2025年12月21日(主日)
主日礼拝『 クリスマス礼拝 』
ルカによる福音書 4章16~21節
牧師 常廣 澄子
皆さま、クリスマスおめでとうございます!
本日はようこそ志村バプテスト教会においでくださいました。アドベントクランツに4本目のろうそくが灯り、ご一緒に2025年のクリスマスをお祝いできますことを心から感謝いたします。
クリスマスは何かしらみんなの心が楽しくなり、誰もがこの日を喜んで迎えます。教会だけでなく、デパートや商店街もクリスマスのいろんな飾りやキラキラ輝くイルミネーションで、ほんとうに華やかになります。子どもたちはサンタさんにお願いするプレゼントを考えながら楽しい夢を見ます。人々は家族やお友達と集まって一緒に美味しいケーキや御馳走を食べて幸せな時を過ごします。きっと久しぶりに会ったお友達とおしゃべりがはずむことでしょう。お互いにプレゼントを交換して喜びを分かち合ったりして、クリスマスは本当に素敵な時です。
どうして私たちはこのようにクリスマスをお祝いするのでしょうか。それは神の御子イエス・キリストが、私たち人間の救い主としてこの世に来てくださったからです。間違えてサンタクロースの誕生日だと思っている人もいるようですが、私たちはイエス様の誕生を喜んでお祝いしているのです。神の御子イエスの誕生はすべての人間のためであり、全世界的な出来事であったにもかかわらず、世界で最初のクリスマスの出来事は多くの人に知られることはありませんでした。けれどもそのことが起きてから今まで二千年以上にわたって、その不思議な驚くべき出来事は、世界中の人々に語り伝えられているのです。私たちは聖書を通して、神が人間に示された深い愛と赦しの御業を告げ知らされてきたのです。
教会にも飾ってありますが、ご家庭でも馬小屋の聖家族のセットや人形を飾っておられる御宅があるかと思います。私はそれを見る度に、神が人間に示された驚くべきへりくだりと、貧しく小さくされた者たちに対するいたわりの気持ちや優しさを感じます。実に神の御子の誕生なのですから、人間的に考えるならば、立派な宮殿のきれいな部屋でお生まれになるのが当然のことだったでしょう。はるばる東の国からお祝いに駆けつけた博士たちが、まずヘロデの宮殿に行ったのは最もなことでした。救い主が馬小屋でお生まれになるなどとはいったい誰が想像したでしょうか。しかし、神はその大能の力や権力を華々しく示そうとはされなかったのです。豪華な宮殿ではなく、貧しい家畜小屋で御子イエスはお生まれになりました。そしてそのニュースはまず野原で夜、羊の番をしていた羊飼いたちに、天使が現れて告げ知らされました。このように、世界で一番初めのクリスマスは、世の中の一番小さくて弱くて貧しい人たちに示されました。なぜならば、神にとってそれらの人たちが一番大切だったからです。
神の御子イエスがこの世に降って来られたということ、つまりひとりの可愛い赤ちゃんがこの世に誕生したという出来事は、心あたたかくうれしい気持ちになります。しかしその背後で、天使が現れてイエスの身ごもりを告げられた時の乙女マリアの驚きと迷い(遂には「お言葉通りに」と全能の神を信じる全き信仰をいただきましたが)や、夫ヨセフの悩みや苦悩、人口登録のために旅をする身重のマリアとヨセフの大変な苦労、ベツレヘムの宿屋はどこも満員でしたからイエスは家畜小屋でお生まれになったこと等々、毎年毎年、何度聞いても不思議な降誕物語です。私はそれらのことを想像しながら、人知を超えた神の御業について考えずにはいられません。
例年、福音書の降誕記事からクリスマスメッセージを語ってきましたけれども、本日は世に遣わされたイエスが、神の御子としての御業を開始された出来事から聞いていきたいと思います。言わば仕事始めのイエス様です。赤ちゃんイエスではなく、ここには立派に成人されたイエスがおられます。ナザレという小さな村の、貧しい大工の息子としてお生まれになったイエスは、およそ30歳頃に神の宣教の働きを開始されました。まずバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、その後40日間、荒れ野で悪魔の誘惑を受けられました。イエスは悪魔からのあらゆる誘惑に打ち勝ち、霊の力に満たされて故郷のガリラヤに帰られました。そして諸会堂で教え、皆から尊敬されていったのです。
