2025年5月4日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』
ヨハネの黙示録 22章1~7節
牧師 常廣 澄子
先日はイースター(召天者を覚えて)礼拝に続き、その週の土曜日には教会の墓地で墓前礼拝が行われました。その時には歌いませんでしたが、天に帰られた方々を想って集まる時によく歌われる讃美歌に、新生讃美歌602番があります。1節の歌詞はこのようになっています。「まもなくかなたの 流れのそばで 楽しく会いましょう また友だちと 神さまのそばの きれいなきれいな川で みんなで集まる日の ああなつかしや」ここに出てくる「神さまのそばのきれいな川」というのが、今朝お読みした聖書個所の1節にある「水晶のように輝く命の水の川」のことです。
21章でお話ししましたように、ヨハネが天使によって見せられているこの天の都は神が人と共に住んでくださる都です。そこにはいつも神とキリストが共におられますから、神殿は必要ありません。そして神とキリストの光が都を照らしていますから夜がありません。夜がないのですから、泥棒や悪い人がこっそり入って来ることもないので、都の門はいつも開いています。決して閉じられないのです。ですからいつでもどこからでも人々が神の都に入って来ることができるのです。
ここには、ほんとうに美しい神の都の様子が描かれています。「22:1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。22:2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。」
神の都の大通りの中央には川が流れています。私たち人間の歴史を考えても、昔から文明発祥の地にある都市は大きな川の近くで繁栄してきました。ここには「命の水の川」と書いてありますが、水は文字通り命を支えるものです。人間の身体はその60パーセントが水でできていますから、何日も水を取らないでいると、命を落としてしまいます。ですから、ヨハネによる福音書4章に出てくるシカルというサマリアの町に住んでいた女性は、毎日ヤコブの井戸に水を汲みに来ないといけなかったのです。
女性はその井戸の側でイエスに出会いました。イエスはこの女性に言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4章13-14節)
神の都に流れている川は、女性にイエスが語られた「永遠の命に至る水の流れ」のことです。この命の水は、神と小羊の玉座から流れ出しています。つまりこの水は神とキリストがくださるのです。
御子イエスは私たち人間と同じ肉体をもってこの地上に来て下さいました。そして私たち人間と同じように生きられて、終に十字架に架けられてしまったのですが、十字架上でイエスは「渇く」と言われました。イエスは私たち人間が覚える渇きを、身を持って味わってくださったのです。そのキリストは復活されて、今、神と共におられます。その玉座から流れているのが、命の水の川です。私たちは渇くことのない命の水を飲むことができるのです。
また、その川は都の大通りの中央を流れています。すなわち、道と川とがいっしょになって都を貫いているのです。人が歩く道が、玉座から流れ出る命の水の川と共にあることこそ、ほんとうに救いの状態ではないでしょうか。そしてこの流れの両岸には命の木があります。「22:2年に十二回実を結び、毎月実を実らせる」とあります。命の木にはいつでも実がなっているのです。この命の木の根はその川から命の水をもらって成長し、実を実らせているのでしょう。
この命の木は、世界のはじまりを語っている創世記から来ています。創世記2章には、かつてエデンの園の中央に、命の木と善悪の知識の木があったことが書かれています。主なる神は人に命じて言われました。「2:16園のすべての木から取って食べなさい。2:17ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」けれども、最初の人間であるアダムとエバは神の信頼を裏切って、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。神のようになりたいと思ったからです。その結果、二人はエデンの園から追放されてしまったのです。
創世記3章にはこのように書かれています。「3:23主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。3:24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」エデンの園から追放された人間は地上をさまよい歩くことになってしまい、命の木に至る道は、ケルビムときらめく剣の炎によって塞がれてしまいました。もうそこに行くことはできなかったのです。
しかし何と、その命の木が、神の都の大通りの中央を流れる川の両岸に生えています。しかも一本だけでなく、何本もたくさん生い茂っているのです。そのように命の木は流れの両岸に何本もあるのですが、不思議なことにこの命の木という言葉(ギリシア語)は単数形で書かれています。それはエデンの園にあった命の木です。つまり神が世界を創られた時から、この終わりの時まで、人間世界は神の御手によって一貫して導かれているということなのです。
命の木から遠ざけられ、地上をさまよい歩くことになってしまった人間ですが、神を信じることによって終わりの時にたどり着く都、幻で示された聖なる都に、この命の木があるのです。人が神を裏切ったが故に去らなくてはならなかったエデンの園に、人間は再び帰っていくのです。人が本来あるべき場所、神と共に生きる場所に戻り、神と顔と顔を合わせて語りあう関係に戻ることができるのです。この都に住む者は、渇くことのない命の水を飲み、この命の木によって養われて、神と共に生きることが、約束されているのです。
