ヨハネによる福音書1章14〜18節
イエスは神の御子であられますが、神の身分であることに固執せず、へりくだって人となり、貧しいヨセフとマリアの子どもとしてこの世にお生まれくださいました。14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と書かれていることがそのことです。この出来事は、神の性格を示していると言ってもよいかもしれません。聖書の神は、人間に語りかける神であるということです。ヘブライ人への手紙1章1〜2節「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」とある通りです。神はいつも天上から私たちの歩みを眺めておられるだけではなく、私たち人間の重荷や苦しみを一緒に担ってくださるために人となってこの世界に降ってくださったのです。
イエス降誕の出来事は、マタイによる福音書とルカによる福音書が詳しく伝えていますが、マルコによる福音書には降誕の記事はありません。そしてこのヨハネによる福音書では何と、天地創造の時からイエスの生涯は準備されていたのだということを示そうとしていて、創造の時に携わった神的存在である「言」を用いてイエスの起源を証ししています。
14節続き「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」イエスは、ご自分から自分の栄光を求めるようなことはなさいません。栄光とは神がお授けくださるものです。「わたしたちはその栄光を見た」というのは、イエスがまさしく神の子であることが明らかにされたことです。その決定的な時は、イエスが十字架に架けられ、死人から甦って天に上げられた時に他なりません。
「恵みと真理に満ちていた」真理というのは愛としての神の本質です。イエスが来られて暴かれたのは、真理を偽る律法学者たちでした。彼らの偽善的態度でした。イエスは私たち人間が真理から遠い姿を見て憐み、それを大胆に指摘し、その罪を打ち破ってくださったのです。それこそが神が一方的に与えてくださる恵みです。恵みと真理はイエスを通して現れたのです。そのような「恵みと真理に満ちた方」を証ししているのが洗礼者ヨハネです。彼は世の光として来られたイエスについて証しするために来たのです。
18節「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」ここには父なる神と子なるイエスの例えようもない親密な交わりが書かれています。父のふところにいる独り子である神、イエスは、いつも父の胸に寄り添っておられ、神との深い信頼と交わりの中にあって、神のみ旨が何であるかを知り尽くしておられます。そのような親密な関係を持つお方だけが神を啓示できるのです。「この方が神を示されたのである。」ということは、イエスを知ることは神を知ることなのです。18節「いまだかつて神を見た者はいません。」しかし、イエスを通して父なる神の愛が明らかにされました。イエスの地上での生活がいかに見栄えなきものであっても、イエスこそが神の恵みと真理を示されるお方なのです。
(牧師 常廣澄子)