2025年11月23日(主日)
主日礼拝『 賛美礼拝 』
ヘブライ人への手紙 13章14~16節
牧師 常廣 澄子
本日はこのようにたくさんの方々と御一緒に、楽器や合唱などいろいろな形で主を賛美する豊かな「賛美礼拝」をお捧げできますことを心から感謝いたします。
キリスト教の礼拝にあっては、神を賛美するということは祈ることと共に最も自然な行為です。
はじめに、「賛美する」ということはどういうことなのか、考えてみたいと思います。単純に言えば「賛美する」というのは、誰か(あるいは何か)を「ほめたたえる」ことです。普通日本語で「ほめる」という言葉は、相対的に上位にある人がその下に位置する人を、良い意味で評価する場合に用いられます。そのほめる程度が著しく高い時に「ほめたたえる」とか「賛美する」「称賛する」という言葉が使われます。つまり、私たち神を信じる者が、礼拝で神の御業を賛美するのは、主なる神の御業が本当に素晴らしいことを知っているからです。そしてそれは言うまでもなく、神と人間の間に応答し合う人格関係が成り立っているからです。そして神に呼び集められた私たちが神の御業に応答して、神に語りかけているのが賛美だと言う事ができます。
神の御業に対して、人間の側からささげられる賛美は、旧約聖書にその起源があります。それは先ほども言いましたように、神とイスラエル民族の間に人格的な関係が成立していたからです。古代イスラエルの人たちは、賛美の歌を生み出し、発展させました。旧約聖書の詩編には、きわめて芸術性の高い洗練された賛美の歌がたくさん含まれていますが、この様な優れた詩編の作品からは、旧約の詩人たちの精神の気高さがわかります。天地万物の創造者、また世界の統治者である神への全き信頼無くしては、そのような詩編が生まれることはなかったと思います。
今の時代、キリスト教の教会では、礼拝の中で説教があり、主の晩餐やバプテスマ等の礼典が執り行われます。しかし、古くから神を礼拝するために人々が集まって行ってきた具体的な行為は「ささげもの」をすることでした。今の言葉でわかりやすく言うなら「お供えもの」をすることです。人間が神を礼拝するという行為は、神の御業や啓示に対する畏敬の念を表し、神から示された愛や赦しや救い等の数えきれない恵みに対する感謝や献身という応答に他なりません。そしてその心を表すために「ささげもの」をしたのです。旧約時代には、それは「犠牲」と言う形でささげられました。犠牲というのはつまり「いけにえ」です。自分の罪の身代わりに動物を屠った(殺して捧げた)のです。
レビ記には、この犠牲のささげものについて、事細かに約束事が書かれています。当時の人々はそれらを厳格に守らなければなりませんでした。しかし詩編の記者たちは、神殿でささげられる犠牲は、形をとって見せるための手段であって、神が真に人間に求めておられるものはもっと深い所にあるということに気づいていました。そのことが詩編の随所に歌われています。
「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も、罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」(詩編40編7節)「告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ。」(詩編50編14節)「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩編51編19節)等々があります。ここに書かれているように、心からの賛美と打ち砕かれた悔いた心の告白こそが、立派な犠牲の動物を屠って神に捧げる行為よりも、神に喜ばれる「ささげもの」であることを、当時の人たちも分かっていたのです。そしてそれこそが礼拝の中心でなければならなかったのです。
ところで私たちが今、礼拝に出るとき、そこに犠牲のささげものはありません。「ささげもの」として持ってくるのは、神に感謝する心、「神を賛美する心」だけです。このように誰もが自由にありのままで神の前に出られるのは、神がその独り子イエスを「いけにえ」として与えてくださったからです。この完全な「犠牲」のいけにえによって、私たちは守れるはずのない律法から解放され、ただ主イエスを信じる信仰によって、神の前に立つことが許されているのです。