ある安息日のことです。イエスはお育ちになったナザレの会堂に入られました。「4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。」当時、各地の会堂で行われていた礼拝では、まずシェマーの祈りがあり、律法や預言の書が朗読され、それについての説教があり、最後に祝祷という形で行われていたのではないかと考えられています。今私たちが毎週行っている礼拝の原型と言えるかもしれません。
当時は、安息日に会堂で話をしようとする人は誰でも、随意に立ち上がれば、係の者が聖書の巻物を渡してくれたようです。渡された人は巻物を開いて読み、その箇所について講和をするのが慣例でした。この日はイエスが立ち上がられたので、会堂の司がイエスに預言者イザヤの巻物を渡しました。イエスはそれを開いて次の箇所を朗読されました。
イエスが朗読された御言葉が18節から19節にありますが、これはイザヤ書61章の1-2節と、58章6節の御言葉を合わせたものです。「4:18 主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、4:19 主の恵みの年を告げるためである。」18節に「油を注がれた」とありますが、この行為は、王、祭司あるいは預言者などを任職する時の儀式で行うもので、救い主(メシア)という言葉の元の意味は、「油を注がれた者」ということです。ですからイエスがここで「主がわたしに油を注がれたからである」と言っておられるのは、神がイエスを救い主とされたということです。
ここでイエスが朗読された預言書の言葉は、まさにイエスが説こうとしている「神の国の福音の本質」そのものでした。21節でイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られています。このイザヤの預言は、今日成就したことを告げたのです。つまり今からは「主の恵みの年」であるということです。この預言には様々な人たちの解放が宣言されています。貧しい人の解放、捕らわれている人の開放、目の見えない人の解放、圧迫されている人の解放、負債のある人の解放等々です。こういう様々な重荷を抱えている人々に救いをもたらすために、イエスは来たのだと語ったのです。まさに福音です。
この預言の言葉は、イスラエルの民がバビロン捕囚から救出されることを、ヨベルの年と関連させて描いています。主のための安息には、7年目ごとの安息の年と50年目のヨベルの年がありますが、「主の恵みの年」には、人々のすべての負債が取り消され、奴隷である者はみな解放され、土地などの所有物は最初の持ち主に戻されます(レビ記25章参照)。これは貧しい人々にとっては福音でした。バビロン捕囚からの解放もそれと同じようになるであろう、囚人は解放され、敵の圧迫によって打ちひしがれていた者たちは解放され、彼らは喜びつつ故郷に帰ることができるであろう、そのような素晴らしい「主の恵みの年」が来るであろうと預言されていたのです。
しかし実際にイスラエルの民がバビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰還しても、彼らが待ち望んでいたようなことは実現しませんでした。それ以後、数世紀にわたって、彼らは依然として圧迫され、征服され、貧しく打ちひしがれていたのです。
そういうイスラエル民族の歴史を顧みるなら、ここでイエスが語ったこと、つまりこの旧約聖書の預言が成就されるということがどんなに驚くべきことであるかがわかります。実に今は恵みの時であり、この預言を実現する者が今ここにいるのだと語ったのです。過去の多くの預言者たちが告げ知らせた預言の出来事、ユダヤの歴史が予表してきたことが、今まさに彼らの目の前で成就したのだ、とイエスは言われたのです。
イエスが語られたことは、神殿の祭司たちや律法学者たちが語った教えとは、全く異なっていました。これまで、ユダヤ教の指導者たちが民衆に向かって語ったことはといえば、律法の細かい規則を延々と語り、それはいけない、あれはいけない、このようにしなさい、あのようにしなさい等々、その生活を批判して裁いて細かい規則を上乗せし、さらに厳しく束縛していくような教えがほとんどでした。また、ある祭司は神殿礼拝を尊重するように説き、これこれを奉納しなさいと供物や献金を要求することもあったようです。
