罪の赦し・信仰

2025年3月9日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』

ルカによる福音書 17章1~10節
牧師 永田 邦夫
 
 2025年が明けて早二か月が過ぎ、3月となりました。本日もルカによる福音書からのメッセージをご一緒にお聞きして参りましょう。
 本日箇所直前の16章は、主イエスから弟子たちへの教え、さらにはファリサイ派の人々への教えがあり、その後にはルカによる福音書の独自記事で、読者にもお馴染みの「金持ちとラザロ」の記事がありました。この箇所では、この世の富は来るべき世では全く通じない。来るべき世ではそれが逆転するという趣旨の教えでした。
 
 では早速17章の本日箇所に入ります。先ず1節から4節までは、主イエスから弟子たちへの教えの言葉です。
 先ず、1節2節を見ましょう。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」との厳しいお言葉があります。

 1節にあります「つまずき」とは、主イエスの教えや神のみ言葉に疑問を持ち、あるいは否定的に考えることを言っています。
 このときの主イエスの弟子たちも、現在のわたしたち一人ひとりと同様に、それぞれが弱さを持った人間同士の集まりだったことでしょう。その弟子たちのルーツは、ほとんどが漁師の出身であって、特別に地位もなく、それぞれが弱さを抱えながら、ときには主のお言葉につまずいたり、疑問を持ったりしたことも十分考えられます。
 そのような主の弟子たちが、主イエスに従いながら、初期の時代の教会の歩みを築いたのです。

 続いて1節後半から2節に注目しますと、「だが、それ(つまずき)をもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」とあります。ここには、つまずきがまだ避けられない弟子たちと、片や、その弟子たちに対して、つまずきをもたらせる者もいたのです。
 この両者はいずれも前述の通り、まだ信仰的に弱く、まだ十分に成長していない人たちであった、ということも想像できます。

 また、同じ兄弟仲間をつまずかせることに対して、わたしたちは一瞬、それは赦せないことだと、ついつい裁きの気持ちが起こるような、弱いわたしたちです。そのような気持ちを起こさないように気を付けていきたいと願っています。

 主イエスはその両者を念頭に置きながら、2節の厳しい諭しの言葉、すなわち「そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」と厳しいお言葉を伝えています。
 なお、この言葉は当時、諺として人々に知られていたという神学者もいます。

 そして次の3節には、先の厳しい言葉とは一変して「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。」と、優しく、そして、「戒め」、「悔い改め」、そして「赦し」について、具体的な手順のことが述べられています。

 では順番に見ていきましょう。
 最初に命じられていることは、「戒め」についてです。
(1)先ず、罪を犯した兄弟の罪を戒めることから始まります。しかし、頭ごなしに“それはだめ”と伝えるのではなく、その人の心に寄り添いながら、なぜそのようになってしまったのか、その訳をよく聞いてあげることから始めます。
 ここには、子育て中の親が、子供に寄り添うような優しさが必要です。

(2)次に、その人が悔い改めたなら、赦してあげることです。
 この赦しも、決して上から目線ではなく、神の赦しをいただくようにと導き、そして共に神に祈ることです。神に祈るとは、同じ立ち位置で、共に神に願うことです。神に共に祈ることによって、必ずや神は聞き入れてくださる、との信仰をもつことが大切です。

(3)次は4節に示されている教えに注目です。
「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」との教えです。
 ここで「七回」とはいちいち数えるわけではありません。それは「限りなく」という意味に近いものがあります。ここにも、忍耐と、そして相手への愛が必要です。そして、これを乗り超えたときに、主なる神は赦しを実現してくださると信じます。

次は1節から4節の言葉から、わたしたちが教えられることを見ていきましょう。
 主の弟子たちの集まりである教会は、主がご覧になると、お互いに弱く、そして力のたりない者同士の集まりとも言えるでしょう。しかしその弱い者同士がお互いに助け合い、力を出し合いながら、さらにその弱い部分を互いに補い合いながら、教会のわざである福音伝道に励んでいます。

 わたしたちはそのことに自信と誇りを持ちながら、これからも共に励んでいきたいと願っております。また、そのような集まりであればこそ、主なる神は教会に祝福を与え、教会に連なる一人ひとりに対して、力と勇気を与えてくださると信じます。