この幻を見ているヨハネは、旧約聖書エゼキエル書47章1-12節にある御言葉を思い浮かべていたのではないかと考えられています。エゼキエルはある時、神の幻によって神殿を見たのです。ところどころを引用すると、このように書かれています。「47:1水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方に流れていた。」「47:7川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。」「47:9川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」「47:12川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」ここには流れ出る川があります。(エゼキエル書では水は神殿から流れていますが、聖なる都には神殿がありませんから、神とキリストから直接流れ出ています。)そしてこの川が流れている所ではすべてのものが生き返るというのです。また川の両岸にはあらゆる果樹が育って毎月実をつけ、その実は食用となり、葉は薬になったと書かれています。
同じように、ヨハネが見た神の都の幻にある命の木も、年に十二回、毎月実を実らせ、その葉は諸国の民の病を治す、と2節にあります。命の木は、どの季節にも毎月絶えることなく実が実っているのです。十二というのは完全を表す数字です。そしてそれは諸国の民の病を癒す力があるというのです。ユダヤ民族だけでなく神の民だけでもない、世にある諸国のすべての人々の痛みや病が癒されるのです。命の木はすべての民のものです。
実際、この都には、3節にあるように「22:3 もはや、呪われるものは何一つない。」のです。なぜでしょうか。それはキリストが十字架に架かって死んでくださったからです。十字架は呪いの木でした。申命記21章22-23節にありますように、十字架に架かって死ぬことは、神に呪われたことでした。キリスト・イエスは私たち人間のすべての罪を負って十字架に架かってくださいました。つまり神の呪いをすべて引き受けてくださったのです。ですから、そこにはもう呪われているものは何一つなくなったのです。そのことによって、私たちは神に赦された者となったのです。
ですから、神の都には、神とその民との間をひき裂くものは何一つ存在しません。神とその民とは、愛と真実でしっかり結びついているからです。都は神と小羊の支配があまねく行き渡っていて、神の僕たちは晴れやかに神と小羊を仰ぎ見て礼拝しています。「22:3神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、22:4 御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。」また、神を信じる者には神の名が記されています。それは、この者は神のものであるという印です。
これが天上の教会の様子です。黙示録を語りながらいつも申し上げていますように、私たちが今捧げているこの礼拝は、天上の礼拝につながっていますから、先に天に帰って行かれた方々と地上に残されている私たちが、共に御座の中央におられる主なる神を礼拝しているのです。目には見えませんが、これが主の日の礼拝の内実です。礼拝というのは、私たちの心が神に向い、神に捧げられることであって、決して頭を下げてじっとしている状態のことを指すのではありません。神のために自分の身体も心もすべてを捧げている姿ですから、真に命に満ちた状態なのです。
ところで、神の御顔を見ることは地上では許されないことでした。モーセは神ご自身と語りましたが、御顔を仰ぐことは許されず、ただ後ろ姿を見るだけでした(出エジプト記33章20-23節参照)。また使徒パウロもコリントの信徒への手紙一13章12節で語っています。「13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」
地上では神を見ることはできませんでしたが、神の都ではそれができるのです。「22:5 もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」都には夜がないので、明かりも太陽の光さえ必要ありません。主なる神ご自身が照らしているからです。そしてそこには、支配する者とされる者の関係がなくて、すべての民が世々限りなくその国を統治するというのです。
そして感謝すべきことに、この都を照らす光は、もう既に私たちの所にも差し込んで来ています。キリストは既に来られました。キリストが架けられた十字架からは復活の光が射し込んできて、私たちを包んでいます。人間は神に命の息を吹き入れられて生きる者となり、再び神のところに帰っていくのです。私たちの人生の始めも終わりも神の御手の中にあります。私たちは、命から命へと、キリストの光の中を歩んでいくのです。
結びの部分には大事な言葉が書かれています。「22:6預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。」キリスト者はいつの時代も終わりの日を待ち望んでいました。実際には、二千年以上も年月は過ぎましたが、それはまだ起こっていません。しかしだからと言ってこの預言が誤りであり無駄であるというのではありません。その日その時は、盗人のように来るからです。私たちはこれから起こるはずのことを、キリストによって教えていただいたのです。
私たちが読んでいる聖書の言葉は神の真実に満ちています。天使がヨハネに「22:6これらの言葉は、信頼でき、また真実である」と保証しています。そして「22:7この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」と、ヨハネは今苦難の中にいる人々に本当の幸いを告げているのです。それは終わりの時を望み見ながら、アルファでありオメガである方、初めであり終わりであられるお方を信頼して生きることではないでしょうか。