富の危険

2025年10月12日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』
ルカによる福音書 18章18~30節
牧師 永田 邦夫

 先週は、宝田豊先生をお迎えしての特別礼拝で、本当に多くの恵みをいただきました。心から感謝いたします。また志村教会出身の先生が、アメリカで約半世紀に亘って福音伝道をしておられることにも感動であり、また誇りでもあります。

 では早速、本日箇所のルカによる福音書18章から神の言葉をお聞きしましょう。
その前に、新共同訳聖書では、救いの道に関する教えシリーズとして、次の三つのことが書かれています。
 一つ目は9節からの段落で、その内容は、「悔い砕けた心に与えられる神の義」についてです。
 二つ目は15節からの段落で、その内容は、「幼子のような心の者が入れる神の国」についてです。
 三つ目が本日箇所で、「信仰に入ろうとするときに大きな障害となるであろう富の危険」についてです。

 18節に「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた。」とあります。ここに書かれている「ある議員」とは、ユダヤ教の最高法院の議員の一人だと考えられます。最高法院の議員たちは、「律法に関しては、自分たちよりも右に出る者は誰もいない。」と自負していた人たちです。

 彼が発した主イエスへの質問、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」の言葉は、彼が本当に心から主イエスを尊敬して、イエスに問いかけたものではないことを、主イエスご自身はわかっておられたのではないでしょうか。
 その議員の問いに対する主イエスの答えが、19節「なぜ、わたしを『善い』というのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」です。

 この箇所に出てきた「善い者」について考えてみましょう。わたしたちが理解しているのは、主イエスさまが「善い方」だということです。しかし、この聖書箇所では、イエスさまご自身が「神おひとりのほかに、善い者は誰もいない。」と語られています。

 このあとイエスは、質問した議員が、どのように応答して来るかを確認するために、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」(出エジプト記20章十戒からの引用)と言われました。

 この主イエスの言葉に対して、議員が答えた言葉が21節にあります。「すると議員は、『そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。」

 「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言っているのは、この掟を誰でもが知っている常識のように捕らえ、大変軽く考えていることがわかります。
これを聞いたイエスは、彼が律法を知識として持っていることは、理解されました。

 しかしここで大事なことは、「律法をただ知識として持っていること」ではありません。そうではなく、主イエスが人々に説いておられることは、神の教えを信じて受け入れ、それを実行していくことです。

 主イエスが語られた教えは、単なる知識ではありません。
このことは、今日のわたしたちにも通じることです。福音の教えは、たとえそれらすべてを今すぐ実行していくことに困難が伴ったとしても、一歩一歩それを実行していくことが大切です。

 繰り返しとなりますが、律法の教えを議員に確認し、彼から、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」との回答を確認されたイエスは、彼に向かって続けて命じられました。それが22節です。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従ってきなさい。」
この命令は、彼にとっては非常に厳しいものだったことでしょう。

 では、主イエスから議員への命令の内容を、整理しながら確認していきましょう。
その一:「持っている物をすべて売り払いなさい。」との命令です。物(家財)を
売り払うということは、それを金銭に代える、ということです。

 イエスからこのご命令を受けたこの議員は、すんなりとその命令を聞き入れることができたでしょうか。答えは「NO」です。残念なことですが、彼はイエスの指示された命令を受け入れることができなかったのです。23節には「しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。」と書かれています。

 並行記事であるマタイによる福音書19章22節には、「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」と詳細に記されています。非常に残念な結末です。

 世間一般のことを考えてみますと、「金持ち」と言われる人は、自分が持っている金銭や財産すべてに対して人一倍大きな執着心をもっています。そして、その執着心ゆえに、金銭の用い方の優先順位すらも分からなくなっている人がたくさんいます。金銭に対する執着心が、時にはその人の正常な理性や判断力までも、狂わせてしまうのです。それで、本日の説教題を「富の危険」とさせていただきました。

 物事を適切に判断するということは、物事に対して、行動を起こす前に、その優先順位を決め、しかる後に、その優先順位に従って行動を起こすということです。このことが出来ないと、すべてにおいて、先ず金の事、自分の持っている金や財産のことを先に考えてしまいがちになり、これは非常に危険なことです。

 24節、25節に入りますと「イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』」と記されています。これは、当時流布していた諺であると言われています。

 その二:22節で主イエスがその議員に命じられた命令の第二のこと、それは、「持ち物を売り払ったのち、その代金を貧しい人に分けてやることです。」すなわち、先の売り上げ代金を、自分が後生大事にするのではなく、世の貧しい人々にそれを分けてやることです。

 続く23節、「しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。」とある通りです。福音書の並行記事であるマタイによる福音書19章22節では「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」と、詳細に記しています。

 そこを立ち去るとは、子供に対するおとぎ話なら、「これでおしまい」といって本を閉じるところでしょうが、わたしたちの福音伝道において、主の弟子として立ち上がるかどうかの瀬戸際において、「悲しみながら、そこを立ち去った」とは、何とも悲しい結末です。
最初に登場したときは「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問いかけてきた人だった、のにです。

 人が、福音伝道者として立ち上がろうとする時、その人が現在持っている物、それは金銭に限らず、職業や地位、知識等々、今まで築いてきた一切のものを捨てて、新しく歩み出す覚悟ができているか否かが問われるのです。

 主イエスが語られた「自分の持ち物を全て売り払って、しかる後に自分に従ってきなさい。」とは、すなわち、キリスト者としての歩みに入りなさい、という命令の言葉です。

 しかし、この議員は、自分が金持ちだったが故に、その財産を手放すことが出来ず、主イエスに従うこともできませんでした。それどころか、最初は息を弾ませ、主イエスに対して、「永遠の命を受け継ぐには何をしたらよいでしょうか」との答えを、イエスから聞き出そうとしてやって来たのですが、それとはほど遠い、悲しい結末となってしまったのです。

 わたしたちの今日の福音伝道においても然りです。教会へのお誘いの言葉は、繰り返し、繰り返し言わないと、なかなか聞いてもらえないと言う厳しい状況があります。しかし、それにめげることなく、誘い続けることが大事です。

 次の26、27節には「これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言うと、イエスは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた。」とあります。「これを聞いた人々」とは、議員の周りを取り囲んでいた多くの人々でしょう。この人々も議員と同様に、主イエスのお言葉、すなわち、永遠の命を受け継いで主の弟子となっていくことの難しさを嘆いたことでしょう。

 27節の「人間にはできないことも、神にはできる。」このお言葉は、さすがイエスのお言葉だな、と感じさせられました。わたしたち人間にできないことは、数えきれないほど沢山あります。しかしそれらの一つひとつ、神にはできます。それには、わたしたちの信仰が基本となります。神を信じる心を持って、主イエスに従ってまいりましょう。
そして、イエスさまに問い続けながら、答えが与えられることを信じて従っていくことです。「何事も、信じれば,その答えが与えられる。」と一般の諺にもあるくらいです。

 次は29節、30節です。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。』」と、本日箇所の締め括りとなる教えがあります。
これはわたしたちにとっては大変厳しいお勧めですが、主イエスによる救いとは、それほどにまでも価値のある尊いものだということです。弱いわたしたちの信仰ですが、これからもイエスに助けられ、力をいただきながら歩んでまいりましょう。