つまり罪の清算です。それが私たちの生の終わりに待っています。神は愛のお方ですから、赦すという愛の行為をしたいのですが、神は同時に義なるお方でもあります。罪に対してはその裁きをしなければならず、悪を見逃すという不正義(正しくないこと)はできないのです。悪という不正義を、不問にして見逃すような不完全な救いでは全く意味がありません。このアンビバレントの状態にあった神は、考えた末に、その償いを御自分で用意されたのです。
ヨハネが「ここに愛がある」と語った「ここ」というのはイエスによる十字架です。十字架につけられた御子イエスは、神が備えられた、私たちの罪に対する贖いの供え物です。苦しみと呪いの十字架につけられたイエスを見て、私たちは自分の罪の恐ろしさと同時に、私たちに対する神の愛の確かさ、大きさ、深さを覚えます。私たちは、ここに、本当の愛があるとわかるのです。
イエスが十字架に架けられたのは神がなさったことです。私たちの罪を裁かねばならない義なる神に対して、罪のない御子イエスが仲保者となってくださったのです。これは神のみ業です。神が私たちに何か価値を見出してくださったのなら、これを愛の行為として少しは理解することができるかもしれません。また私たち人間が神を心から信じて愛していたのなら、この犠牲は不思議ではないかもしれません。
しかし、神は私たち人間が利己的で愛のない罪人だと知っておられるのです。ですから、まさにこの御子イエスの出来事は愛の奇跡です。イエスは私たちが正しいから死んでくださったのではなく、その逆に私たちが罪人であるが故に死んでくださったのです。聖書には、神はイエスによってご自分を表されたということが各所に出てきますが、その真の意味は、十字架に架けられたイエスによって神が私たちを愛していてくださることがはっきりわかる、ということです。
神を知っているだけでは私たちは人を愛することはできません。哲学は愛について考えますし、神学は神について研究します。しかし、人を愛するということの本当の意味は、神が私を愛してくださっていることを、身を持って経験した者だけがわかるのではないでしょうか。神がご自身を私に与えてくださったことを信じる時、私たちも自分自身を神のために、また人のために、捧げることができるようになるのです。私たちはお金儲けのため、自己満足のため、人に褒められるために人を愛することはできません。しかし、私たちのためにご自身を捧げてくださった神のためなら、喜んで人を愛することができるのです。
私たちの生活を考えてみるなら、本当に人に愛された人は、真に人を愛することができます。また本当に人に信頼されたことのある人は、人を信頼することができます。もし私たちが人を愛することができないというのならば、それは誰からも愛されたことがないからかもしれません。しかしすべての人はこんなにも神から愛されているのに、それがわからずに気づいていないからだともいうことができます。クリスマスは、あなたのために、あなたを誰よりも愛しておられる神の御子イエスがこの世に来てくださった素晴らしい日です。独り子をさえも与えてくださった神の愛がすべての人の心に豊かに宿りますよう、心から祈り願っております。
(牧師 常廣澄子)
聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による