輝く明けの明星

2025年12月24日(水)
クリスマス・イブ礼拝
ヨハネの黙示録 22章12~17節
牧師 常廣澄子

 皆さま、こんばんは。今夜は志村バプテスト教会のクリスマス・イブ礼拝にようこそおいでくださいました。心から歓迎いたします。普通この時間に教会に来ることはないと思いますが、教会の庭のきれいなクリスマス電飾の光が皆さまを迎え入れてくれました。ご一緒に静かな夜のひととき、クリスマス・イブの恵みを味わいたいと思います。

 日曜日のクリスマス礼拝でもお話しましたが、クリスマスは、すべての人に与えられた大きな喜びのおとずれです。二千年前、ベツレヘムの野原で夜、羊の番をしていた羊飼いたちに輝く天使が現れて告げました。「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカによる福音書2章10-11節)「救い主がお生まれになった。」これが全世界のすべての人に与えられたクリスマスの喜びです。そしてそのニュースが、まず最初に野原の羊飼いたちに知らされたということは、彼らのようにこの世の底辺に生きている、いと小さく弱く貧しい存在が神にとって最も大切だからです。救い主は神の御子でありながらも、立派な宮殿ではなく粗末な馬小屋で誕生されたというつつましい出来事こそが、真の神がどのようなお方であるか、真の神の愛がどのようなものであるかを良く表していると思います。

 それともう一つ大事なことは、このクリスマスの喜びは、クリスマス礼拝、クリスマス・イブ礼拝が終わって、12月25日のイエスのお誕生日と言われる日が過ぎると、忘れ去られてしまうような年中行事ではないということです。そのことが今晩お読みしたヨハネの黙示録の中に書かれています。
 「22:16 わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」ここでは、「わたし、イエスは」というように、イエスご自身が直接語りかけておられます。十字架で死なれたイエスですが、死に勝利し、復活して、イエスは今、生きておられるのです。昨日も今日もいつまでも信じる者と共に生きて働いておられます。そしてこの御言葉では、ご自身を「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」と紹介して、私たち一人ひとりにそのことを宣言し、語りかけているのです。(ここにある「ひこばえ」というのは、切られてしまった草や木の株から出てきた新しい芽のことです。)

 そのように、クリスマスは、イエスご自身が全世界の人々に向かって「わたしイエスはこうこうこういう者である。」と語りかける言葉を聞いて、それを心に刻むべき時でもあります。もう既にそのことを信じている人であっても、毎年確認したいことです。私たち人間はそれぞれ顔も形も違い、考え方も生き方も違いますが、そういう私たちすべての人間に何の隔てもなく、一人ももれなく、等しく神の救いの約束、福音を知るように招かれているのがクリスマスの喜びなのです。

 また、イエスご自身が言われた言葉「わたしは、ダビデのひこばえ その一族」というのは、イエスの誕生が偶然の出来事であったのではなく、神に選ばれたイスラエル民族の歴史を背景にした、神の深い計画によってなされたことであるということです。イエスが「わたしはダビデの子孫である」と言われているのは、ただ血筋の問題だけではなく、イスラエル民族の歴史を通して働かれている神が、人類全体に対して計画された救いの実現なのです。パウロはこのことを、ガラテヤの信徒への手紙4章4節で「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」というように、神の決断の時が来て、イエスがこの世に生まれたのだと語っています。

 そしてさらに大切なのは、そのイエスが「輝く明けの明星」であるということです。(皆さま方はたぶん東京に暮らしておられる方が多いのではないでしょうか。都会の夜は明るいですから、なかなか夜空の星を眺めることができないかもしれません。)この「明けの明星」というのは、明星(アカボシ)とも言われ、夜明け前の東の空に大きくキラキラと輝く美しい星です。(因みに夕方、西の空に出ると「宵の明星」と言われます。これは太陽系の二番目に回っている惑星、金星のことです。)

 昔の人たちは、夜は人工的な明かりなど全く無い真っ暗な世界で暮らしていましたから、明けの明星が輝きだすと、ああ、もうすぐこの暗い夜が明けるのだ、そして明るい朝が来るのだと喜びを実感したのではないでしょうか。これは人間の力を超えた神の働きです。神は私たちに暗い夜を過ぎ去らせ、新しい朝を与えてくださるのです。

