2025年11月9日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』
ルカによる福音書 18章31~34節
牧師 永田 邦夫
本日も主の恵みと御導きの中で、与えられている御言葉をご一緒にお聞きして参りましょう。
主イエスは、ご自身の十字架の死と、その死から三日目の復活について、都合三回にわたり予告されました。その三回にわたる予告の概要とその強調点を、ルカによる福音書から確認して、本日箇所に入りましょう。
第一回目の予告の9章21~27節で、主イエスは弟子たちを戒め、このことはだれにも話さないようにと口止めをされた上で、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(22節)と告げられました。
ではなぜこのように、弟子たちに対して強く口止めされたのでしょうか。これについては、主イエスご自身の死と復活のことが、広く知れ渡ることによって、特に世の支配者に知れ渡ることにより、弊害が生じることを恐れてのことであろう、と言われています。
第二回目の予告は、同じく9章43b~44節に次のように記されています。
「イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。『この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。』」とです。
この告知は、主イエスご自身が、自分の死と復活の時期が、いよいよ近づいてきたことを察知されてのことです。
なお、この二回目の予告では、主イエスから弟子たちへの口止めの言葉はありません。弟子たちから見ますと、主イエスが告げた言葉を弟子たちは理解することすらできなかったのです。
これに関しての言葉が45節に、「彼らには理解できないように隠されていたのである。」とありまして、これはすべて、御父なる神のご計画の中で進められていた、と理解することが出来ます。
さらにこの45節には、もう一つのことが記されています。それは「彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。」との言葉です。
これについて、聖書解説者(神学者)は言います。主イエスが言われた、死と復活のことが理解できなかったなら、単刀直入に主イエスに聞けばよいのに、とも考えられるが、弟子たちが主イエスに対して期待していたのは「勝利者であり、栄光の主としてのイエスさまの姿であったからだ。」と説明しています。
そして聖書は更に進み、9章51節には、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」とあります。そしてこの後、数々の教えや癒しのわざを行いながら、エルサレムへと進まれたことが記されています。
では本日箇所に入ります。
31節の「イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上っていく。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。』」について見ていきましょう。
ここで「預言者が書いたこと」とは、やがて、救い主なるメシアが到来して、世の人をその罪から救ってくださると、旧約聖書で繰り返し民に告げてきた預言の言葉のことです。
ではその、預言者が書いたことについて、イザヤ書から、救い主メシア到来の預言について見ていきましょう。
(1)イザヤ書42章1~9節には、「主の僕の召命」の預言があります。
その1節2節には「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。」とあります。
◎この聖句で、「わたしの僕、わたしが支える者」というのは、すでに世に来られた救い主イエス・キリストのことです。
(2)イザヤ書49章1~3節には、「主の僕の使命」の預言があります。
「島々よ、わたしに聞け 遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び
母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して わたしに言われた あなたはわたしの僕、イスラエル あなたによってわたしの輝きは現れる、と。」の言葉です。
◎イスラエル、とは元々ヤコブに与えられた個人名でありましたが、のちには「神によって選ばれた契約の民イスラエル全体」を表す言葉となりました。
(3)イザヤ書50章4~6節には、「主の僕の忍耐」の預言があります。
「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え 疲れた人を励ますように 言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし 弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」とあります。
◎主の僕の苦難と忍耐の預言の言葉です。
(4)イザヤ書53章1~3節には、「主の僕の苦難と死」の預言があります。
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」とあります。
◎「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。」
この箇所は、クリスマス礼拝や集会において、よく聞く聖句です。
(5)続いて、イザヤ書53章6~9節には次のように記されています。
「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。 そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。」
◎この箇所で、6節の言葉「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせた。」は、わたしたちの心に強く迫って来る、印象的な聖句です。
では32~33節を見てみましょう。ここには次の三つのことが記されています。
その1:人の子(主イエスが自らを表現)は異邦人の手に引き渡される。
その2:人の子は侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。
人の子は鞭打ってから殺される。
その3:人の子は三日目に復活する。
それぞれについてさらに詳しく見ていきましょう。
その1:「人の子は異邦人の手に引き渡される。」について。
これについては、先に見てきました、イザヤ書53章1~3節の段落で「彼は軽視され、人々に見捨てられ、云々」と記されていますように、主イエスは自分の民イスラエルから引き離されて、異邦人すなわち議会(最高法院サンヘドリン)の役人や官兵等の手に渡されました。この「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」という言葉は、世の人々との生活から引き離されて、孤独のどん底に突き落とされたことを意味しています。
その2:「人の子が侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる」について。
実際にこの後、主イエスは十字架につけられ、人々から、ののしりの言葉「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」(マルコによる福音書15章29b~30節)、また、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」(マタイによる福音書27章42節)等の侮辱の言葉を受けました。
さらにまた、「そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。」(マタイによる福音書27章28~30節)と、侮辱、軽蔑、そして虐待の限りを尽くしたことが伝えられています。
その3:「人の子は三日目に復活する。」について。
これについては、黙想しつつ、皆さん夫々に思いを巡らしましょう。
最後の34節には、「十二人はこれらのことが何も分らなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」と結ばれています。「これらのこと」というのは、本日お読みしたイエスが弟子たちに語られた予告の言葉です。
以上のことについて、皆さん夫々、思いを巡らしながら,祈ってまいりましょう。