2026年3月1日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』
ローマの信徒への手紙 9章1~18節
牧師 常廣 澄子
前回で、ローマの信徒への手紙のちょうど半分の8章まで読んでまいりました。パウロは1章から8章まで人間の救いについて取り上げ、福音の本質と信仰の意義について語っています。8章はこの書の頂点とも言うべき箇所で、福音信仰の頂上に達したかのようにパウロは救いの喜びを語っています。とりわけ8章の後半はキリスト者の自由と栄光である信仰の勝利が語られています。
ところが9章に入りますと、突然調子が変わってきて、今までは明るく希望に満ちていましたが、何か低く沈痛な響きになっているように感じます。8章までパウロはほとんど間を置かずに、キリスト者の救いの喜びと自由を一気に語っていたのですが、ここでは一転して、パウロは深い悲しみを感じているのです。いったいそれはどうしてでしょうか。
キリスト者の救いや栄光の姿を喜んでいたパウロでしたが、ひるがえって自分の同胞であるユダヤ民族の現状を考えると、彼らの多くは自分のようにキリストへの信仰を持っていないどころか、反対に神に背き、キリストに敵対しているわけです。救いどころか滅びの淵に立っている状態です。ですからそのことを考えると、自分の救いを喜んでばかりおれないというのがパウロの正直な気持ちでした。愛する自分の同胞たちの惨めな状態を思うと、パウロの心に深い悲しみと痛みがこみあげてきたのです。
パウロにとっては、自分も同じユダヤ人という民族であり、歴史的にも神の特別な選びを受け、役割を与えられている民族です。しかしこのユダヤ民族は、今、キリストの救いから外れて滅びの道を歩んでいる状態にあるわけです。彼らの救いに対する課題は多く、信仰による救いを説くパウロの福音伝道とは切り離し得ないものでした。
パウロの心には、信仰によって人が義とされるのであるなら、旧約時代から続くユダヤ人の長い歴史はどうなるのだろうか、また律法を与えられたユダヤ民族の救いはどうなるのだろうか等々の問題が、理論的にも実践的にもパウロの心を占めていたのではないかと思います。
神の民イスラエル人が滅びてしまうことは考え難いことです。パウロはこの事に関して何らかの解決を与えたいと、ちょうど福音そのものについて必要なことを語り終わったので、ここからユダヤ人問題について書き進めているのです。
「9:1-3わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」
8章で力強く語っていた、あの信仰の高みに達していたパウロに、このような苦しみや悲しみがあろうとは信じ難いことですが、それはどうしようもない事実でした。パウロ自身が力を込めて、この気持ちは真実であって決して偽りではないこと、自分の心の最も奥にある真実な良心と、聖霊とによってそのことを証ししているのだと語っています。ユダヤ人として生まれ、その宗教的伝統のもとに育てられたパウロは、キリストの救いに与っている今、同時にこの悲しみをも味わっているのです。そしてこの悲しみや痛みは、同胞であるユダヤ人の救いのためならば、自分自身が呪われ、見捨てられ、キリストから離されてもかまわないというほどにまで悲痛な叫びになっています。
こういうパウロの胸の内を聞くと、キリストの救いに与った者が自分の救いを失ってまでも同胞の救いを求めるというのは、それは少し行き過ぎではないかと思うかもしれません。しかしここにこそ、聖書が説くキリスト教の最も深い精神、すなわち神の贖いの愛が現れているのです。
例えば、モーセはイスラエルの民が偶像礼拝の罪を犯した時、それを自分の身に引き受け、彼らの赦しを神に求めて言いました。「モーセは主のもとに戻って言った。『ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。』」(出エジプト記32章31-32節参照)
また、十字架の上で人類の罪をすべてその身に引き受けて死なれたキリストは、その時、神に見捨てられたことを実感して叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコによる福音書15章34節)何という苦しみを受けられたことでしょうか。
モーセやイエスが語ったこれらの御言葉のように、同胞の救いのためであるなら、自分は呪われてキリストから引き離されても構わないというパウロの願いもまた、聖書の根底を流れている贖いの精神の現れに他なりません。
パウロのユダヤ民族に対する愛は、祖国に対する誇りと結びついています。ユダヤ民族はパウロが誇る民族でした。パウロはユダヤ民族が持つ他国と比べられない長い歴史的伝統を忘れてはいません。彼らの歴史は、神が与えた輝かしい恵みの連続でした。
まず、世界中の多くの民族の中で、神に選ばれたのはイスラエルの民だけでした。この民に与えられた特権をパウロは八つ述べていて、4節以下にそれが列挙されています。「9:4 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。9:5 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」
イスラエルの民は神の子どもとしての身分を持っています。イスラエルの民には栄光が与えられていました。荒れ野ではいつも雲(ヘブライ語シェヒーナ)が彼らを導きましたが、これは神の臨在をあらわすもので、栄光とも訳されます。イスラエルには神の恵みの契約が与えられていました。神はイスラエル人に対してモーセを通して律法を与えられました。これは神がイスラエル人にご自分の意志をはっきりと知らせるためでした。また聖所で神に仕えるというように神を礼拝する事も、イスラエルの民だけに与えられました。尊い約束は将来イスラエルの民にのみ与えられるものでした。それから、アブラハムやイサクやヤコブという先祖たち、多くの預言者たちも皆イスラエルの民に属していました。キリストもイスラエルの民から出ました。しかし、キリストは決してイスラエルの民だけの独占者ではなく、5節にあるように「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神」です。