けれどもイエスが語った教えは、束縛ではなく解放、供物の要求ではなく恵みと祝福を与える福音でした。イエスは律法の下で喘いでいた(律法を守れない人たちは罪人だと言われ虐げられていました)弱く貧しい人たちの解放と救いを宣言したのです。その福音を宣べ伝えるために、イエスは油を注がれ、メシア(救い主)として遣わされたお方だったのです。すなわちここに書かれているイザヤ書の預言はイエスにおいて成就したのです。イエスの教えがいかに民衆の心をとらえ、ここに集っていた人々の耳に新鮮に響いたかは想像に難くありません。
しかしながらここで大事なことは、イエスがここで人々に告げたことは、政治的あるいは社会的な開放ではないということです。当時、ユダヤの国はローマ帝国に支配されていましたが、イエスはここで、政治的な扇動家として立ち上がられたではなく、恵みの主として立ち上がられたのです。イエスが語られた解放の言葉は、バスティーユの牢獄の扉を押し破ったフランス革命の鬨の声でもありませんし、ロシアの専制国家を倒したモスクワの赤の広場での叫びでもありません。これは聖霊に満たされた神の御子イエスが語った最も根本的な人間解放の宣言でした。それは人間を悪魔の束縛から解放し、神の御心に適った者とするという御霊の働きの宣言だったのです。
神から来るこの御霊の働きだけが人々を永遠に救うのであって、社会的政治的な救済は一時的であり、また相対的なものにすぎません。貧しい人々にお金を与えることは確かに一時の救いかもしれませんが、富や財産を得たからといって心や魂が豊かになるわけではありません。牢に囚われている人を釈放するのは救いかもしれませんが、罪の縄目の束縛を絶たれなければ、その人は心から自由を楽しむことができません。目の見えない人の目が見えるようになったり、病気の人を健康な身体に回復してあげるのは確かに素晴らしい癒しですが、もし心の目が開かれていなければ、ほんとうに健康な人として生きていくことはできません。債務の免除も有り難いことですが、罪の負債はキリストの十字架によらなければ返済できないものです。
このように、すべての社会的政治的な救いの手立ては、その時の状況によっては人々を助けるものであり大切なことですが、神の御子イエスが世に遣わされた使命はそういうことにあったのではないのです。イエスがこの世に来られた真の目的は、人間の心が真に神の前で平和を得、御心に添っていろいろな重荷から解放されていくことでした。イエスはこの目的のために御自身をささげられ、この目的のために死なれたのです。
イエスが語った教えが福音書のあちこちに書かれていますが、イエスにとって大切なのは、律法を守ることよりも人の心でした。それぞれが違った重荷を負って人生を歩んでいる私たち一人ひとりの心を大切にすることでした。その悲しみや寂しさ苦しさを一緒に感じとって生きようとする心をイエスは私たちに教えられたのです。これが神の愛であり、主の福音です。
福音(ギリシア語でユーアンゲリオン)という言葉は、この礼拝堂正面の柱にも刻まれていますが、「良きおとずれ(良き知らせ)」という意味です。ギリシアの国ではポリス同士の戦いの時には、男性たちが戦いに出た後、家で取り残されていた老人や女性や子どもたちは不安と恐怖で恐れおののきながら戦場からの知らせを待っていました。そんな時に、軍隊より一足先に伝令が駆け戻って「我が国が勝ったぞ」という知らせを持ってくるなら「もう大丈夫だ、殺されることも捕虜になって連れ去られることも奴隷に売られることもなくなった。良かった、良かった。」と、喜びがあふれてきます。そのような開放の良き知らせをもたらすものが福音なのです。
イエスが公生涯のはじめに語られたことは、まさしく私たち人間への福音でした。主なる神がイエスに油を注がれ、救い主として私たち人間に救いと開放を告げられ、「主の恵みの年」を宣言されたのです。クリスマスの喜びがどこから来るのかこれでわかったと思います。皆さま、どうぞこのことをしっかり覚えて、素敵なクリスマスをお過ごしになられますようにと心から願っております。