2025年1月5日(主日)
主日礼拝『 新年礼拝・主の晩餐 』
ヨハネの黙示録 20章1~10節
牧師 常廣 澄子
皆さま、新年、明けましておめでとうございます。
私たちは先月、クリスマスを迎え、主イエスの御降誕をお祝いしました。本日はそのインマヌエルの主と共に新しい年を迎えて新年の礼拝に与っております。心から感謝いたします。しかし今なお世界の各地には、国と国、民族と民族の争いが止むことなく続き、毎日のように多くの尊い命が失われています。人々の悲しみ苦しみ嘆きの声が響いています。人々は平和な日常を生きたいのに、それを破壊する人間たちの罪深い有様があります。いったいいつになったら平和な世界が実現するのでしょうか。いったい人間はどうしてこのように憎み合ったり、殺し合ったりしているのでしょうか。それは、これまで黙示録を通して読んできたことによると、今のこの世界が、天から落とされた巨大な竜(年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者:12章9節参照)によって支配されているからだということでした。
本日も引き続いてヨハネの黙示録から聞いてまいりたいと思います。繰り返し申し上げていますが、ヨハネの黙示録は「黙示」という言葉が象徴しているように、覆われていて見えないものが、覆いを取り除かれて見えるようになるという意味です。しかし何度目をこすってみてもよく見えずわからないことがあります。私たちは目で見たり、手で触ったりして確認できることであればよく理解することができますが、この黙示録には、大変非現実的で奇妙なことが書かれていて、理解しがたいところがたくさんあるからです。
そこで少し前に戻って思い出していただきたいのですが、この黙示録の始め、1章に書かれていたことです。「1:1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。 1:2 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。 1:3 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。」
このヨハネの黙示録は、まず第一に「イエス・キリストの黙示」であるということです。これはイエス・キリストがこの黙示を啓示してくださるという意味と、この黙示の内容がイエス・キリストについて書かれているものであるという意味と、両方あることがわかります。そして「時が迫っている」と書かれていることからもわかるように、これが書かれた時代背景として、二千年前のローマ帝国全盛時代、キリスト教徒たちが迫害されていた時代であったことを頭に入れておかねばなりません。
クリスマスを祝ったばかりの私たちは、イエス・キリストがこの世に到来されたことの意味と、御子イエスをこの世に降された神の愛について、しっかりと心に刻みつけていると思います。また、イエスの御生涯についてもよくご存じのように、イエスの最後は十字架による刑罰でした。それは弱く惨めな敗北者の姿でした。しかしそのイメージを覆すかのように、今ここでヨハネが見ているのは、傷つき、血に染まった衣を身にまとっておられる小羊イエスが、すべての勝利者として天上に立っておられるお姿です。
ヨハネはイエスのお姿を拝しながら、今迫害の最中にあるキリスト信徒たちに訴えているのです。「私たちは今地上で苦しんでいる、虐げられ、迫害を受けている、しかし、私たちが信じるこのお方は既に勝利されておられる、このお方は私やあなたがたの信仰の戦いをことごとく見て知っておられる、そしてキリストを信じる故に殉教した人々をイエスと同じように勝利の座に着かせてくださるのだ」と。つまり信仰ゆえに殺されていった人々、あるいは今苦しんでいる人々に、主と共に復活することができるのだと、知らせているのです。
私たちは日々、いろいろなことを我慢したり忍耐したりして、頑張って生きています。しかし私たち人間の頑張りには限界があります。忍耐して頑張っていくにはその根拠や目標が必要なのです。またその忍耐の先に希望がなければ耐えることは難しいです。信仰者が信仰の戦いをすることができるのは、そこに希望と確かさがあるからです。
「20:1 わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。 20:2 この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、 20:3 底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。」
ここには、悪魔ともサタンとも言われる竜が天使に取り押さえられて縛られ、底なしの淵に投げ入れられて鍵をかけられ、その上封印までされたと書かれています。それは千年の間で、その間は諸国の民を惑わさないようにしたのだというのです。しかし千年経った後で、解放されるというのですから、最終的に竜(すなわち悪魔でもサタンでもある、年を経た蛇)との決着がつくのは千年経った後です。その期間はいわゆる千年王国と言われているものです。そしてこの千年の間にそれまでに殺された殉教者たちが生き返って、キリストと共に世界を統治するというのです。
「20:4 わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。」ヨハネはまた天上に多くの座があるのを見ました。そこには多くの人が座っていて、彼らには裁く権利が与えられていました。彼らが何者であるかが書かれています。「20:4わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。 20:5 その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。」ここにある「イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たち」というのは、信仰の故に殉教した人たちのことです。また「この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった」というのは、偶像礼拝を拒否し、妥協しなかった人たちのことです。それらの人々が今や裁きの座についているのです。彼らは生き返ってキリストと共に裁く権利を持ち、千年の間、世界を支配する権利が与えられているのです。かつては悪しき力によって裁かれ、処刑された人々ですが、今や彼らは裁く立場にあります。そして彼らの中心にイエス・キリストがおられるのです。
