ヨハネによる福音書2章1〜11節
イエスは30歳頃に家を出られ、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられました。その頃からイエスの周囲に弟子たちが集められていきました。そしてそれらの弟子たちと共に行動されるようになって、イエスの公生涯が始まって行ったと言えます。そしてその最初になさった御業がこのカナの婚礼での出来事です。ここでの舞台は、結婚式というより結婚式後の披露宴、結婚を祝う宴会での出来事です。当時の結婚の宴会は大変華やかで、豊かな家では宴会が七日間も続いたそうです。この物語では、婚宴に招待した人数を考えて、たくさんの食べ物や飲み物が用意されていたのでしょうが、宴会の途中でそれが足りなくなってしまったのです。母マリアがそれに気づいてイエスに伝えますと、イエスはそれを咎めるどころか、すぐに召し使いたちに命じて清めのための水がめ六つに水を満たすように言いました。主の御業の陰にはいつでも、御言葉に従順な人の姿があります。それを汲んで世話役に持っていくと、何と今までのぶどう酒よりももっと上等の美味しいぶどう酒になっていたという奇跡です。
イエスはこの最初の奇跡を、結婚という人生の喜びの日に行いました。イエスがなさったのは、自分の力の誇示でも宣伝でもなく、人々の目から隠れて陰でひっそりとお酒の補給をしてくださったのです。神の豊かな力を、喜びの中にある人を優しく支えるために使ってくださったのです。ここには、神が御子イエスを私たちのところに送ってくださった事の大きな意味があると思います。私たちはイエスの救いに与ったからといって、今までより賢くなったり、偉くなるわけではありません。私たちがイエスを信じることによって得られるのは、与えられた命を喜び、ありのままの自分を受け入れられる安らかな心、自由な心です。最も人間的に生きることができるのです。結婚の喜びを味わうこともその一つかもしれません。イエスはそのような人間世界に入って来られたお方です。喜びだけでなく悲しみも辛さも苦しみも痛みもお分かりになっておられ、人生の喜びというものが、いかにしばしばほんの小さなことが原因で、あるいは取るに足りないことがもとで崩れていくかをご存知であられたのだと思います。
母マリアは、ぶどう酒が足りなくなったこと、つまり結婚式の最中に起きた危機をイエスに告げました。その時、母マリアだけがこの危機を乗り切ることのできる人、イエスを知っていたのです。その時イエスが母マリアに語った言葉は、決して母を拒絶している言葉ではありません。これを聞いたマリアはすぐに、イエスは我が子でありながらも神の子であること、イエスの成すべき働きがあることを認識したのだと思います。マリアはそのことをわきまえると「この人が何か言いつけたらその通りにしてください」と召し使いたちに告げたのです。「私の時はまだ来ていない」(イエスが救いの業を成す時はまだ来ていないということでしょう。)と言いながらも、イエスは母マリアの言葉を受け止め、婚宴を支える豊かな奇跡をなしてくださいました。ここにはマリアの信仰の言葉があります。この方の言葉に従っていれば間違いないということではないでしょうか。
聖書の中では、主を信じる者は主の花嫁に例えられています。この物語は、私たちを主の婚宴に招く物語であり、信じる者に対する主の恵みと祝福がどんなに素晴らしいかを示している物語です。
(牧師 常廣澄子)