恵みの食卓

ヨハネによる福音書21章1〜14節

イースターおめでとうございます。
イースター(復活祭)は、神が私たちの救いのためにこの世に送ってくださった主イエス・キリストを死からよみがえらせたことを喜び、感謝し、祝う日です。神が成されたこの御業によって、主イエスを信じる者の救いが完成しました。
今、私たちは新型コロナウイルス感染拡大防止のため、教会でご一緒にイースター礼拝をお捧げできない状況にありますが、たとえ私たちがどこにいても、どのような状況にあっても主の恵みと祝福の約束は変わりません。皆さまお一人おひとりが今おられるところで、主を見上げ、イースターの喜びを感謝することができますようにと心から願っております。

イースターの出来事、つまり、十字架に架かられたイエスが死んで葬られたこと、また葬られたはずのお身体がなくなって、天使がイエスはよみがえって天に挙げられたのだと告げたことは、各福音書がそれぞれの書き方で語っています。死んで葬られたイエスがよみがえって、いろいろな場所で復活のお姿を現わしてくださったことは、各人各様に受け止められたのです。ですから少しずつ表現も内容も異なっています。しかし、だからこそ復活という出来事がどんなに驚くべきことであったかという真実さが伝わってまいります。

今朝お読みいただいたヨハネによる福音書の前の部分20章には、復活されたイエスが二度にわたって弟子たちに現れたことが書かれています。一回目19節「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」二回目26節「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」感染拡大の闇の中にいる私たちは、今こそ復活の主が、今も私たちに平和があるように祈っていてくださることをしっかり覚えたいと思います。

そして、今朝お読みいただいた箇所に書かれているのは、実に三度目のことでした。復活されたイエスがティベリアス湖畔(ガリラヤ湖)で7人の弟子たちに現れたという出来事です。でもなぜこの時期に弟子たちはティベリアス湖畔にいたのでしょうか。大変不思議です。(3節)「シモン・ペトロが『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは『わたしたちも一緒に行こう』と言った。」とあります。彼らというのは、2節に書いてありますように、シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子が一緒にいたようで、合計7人です。

この7人のうち、少なくともシモン・ペトロやゼベダイの子たち(ヤコブとヨハネ)というのは、もともと漁師をしていましたから、自分がもと住んでいた所に帰って行ったのだろうと考えられます。イエスに対する信仰を放棄したわけではありません。トマスやナタナエルは漁師ではなかったと思われますが、一緒についてきたのでしょう。イエスの弟子として3年余りも生活を共にしてきた仲間ですから、縁を断ち切りがたかったのではないかと思います。しかしながら、彼らは明らかに復活された主イエスにお会いしているのです。それなのにどうしてガリラヤ(ティベリアス湖のあるところ)に戻ってきてしまったのでしょうか。

この事は何を意味するのでしょうか。彼らの心を想像してみたいと思います。彼らは、イエスが死んだのに今、生きておられるということ、つまりイエスの復活が、自分たちとどう関係するのか、自分たちの人生にどのように関わってくるのか、何もわからなかったのです。イエスが復活されたことは分かったけれども、これから自分たちは何をしたら良いのか分からなかったのです。ですからその心は落ち着きません。復活のイエスにお会いしていながらも、彼らの心は決して晴れ晴れとしたものではなかったのです。

そういう時に、シモン・ペトロが魚を釣りに行くと言い出しました。こういう時に思いつくのは昔からなじんだ事です。ペトロにとっては海に出て漁をするのが、一番自分にあう落ち着く事だったのかもしれません。こうして彼らはガリラヤに戻って来て漁を始めたのです。そしてたちまちぶつかったのは、一晩中漁をしたのに何も魚が捕れないという現実でした。(3節後半)「しかし、その夜は何も捕れなかった。」イエスの弟子になる前、漁師としての職業を持って働いていた者が何人もいるにも関わらず、何も捕れない。長年ティベリアス湖で漁をしてきた経験を総動員して網を降ろしてみても、何回やっても網は空っぽ。空しい結果で終わるのです。徒労という言葉に象徴されるような惨憺たる漁です。彼らは復活のイエスにお会いしていながら、なおも暗い人生に直面していたのです。彼らの心には元気がありませんでした。