ではこの5節にある「第一の復活」とはどういうことなのでしょうか。私たちは、私たちの罪のために死に渡されたイエスが、死に勝利されて復活されたことを信じています。これが私たち人間に対するイエスの救いの御業であり、私たちはその素晴らしい救いの恵みに与っています。そしてこのイエスを信じる者は、イエスと共に復活の命に与ることができるのです。これが単純に「第一の復活」と言われることです。
コリントの信徒への手紙一 15章20~26節にそのことが書かれています。「15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 15:22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 15:23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、 15:24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。 15:25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。 15:26 最後の敵として、死が滅ぼされます。」
この聖書箇所は、パウロが復活について語っているところですが、ここでわかるのは、御子イエスの救いを信じる者は死んだ後に復活するということで、これが第一の復活ということです。
私たち人間は誰でも、自分が生を受けた時から死ぬまでのことしかわかりません。生まれる前のことや死んだ後のことは、見ることも聞くこともできません。しかしキリストにある者は、聖書を通して、この先に神がなさろうとしている世界の救いという御業について、その片鱗を垣間見ることが許されています。「20:6 第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。」
死とはどういうことでしょうか。私たちは普通、生物学的な肉体の死をもって「死」ととらえているだけです。しかし、聖書はそれは「第一の死」に過ぎないのだと言います。第二の死とは、主イエスが再びこの世に来られる時に決定されるもので、滅びに引き渡される死のことです。霊的な死、魂の死と言えるかもしれません。6節で「第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。」と言われているように、主イエスを信じて救われた者は、既に神の裁きが完了していますから、永遠の滅びに引き渡されることはありません。「第二の死は何の力もない」のです。この言葉の重みは非常に大きいものです。
私たち人間や被造物全体に対する神の計画は、どんなに科学技術が発達しようとも、私たち人間にわかるはずはありません。しかし神の救いの歴史において、御子イエスの救いを信じて、イエスと共に復活に与る者とされた者は、永遠の死に引き渡される第二の死とは全く関係がないという恵みの約束がここには確かにあります。彼らは幸いな者、聖なる者として、神とキリストの祭司となって千年の間統治するのです。この祭司の務めで最も大切なのは「執り成し」です。長い間竜に惑わされて生きていた人たちのために祈ることです。そしてすべての人に神の愛とキリストの救いを伝え、人々が神のもとに立ち返るように執り成すのです。教会はその役割を担っています。
この千年王国は大変長い期間ですが、7節では「この千年が終わると、サタンはその牢から解放される」とあります。千年経つと、再びサタンが解放されるのです。そして「20:8 地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。 20:9 彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。」解放されたサタンは再び民を惑わします。地の四方、すなわち全世界に出て行って災いを引き起こすのです。ここには彼らを集めて戦わせようとすると書かれています。
ここに「ゴグとマゴグ」という言葉が出てきますが、これはエゼキエル書38章に出て来る言葉です。(エゼキエルもまた神から世界の終わりの出来事を知らされた預言者です。)マゴグとは地名で、このマゴグの総首長ゴグが大軍団を率いてイスラエルを襲うことが書かれているのですが、この黙示録ではゴグとマゴグは、神に反逆する人間たちを表す名前として使われています。しかもその民の人数は海の砂のように多いというのです。彼らは聖なる者たちのいる所を攻めようと包囲してきます。この個所では、エゼキエル書に書かれているその昔の戦争の歴史を今に置き換えて、あのゴグとマゴグのような戦いが、今私たちにも襲ってきている、それはローマ帝国の力であり、それを動かしているのは、悪魔でもサタンでもある竜の力であると語っているのです。
では、四方八方を敵軍に囲まれた聖なる者たちは何によって戦うのでしょうか。著者ヨハネはその結末をも見ています。「20:9 すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。 20:10 そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。」聖なる者たちは戦いません。天から火が下って来て敵軍を焼き尽くすのです。神によって滅ぼされるということです。人間はサタンを滅ぼすことはできませんが、神によって滅ぼされるのです。諸国の民を惑わしていた悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれると書かれています。こうして悪の根源は完全に退治されてしまうのです。滅ぼされるべきものは人間ではなく竜という悪魔です。こうしてすべての人が悪から解放されるのです。
今、この地上の有様は、黒雲が覆う暗黒の世界ですが、キリストが人となってこの世に来られたことによって、救いはもう既に始まっています。そして再びキリストが来られる時に、それは完成するのです。私たちは今朝、天上には輝く御座があることを見せていただきました。新しい年も天に座しておられるイエスを仰ぎ見ながら、私たちもまたいつの日か勝利に与ることができるという希望をもって日々を歩んでまいりたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)
聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による