ここで大切なのは、礼拝というのは個人的行為ではなく、教会全体での行為であり、世々の聖徒たちと共にささげるものであるということです。「天にまします我らの父よ」(私の父ではない)と祈っている私たちは、共同体全体として賛美のいけにえをささげなくてはなりません。教会がこの世に存在している大切な働きの一つは、神に対して公同の礼拝をささげることだからです。
賛美をささげるには、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです(ローマの信徒への手紙10章10節)。」と聖書が勧めているように、先ず口に出して語ることが大切です。人が感動をもって語る時、それは詩となり歌となるのです。
本日与えられている御言葉をお読みします。「13:15 だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう(ヘブライ人への手紙13章15節)。」このヘブライ人への手紙は、初期の原始キリスト教の社会において、ユダヤ教との基本的な違いと新しい信仰生活への勧めを論理的かつ情熱的に語っている重要な手紙の一つです。この手紙の著者は、今は遠く離れているが、以前は親しい関係にあったヘブライ人の信徒たちに対して、キリスト信者への迫害やユダヤ教との関係でキリストの福音から離れようとしている危機の中にある人たちに、キリストの十字架の意義を明確に伝えようとして心を込めて書いています。
当時影響力を持っていたユダヤ教が強調していたのは、律法主義と祭儀主義(祭りなどの儀式優先)でした。ヘブライ人への手紙の著者は、旧約聖書についての豊富な知識を駆使して、12章までに「律法を守り、祭儀行為による救いがいかに人間にとって達成不可能な目標であるか、主イエスの犠牲を信じて受け入れることのみが赦しを成就する唯一の道であること」を論じて、最後の13章で結びの勧告を語っています。とりわけ15節で、神の御名をたたえる賛美のいけにえをささげることを奨励しています。これを日々、私たちの唇の実(言葉による祈り)でささげましょうと勧めているのです。
とはいっても、私たちの祈りの言葉は貧しく、聖書の知識も教会暦やその他キリスト教神学の知識も足りません。そこで、これらを補い導くのに多くの讃美歌が役立ってきました。旧約聖書の中にもそのことが書かれています。
申命記31章19節をお読みします。「あなたたちは今、次の歌を書き留め、イスラエルの人々に教え、それらを彼らの口に置き、この歌をイスラエルの人々に対するわたしの証言としなさい。」
神の御業やその御心を人々の心に残す最も良い方法は、人々の心に残る歌です。この19節はそのことを語っています。神の教えを人の心に残すのに最も良い方法は讃美歌だということです。そのために讃美歌は内容が聖書的であること、人々がすぐ覚えて歌われるような歌であることが求められました。実際、優れた讃美歌は簡単に覚えられて、大切な聖書の御言葉等の深い思いをわかりやすく表現しています。そして誰でもいつでも口ずさめるのです。
続いてその後に書かれている申命記31章21節をお読みします。「そして多くの災いと苦難に襲われるとき、この歌は、その子孫が忘れずに唱え続けることにより、民に対する証言となるであろう。」
私たちは悲しい時や苦しい時、しばしば讃美歌を歌うことで慰められ、励まされ、力を受けることがあります。ここに書かれているように、讃美歌にはそれを歌う人々の言葉を補って信仰を語り、主を賛美し、感謝の祈りや宣教の言葉が含まれています。また、その人の悩みや痛みを訴え、心の願いや祈りを語り、自らの信仰をも励ましてきたのです。聖書の言葉はなかなか覚えられませんが、歌いやすく解りやすい讃美歌の言葉は直ぐに口に出てくるからです。
私は時々、昔覚えた讃美歌の歌詞がそのまま口に出て来るのですが、今は時代が移り変わって、世の中の価値観が変わり、言葉使いや言葉の意味まで変わって来ています。差別用語として、気を付けなければいけない言葉使いもありますから、注意することも必要になりました。しかし感謝なことに今ではどんどん新しい讃美歌が作られて歌われ、礼拝が本当に豊かになっています。
私たちは主にあって日々新しく生かされています。そして絶えず聖霊の導きと守りの中にいます。賛美のいけにえを通して、いろんな方々と喜びを共にする礼拝をささげたいと願っております。また16節にあるように、良い行いや施しもまた神へのいけにえであることを忘れないでいたいと思います。