 ここで“つまずき”の言葉について注目しましょう。つまずきとは英語で、「スキャンダル」であり、その語源はギリシア語の、スカンドロンです。そしてスカンドロンの意味は“落とし穴”ないし、“罠”(わな)からきている、とのことです。教会に連なるわたしたち一人ひとりの力によって、そのようなスカンドロンすなわち“つまずき”を断ち切っていきましょう。

 次は5節6節に入ります。前の段落で、主イエスの教えと、導きのお言葉をお聞きした弟子たちでしたが、それを実行に移すにあたって、信仰の弱さを感じたことでしょう。

 主イエスに対して「わたしどもの信仰を増してください。」と、願い出たときの主イエスの答えが6節にあります。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」とあります。ここで“からし種一粒ほどの信仰”とは「最小限の信仰」という意味です。その最小限の信仰があれば、不可能が可能となる、と教えられたのです。

 ここでの教えの意味は、「あらゆる不可能な事は、信じて祈れば可能となる。」と言われているのではありません。また、不可能が可能とならないのは、信仰が弱いからだ、と言っているのでもありません。“からし種一粒ほどの信仰”を神が喜んで受け止めてくださり、その信仰をさらに大きな信仰へと導いてくださるのです。

 また“からし種一粒ほどの信仰”に関連して、わたしたちの“弱い魂への配慮”という課題も、主なる神は聞き取ってくださいます。そして、最小限の信仰によっても、大きな事がなし得ることを主なる神は教えてくださっています。
 しかし弟子たちは、「相手の魂への配慮」という課題に対しても、自分たちの信仰が不足している、と尻込みしたのです。その結果が5節であって、主イエスに対して「わたしどもの信仰を増してください」と願い出ました。

 これに対する主イエス返答の言葉が6節で「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」とあります。
 ここで主イエスが弟子たちに教えられたことは、何事も信仰が大事であるということです。弟子たちが行う福音伝道のわざは、すべてがその小さな信仰から始まっている、ということを弟子たちに教えられたのです。
 わたしたちの教会の伝道のわざの一つひとつは、先ず、祈りから始まるのです。一人ひとりの信仰は弱いかもしれません。また小さな信仰かもしれません。しかし大事なことは、教会員全員が力を合わせ、祈りを合わせて、一つひとつのわざに当たることによって、大きな力に成長させてくださることを信じましょう。
 
 教会の建設関係のこと、また伝道の拡張を図っていくことなどは、わたしたちの教会の歴史を見ても、このことを物語っています。

 教会員が力と祈りを合わせるときに、本日の聖書個所のたとえ話のように、“桑の木が根こそぎ抜け出して、海に根を張ることになる”のです。
 次は最後の段落、7節以降に入ります。初めの7節は「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、」と始まっています。すなわち、この箇所の直接の例話は、使徒たちに僕がいた場合の、主人と僕の両者の対応を題材にして、使徒たちが信仰的に、主なる神にどのように向き合い、その信仰を全うして行くか、そのことが教えられているのです。

 先ず初めに、7節から9節の例話を見ていきましょう。7節の「あなたがたに」とありますのは5節に記されていますように使徒たちのことです。その使徒たちが僕を抱えていた場合、その僕への対応は、一般の“僕に対する主従関係や、両者の接し方”と同じでしょう、と言っています。
 
 そして、その僕が、畑仕事や牧畜の仕事を行って帰って来たからと言って、「さあ、直ぐ来て食事の席に一緒に着きなさいとは言わないだろう。」ここにきて、家族の食事の給仕を全て済ませてから後で、その決められた僕の食事席に着くだろう、といっているのです。

 すなわち、主人や家族の生活一切に対して、僕の生活の一つひとつは、その順番や序列が決められているのです。封建的と言えるかもしれませんが、聖書に示されている生活習慣は現在とはかなり違うようです。    

 そして本日の聖書個所の結びの言葉は10節「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」とあるとおりです。
 
 わたしたちは、信仰的に弱く、そして小さい存在です。しかし、本日の聖書個所に示されましたとおり、主なる神からさらに強い信仰と力を戴きながら、これからも福音伝道に励んでいきたいと願っております。

(牧師 永田邦夫)

聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』(c)1987,1988 共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による