 詩編30編5節には、「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」という御言葉がありますが、いろいろと思い悩んでいる時には、この御言葉がどれだけ慰めと励ましを与えてくれたかしれません。この星(夜空に輝く明けの明星)のことを、イエスがご自身のことである「わたしは輝く明けの明星である。」と言っておられるのです。もちろんこれは象徴的な表現ですが、神が夜のとばり(帳、帷、室内を隔てるために足れ下げる織物)を開けて、新しい朝を与えてくださるということです。実際そのように、夜明け前に、まず明けの明星が輝いて、それからだんだんと東の空が明るくなってきて太陽が上がってくるのです。

 イエスが「わたしは輝く明けの明星である。」と言われる時、そこには、暗い夜が明けて新しい朝が来ているのです。先日のクリスマス礼拝で語った御言葉に通じる神の宣言です。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(ルカによる福音書4章21節)つまり、全世界と全人類、すべての人に関わる新しい時代、真の神が支配する日、世界の夜明けが近づいている、ということです。このことを明確に宣言しているのが、この「わたしは輝く明けの明星である。」というイエスの言葉です。暗い夜が過ぎ去って明るい新しい朝が来る、つまり、すべての人に関わる新しい時代が始まるのだとイエスは語ったのです。

 先ほど、イエスはダビデの家系からメシア(救い主)としてお生まれになったことを話しましたが、その預言はイザヤ書の中に書かれています。そしてそのメシアが王となってこの世を支配された時のことが、イザヤ書11章に「平和の王」として書かれています。「11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち 11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。11:3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。11:4 弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。 11:5 正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。11:6 狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。11:7 牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。11:8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。11:9 わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。11:10 その日が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」

 ここには非常に不思議なことが起きています。この御言葉には、互いに争い合い、食い殺し合っている猛獣や毒蛇や野生のいろいろな動物たちが出てきますが、その中に小さな子どももいます。しかしどの一匹もケンカしたり死んだり、損なわれたり、怪我をすることなく、安らぎと平和があるのです。ここには生きとし生ける者たちの真の共存の世界が描かれています。これは神を知る知識と神を畏れる霊に支配される時に、こういう世界が来るのだという、クリスマスの恵みの最終到着地点です。ここに書かれている猛獣も毒蛇も家畜たちも皆、それぞれの存在を認め合って共に仲良く生きています。それはクリスマスのおとずれが、ただ人間だけに与えられている喜びや恵みではなく、生きとし生ける者すべてのためであるということです。

 クリスマスには、馬小屋でイエスが誕生された時の聖家族の置物や人形、その時の様子を描いた絵などをいろいろ見ると思いますが、気づくことはその馬小屋の中には必ず牛や馬が顔を出していることです。普段何気なく見ていると、そういう牛や馬は何か付け足しのように思われるかもしれませんが、このイザヤ書の預言を読んでいくと、彼らもまた大切な役割を担っていることがわかります。馬小屋の牛も馬も、お祝いにやって来た羊飼いが連れてきた羊たちも皆、イエスがこの世の救い主、支配者として来られ、自然界のすべての生き物たちにとっての平和の王であることを証しているのです。今、世界では、人間の欲望によって各地の自然が破壊され、絶滅する危険のある野生の鳥や虫や動物たちがたくさんいますが、クリスマスを迎えた私たちは、明けの明星として来られたイエスが、人間のことだけでなく、小さな弱い野生の生き物たちにも救いを与え、クリスマスの恵みを注いでいておられることをしっかりと覚えたいと思います。

 私たちが生かされているこの時代は、まさに闇の中にあります。人間の罪と過ちのために、国と国、人と人の関係が乱れ、破れ、争いは止まず、一触即発、人類全体の危険をもはらんでいます。私たちが背負っているこの難しい時代には、神の約束の御言葉こそが、本当の安らぎや平和や和解をもたらすものであることを知らねばなりません。私たちは語りかけられている神の御言葉を受け留め信じて、一人ひとりがその生活の中で、神の愛と赦しに応えて生きて行かなくてはなりません。そして「主よ、来てください」と祈りながら、いつの日か、すべてのものが新しくなって神の国が来るのを待ちたいと思います。「22:17 “霊”と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」いろんな意味で渇いている私たちには、日々命の水が必要です。誰でもいつでも価なしに飲むことができる命の水(神の御言葉)によって、来たる新しい年も心新たに生かされて行きたいと願っております。