聖書

救いは地の果てまで

使徒言行録13章44~52節牧師 常廣 澄子 キプロス島での伝道を終えたパウロたち一行は、その後、海路小アジア地方に向かい、ベルゲに到着しましたが、そこからさらに奥地に向かって、ピシディアのアンティオキアに行きました。この町にはユダヤ人の会堂がありましたから、パウロとバルナバは安息日にその礼拝に参加しました。そしてそこの会堂司から奨励の言葉を語って欲しいと依頼されたパウロは、立ち上がって伝道説教をしたのです。

神の国に受け入れられる人

ルカによる福音書18章15~17節 牧師 永田 邦夫 本日もルカによる福音書からのメッセージをご一緒にお聞きして参りましょう。 この箇所は、マタイによる福音書にもマルコによる福音書にも並行記事がありますので、必要に応じてその箇所も参考としていきましょう。

パウロの説教

使徒言行録13章13~43節 牧師 常廣 澄子 前回はバルナバの故郷キプロス島での伝道の様子を見てきました。キプロス島では、ローマ帝国から遣わされていた総督が主の福音を信じてクリスチャンになったのです。大きな成果です。彼らはその素晴らしい成果をもって、送り出されたアンティオキア教会に戻って行ったかと思いきや、彼らはそこから小アジアの方に向かって伝道活動を進めていきました。

キリストによる平和

エフェソの信徒への手紙 2章11~22節 牧師 永田 邦夫 本日、わたしたち志村バプテスト教会は、主日礼拝を平和礼拝として奉げています。振り返りますと、今年に入って当初の頃はマスコミから「戦後80年」という言葉をよく聞きました。あの第二次世界大戦が終わってからもう80年経った、よって今は、平和な時代になっていますよ、との意味を込めての言葉だったかもしれません。

北から災いが来る

エレミヤ書1章11~19節 牧師 常廣 澄子 前回は、エルサレムの北東にあるアナトトという地で祭司ヒルキヤの子として生まれたエレミヤが、ある時、神から預言者としての召命を受け、以後40年間、神から託された言葉を語るために働いたことをお話ししました。しかしこのエレミヤ書は、エレミヤという偉大な預言者の伝記とか偉人伝のようなものではありません。確かにこの書には、エレミヤが神の言葉を語っていく中で同胞たちから疎まれ、命の危険にさらされ、その心に失意と大きな痛みを抱えながら生きて行ったことが書かれています。ですからエレミヤは「涙の預言者」「悲しみの預言者」とも言われていて、私たちは彼の生涯に引き付けられます。元東大総長の矢内原忠雄は、その著書「余の尊敬する人物」としてあげられている四人の中の一人にエレミヤをあげています。逆境の中でも恐れずに真実を語っていくエレミヤの強さと聖さに惹かれたのかもしれません。しかしエレミヤ書は彼のそういう生涯について書いてあるのでないのです。

はじめての宣教旅行

使徒言行録13章1~12節 牧師 常廣 澄子 お読みしているこの使徒言行録は、内容的にここで大きく二つに分かれています。今まで読んできた1章から12章までと、本日からお読みする13章使徒言行録 13章1~12節 牧師 常廣 澄子  お読みしているこの使徒言行録は、内容的にここで大きく二つに分かれています。今まで読んできた1章から12章までと、本日からお読みする13章から最後までです。前半では宣教活動の中心はエルサレムでしたが、ここから宣教活動の基点はアンティオキアに移っていきます。また、宣教の主役がペトロからパウロに替わっていきます。そして、宣教の対象もユダヤ人から異邦人(ユダヤ人以外の民)に移っていくのです。このようにしてすべての人に対する神の救いの計画が着々と進められ、主の福音の本質が明らかになっていくのです。主なる神を信じるキリスト教はユダヤ人という一つの民族だけのものではありません。この救いの神はすべての民族、すべての国民の神であることを伝えていくことが、この使徒言行録の目的でもあるのです。

飽くことなき祈り

ルカによる福音書18章1~14節 牧師 永田 邦夫 本日も皆さんと共に、ルカによる福音書からのメッセージをお聞き出来ますことを、主なる神に感謝いたします。  新共同訳聖書の本日箇所には、「やもめと裁判官」のたとえ、との小見出しがついています通り、主イエスがたとえを用いて弟子たちを教え諭している箇所です。  “たとえを用いて弟子たちに教え、また伝える”、これは主イエスが普段、日常的に用いられている教えであり、大切な方法でもあります。

万国の預言者

エレミヤ書1章1~10節 牧師 常廣 澄子 エレミヤは悲しみの預言者、あるいは苦難の預言者と言われています。レンブラントが描いたエレミヤは、左手で頬を支え、洞窟の壁に寄りかかっているのですが、神の言葉を語るという、自分に課せられた預言活動の空しさを思っているのでしょうか、神の言葉に心を留めない傲慢な人間に対しての諦めのようなものが感じられます。システィーナ礼拝堂の天井画には、ミケランジェロが描いたエレミヤの姿があります。ここに描かれたエレミヤは、肩幅広くがっしりしているのですが、右手で顎を抑え、大きな重荷を負わされて何か考え込んでいるかのように見えます。とにかく、エレミヤが預言活動をしていた時代、人々は皆、彼の預言を馬鹿にして無視し、神の言葉をおろそかにしたために遂に国が滅んでしまったのです。

祈りの答え

使徒言行録12章1~19節 牧師 常廣 澄子 本日は19節までしかお読みしませんでしたが、実は12章1節から24節は、バルナバとサウロの旅行記事に挟まれた挿入文だと考えられます。それはまず11章29-30節で、アンテオケ教会からの援助の品をバルナバとサウロがエルサレムの長老たちに送り届けたことが書いてあり、12章25節で「バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。」と結んでいることからわかります。そして何よりもここには「12:24神の言葉はますます栄え、広がって行った。」とあり、アンテオケ教会の発展に負けず劣らず、エルサレム教会においても、神の言葉が立派に前進していったことが書かれているのです。ではその力はどこから来ているのでしょうか。その一つの出来事として、ペトロの投獄とそこからの脱出事件が書かれているのではないかと思います。

助け合う教会

コリントの信徒への手紙 一16章1~12節 牧師 常廣 澄子 コリントの信徒への手紙一の最後の章になりました。パウロの長い手紙もいよいよ終わりです。パウロはここまでずっと、コリントの教会からの質問に答えながら、ある時は警告を発し、ある時は勧めをなし、いろいろと教えを説いてきました。このあたりでだいたい語るべきことを語ってきたようで、そろそろ締め括りに入ろうとして、幾つか事務的な事に触れています。15章でのパウロは、息もつかせぬような見事な復活賛歌を語って読む者を感動させましたが、この16章では、交響曲の終楽章のように静かに語っています。