神の約束

創世記 15章1〜6節

この箇所は「信仰の父アブラハム」と言われているアブラハムの生涯の中でも、最も大切な場面です。父テラ、妻サライそして甥のロトと共にカルデアのウルを出て(創世記11:31)、「行く先を知らずに出発した」(ヘブライ人への手紙11:8)アブラム(99歳の時にアブラハムと命名:17:5)に対して、神が契約を結ぼうと語りかけたことがここに記されています。

(1節)「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。」これらのことというのは、その前の創世記14章に書かれていることで、敵に捕らえられてしまった甥のロトを、アブラムがエラムの王ケドルラオメルとその味方の王たちを打ち破って取り戻したことです(14:16)。アブラムたちはカルデヤのウルを出発して約束の地に入ったのですが、周りには砂漠の王たちがひしめき合っていました。それらの部族と絶えず戦いや交渉があり、族長としてのアブラムは孤独と不安の中にいたのです。

その時、主なる神が幻の中に現れて語られました。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう(1節)。」これを聞いたアブラムは恐れおののきました。「恐れるな」という呼びかけは、聖書全体に鳴り響く神の声です。預言者イザヤもエレミヤもこの声を聞きました。クリスマスの天使もイースターのみ使いも始めにこう呼びかけています。まさに信じる者に呼びかける神は、まず始めに「恐れるな」と言って近づいて来てくださるのです。私たち人間がどんなに憶病であるかよくご存知なのです。しかも続いて「わたしはあなたの盾である」と語り、「恐れなくて良いのだ、私はあなたを守る者である」という神のみ心が告げられます。

そして「あなたが受ける報いは非常に大きいであろう」と一方的な恵みが伝えられます。それは(7節)「わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる」とあるように、アブラムに子どもが与えられて、その子孫たちが繁栄して、国土が与えられていくということです。しかし、現実はどうだったかといえば、アブラムには子どもがいなかったのです。彼はもう年でしたから、せめて自分の家に生まれた奴隷の子を養子に迎えようと考えていたようです。(2〜3節)「アブラムは尋ねた。『わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。』アブラムは言葉をついだ。『御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。』」

後継ぎというのは大事な存在です。旧約聖書では神の恵みを受け継ぐ者を後継ぎと考えています。物やお金ならば誰に譲っても構わないでしょうが、神の恵みを受け継ぐ者はそうはいきません。イスラエルの人々にとって、カナンの土地は神から与えられた嗣業の地でした。それは自分の血と肉を分けた者に継承されていかねばならなかったのです。しかし現実にはアブラムに子どもがいなかったわけです。その時に神はその嗣業を受け継ぐ子どもを与えると約束されたのです。(4節)「その者があなたの後を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」そして(5節)「「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」数えきれない無数の星の下で、神が語られました。

遠い昔からずっと人類はこの広い大空を見て、また夜空に輝くあまたの星々を見て考えを深め、知識を増してきました。振り仰ぐヘブロンの空には無数の星が輝いていたことでしょう。人間がどんなに小さく感じられたことでしょうか。アブラムはその時、天地の創造者である全能の神には何一つできないことはないのだと悟ったのです。ヘブル人への手紙11章1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」ここにおいてアブラムは肉眼では見えないはずのものを見、神の約束を信じたのです。現実にはアブラムには子どもがいません。自分はもう老いています。「ハランを出発した時、アブラムは75歳であった」(12:4)と書いてあります。妻は自分より10才若いだけです(17:17)。そのような状況の中で、アブラムは神の約束を信じたのです。

本日の説教題を「神の約束」といたしましたが、聖書全体を通して一貫して流れているのは神の約束です。人間にとって最も大事なことは何かと言うならば。この神の約束を信じる信仰ではないでしょうか。実は新約聖書を書いた人々は、膨大な旧約聖書を一言で「神の約束」と見ていたのです。そしてそれはイエス・キリストにおいて成就したのだと捉えました。けれどもある人々は旧約聖書は律法であるというように考えていました。パウロがローマの信徒への手紙で取り上げているのはこの問題です。

ローマの信徒への手紙4章1〜3節「では、肉による私たちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。」ここに書かれている聖書とは旧約聖書のことです。同じく4章の13節には「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」とあります。旧約聖書で求められている律法を全部行ったとしても、それで神の前に義とされるのではなく、アブラハムのように神の約束を信じることによって神から義と認められるというのです。この信仰を受け継ぐ者に、神は祝福を約束しておられる。だからアブラハムのようにただ神の約束を信じなさいとパウロはここで強く勧めているのです。

しかしながらこの時、アブラムにも信仰の戦がありました。それでアブラムは神に食い下がって尋ねています。(8節)「アブラムは言った。『わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。』」神の約束の保証が欲しかったのです。どうか自分が納得いくように示して欲しいと神に願ったのです。これに対して、神はご自身を低くしてお答えになりました。(9〜10節)「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。」神は不思議なことを要求されると思われるかもしれません。これは古代の中近東の社会で、人間が互いに契約を結ぶ時にした行為です。獣を真っ二つに引き裂いて、互いに向かい合わせて置き、その間を契約の当事者が通るのです。もし契約を破ったならば、このように引き裂かれても良いという意思表示です。

さて(17節)「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」煙を吐く炉とか燃える松明は、神を象徴的に表したものです。すなわち神ご自身がこの裂かれた動物の間をお通りになられたのです。しかし、もう一人の当事者であるアブラムがその間を通りすぎたとは書いてありません。これはこの約束が、神が人間に与えた特別の契約であるということです。

私たちは人間同士で話し合いをしていろいろな取り決めや約束をします。その取り決めは双方向のもので上下関係はありません。しかし、神と人との間の契約は、上からの一方的な働きかけなのです。それがこの17節のみ言葉に表されています。もし契約が破られたならば、このように引き裂かれてもよいとおっしゃったのは何と神です。神ご自身が責任を取られるのだと約束されたのです。何という愛、何という真実でしょうか。神の約束相手としては、全くふさわしくない人間のところに、神の方から下ってこられたのです。この事がクリスマスの恵みとなって、神はイエス・キリストを送ってくださったのです。このことに神の真実、約束を固く守る神の真実があります。

神の約束の言葉は、今も私たち一人ひとりに向けられていることを受け止めたいと思います。それが信仰です。神は決して私たちを裏切りません。それが天におられるいと髙き神の真実です。イエス・キリストにおいてそれが事実となっているのです。私たちは、変わることのない主のみ言葉によって神の約束を信じるようにと招かれているのです。自分は今までこうやって来たからとか、自分の考えや価値観はこうだからではなく、「私の示す地に行きなさい。」という呼びかけに応えて、神の喜ばれる道に歩み出すこと、出て行って、そこで神が自分に何を求めておられるかを問うていくことです。

アブラハムは神を信じました。(15:6)神のみ言葉を信じました。ヘブライ語ではこの信じますという言葉にはアーメンという語が用いられています。私たちが祈りの度に唱えるアーメンです。神はこのアーメン(そうです、その通りになりますように)の心を義と認められました。私たちも祝福を与える神の約束にアーメンと応える人生を歩んでまいりたいと願っています。

(牧師 常廣澄子)