このようにイスラエルの民に与えられた特権について、一つひとつ詳しく述べているのは、ローマの教会には多くのイスラエル人たちがいたからでしょう。イスラエルの民はこのように、神から非常に多くの特権を与えられていましたが、彼らの大部分はその特権を自分のものとして受け取ろうとはしませんでした。ですから、彼らの苦難の原因は神にあるのではなく、彼ら自身の不信仰、不従順、すなわち罪にあったのです。
パウロはここで、イスラエルから出たものが皆イスラエル人、つまりアブラハムの子孫がすべて真のイスラエル人ではないと言い切っています。「9:6 ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、 9:7 また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。』」
一体誰が真のイスラエル人と言えるのでしょうか。真のイスラエル人は主イエスを受け入れる者、聖霊によって主イエスと結ばれている者のことです。
「9:8 すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。」8節には「神の子ども」という表現が出てきますが、どのような人を意味しているのでしょうか。それは、神の言葉と霊によって新しく生まれた者のことです。
「9:9 約束の言葉は、『来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる』というものでした。9:10 それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。9:11-12その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。9:13 『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」
神はカルデヤのウルに住んでいた者の中から他ならぬアブラハムをお選びになりました。そしてアブラハムの子孫からイシュマエルではなくイサクを選び、さらにイサクの子どもの中からエサウではなくヤコブをお選びになったのです。なぜアブラハムが選ばれ、イサクが選ばれ、ヤコブが選ばれたのでしょうか。この問いに対して明確な答えはありません。11節から13節に書かれているような、主なる神の導きは、私たち人間には理解することができません。しかしその導きは神にあって完全なものです。私たち人間一人ひとりに神の選びがあり、特別な使命を与えているのです。
しかし、神の偉大さや卓越性は人間の知恵や能力では測り知ることができません。私たち人間はこの神の御手の中にあって神によって自由意志を持った者として造られ、存在しているだけです。14節でパウロは「9:14 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。」と問いかけていますが、すぐその後で、「決してそうではない。」と力強く否定しています。神はいかなる時も、その決して変わることのない義と恵みの完全性をお示しになるために行動されます。神は完全で、恵みに富まれ、全知全能のお方です。もしそうでないなら神ではありません。
モーセによってイスラエルの民はエジプトから救い出されました。しかしこの民はシナイの荒れ野で金の子牛を造りました。モーセはこの偶像を拝した民のために神に執り成し、その結果憐みを受けることが出来ました。もしこの憐みが無かったら、神の怒りによってイスラエルの民は既に存在していないでしょう。神の憐みによって民は滅びから免れたのです。「9:15 神はモーセに、『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。9:16 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」
人は神の憐みを妨げることはできません。神の憐みは人が良い行いをしたことによるのでもありません。神は『ご自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』自由なお方です。私たち人間は神の自由な憐みの心によって救われたのです。
それと対照的なのがファラオです。モーセはイスラエルの民を救いに導きましたが、ファラオはそれとは逆に心をかたくなにして神に反抗し、エジプト全体を神の裁きに陥れました。「9:17 聖書にはファラオについて、『わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである』と書いてあります。9:18 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」
結果的にはファラオは神に反抗することによって神の計画を成就する者となりました。このようにファラオを通してもやはり神の偉大さを知ることができます。主なる神は絶対的な力を持つ世界の支配者です。人間がたとえ神に従わないとしても、そのことによってかえって人間は神の計画の推進者になるのです。すべての事柄を通して、神はご自身の計画を成し遂げられるお方だからです。
この世界も国々も、私たちが住む人間社会も、地域も学校も職場も教会も、目に見えるところはある面では混乱だらけかもしれません。しかし、それらすべてを超えて神の御計画があることを覚えて生きていきたいと願っております。