イザヤ書40章27〜31節
私たち人間にとって望みを持つことは、生きていくための大きな力になります。旧約聖書の時代、バビロンに捕囚となったイスラエルの民は、紀元前587年から半世紀にわたって、苦難の生活を強いられていました。そこでは人々はもはや自分たちは神から見捨てられたと絶望し、希望がありませんでした。しかし神はイザヤにイスラエルの民を解放させようとしていることを伝えました。
そして神の言葉のゆるがない約束を語るのです。(6~8節)どんなに美しい花であっても、間もなく朽ち果てる。人間もそれと同様である。希望を抱いたとしてもその根拠はない上に、一時的なものに過ぎない。本当の希望というのは、我々を裏切らないものでなければならない。神の言葉こそが永続する希望であると。イザヤは、バビロン捕囚からの解放を確信します。
(27節)「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されている、と。私の裁きは神に忘れられた、と。」これは、バビロン捕囚のただ中にいる人々の嘆きです。それに対する答えが28-31節です。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は極めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
元気のある若者でも時には疲れますし、勇者であっても時にはよろめいて倒れてしまいます。どんなに元気な人でも歳をとればよろよろします。これが私たち人間の姿です。しかし、「主に望みをおく人」は神から新たな力をいただくのだと語られています。その力によって、鷲のように翼を張って悠々と大空を飛ぶことができるというのです。この「新たな力を得る」という言葉のもともとの意味は「力を入れ替えること」です。人間の力に神の力を注入してくださるのです。どんなに強い人でも人間の力には限界がありますが、神の力には限界がありません。ですから、主に望みをおくならば、有限の人間の中に、限りない神の力が働くのです。
「主に望みをおく人」この「望みをおく」という言葉も大変中身の濃い言葉です。それはもともとは、緊張する、網を張るという意味がありました。クモは虫が飛んで来そうなところにクモの巣を張ります。漁師はでたらめに網を張ることはしません。魚でも鳥でも獣でも、獲物が必ずそこを通るというところに網を張ってじっと待つのです。獲物が必ずそこに来ると確信しているからです。主に望みをおく人も同じです。必ずそうなると希望を持って信じて待つのです。
私たちはいま、大変豊かな時代に生きていますから、ある意味で目に見える物質的な物に囚われ、霊の目が覆われて、み言葉を素直に聞くことの困難な時代に生きています。しかし、み言葉に信頼し、主に望みをおいて生きる事こそが本当の希望です。そしてこの希望はいつまでも存続するのです(Ⅰコリント13:13参照)。神が確かに導いてくださるという「主に望みをおいて生きる」ならば、神から新たな力が与えられるのです。
私たちが信じるのは希望の神です。聖書の言葉は、たしかに何千年も前に語られた言葉ですが、信じる者に希望を与え、日々新しく語りかけ、新しい力を与えてくれるのです。
(牧師 常廣澄子)