このことは今を生きる私たちの人生にも当てはまります。私たちは信仰を持ちながらも、自分の人生に悩み、自分の生活を空しく感じて落ち込むことがあります。信仰に生きていることが何の力にもならない状態にはまり込んでしまうのです。この時の弟子たちもまた、以前、漁師だった頃に体験した不漁よりも今はもっと深く、魚が捕れないことに絶望していたのではないでしょうか。今の彼らには、復活のイエスにお会いしたということは、何の役にも立っていません。およそイエスの復活など無意味な出来事であったかのような状態です。その時に、まさにその時に、イエスが岸辺に立たれたのです。

(4節)「既に夜が明けた頃、イエスが岸に立っておられた。」そしてイエスは「子たちよ、何か食べる物があるか。」とお尋ねになったのです。「子たちよ」何と優しい呼びかけでしょうか。そして「何か食べる物があるか」この問いには、「たぶん何もないだろうね」という否定的な意味合いが込められています。弟子たちはまだこの時はその声の主がイエスだとは分かりません。一晩中働いても何も収穫が無い自分たちの無念な漁を思いつつ、誰が問うのか知らないけれども、そんなことを聞かないでほしいと思いながら力なく「ありません。」と答えたのです。すると続けてイエスは言われました。(6節)「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」

(6節後半)「そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」その時です。(7節)「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。」
イエスの愛しておられた弟子、つまりヨハネです。言われる通りに網を打って引き上げたところ、あまりにずっしりと重いので、すぐにイエスだと気付いたのです。それはかつて自分たちが味わったことのある体験でした。(ルカによる福音書5章参照)自分達がイエスの弟子になった時のことです。夜通し苦労して漁をしたけれども、何回やって網は空っぽで、何も魚が捕れなかったあの時、空しさの中で網を洗っていた時、イエスが来られて「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と言われたのです。ペトロたちが不承不承「お言葉ですから」と言って従った時のあの忘れられない体験を思い出したのです。あの時、自分達では引き上げられないほどの大漁になったのでした。あの時、自分たちが培ってきた知識や技術や経験がいくらあろうと、このお方の前には無意味だと悟ったのでした。ペトロはその時に思わず言いました。「主よ、わたしから離れてください。私は罪深い者なのです。」それに対してイエスは言われました。「私の弟子になりなさい。これからは魚を捕らないで、人間を捕る者、人間を神のものにする仕事をしなさい。」と言われたのです。復活のイエスはここでもう一度、自分たちが弟子となってイエスに従った時のことを思い出させられたのではないでしょうか。彼らの心の目が開かれ、自分たちのなすべきことが見えてきました。

あの時のイエスが今再びそこにおられる。それに気づいたヨハネが思わず「主だ」と叫んだものですから、それを聞いたペトロは「裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ(7節後半)。」裸でイエスの前に出るのをためらったのでしょうか。この上着は舟を漕いだり漁をするのに邪魔で脱いでいたものでしょう。上着を着てから湖に飛び込むとは、何ともペトロらしい行動です。さて、湖に飛び込んだペトロは湖を泳いで先に岸に上がったのでしょう。舟に残された6人は魚で一杯の網を引いて、戻ってきました。ここには魚がかかった場所は陸から200ペキスしか離れていなかったのだとあります。1ぺキスは45センチですから、およそ90メートルの距離です。

彼らが「(9節)陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚が乗せてあり、パンもあった。」彼らが漁をしていたのは夜でしたから、ちょうど朝の食事時です。イエスはさらに「今捕った魚を何匹か持って来なさい。」と言われました。魚が届く前に既に炭火の上には魚がおいてあるのに、またその上に魚を持ってくるように言うのは、何か矛盾しているように感じます。しかし、これはイエスの愛です。ここにはイエスの「恵みの食卓」に与かる弟子たちの喜びの心も加えられるのです。

さあ朝の食事が始まります。イエスは「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われました。夜通し働いた弟子たちに対して、ここにはイエスのあたたかいねぎらいと励ましのこもった食事が用意されています。イエスは弟子たちをもてなしてくださったのです。もはや誰もイエスを疑う者はありませんでした。弟子たちは皆喜んで一緒に朝の食卓に着きました。そこには、弟子たちが喜んで持ってきた魚が加えられていました。今や彼らは生ける主と共にいる喜びと安心感に満ちています。彼らの空しく心細い心と身体はイエスが用意されたパンと魚で満たされています。朝の光の輝く海辺で、主の晩餐のひな形のような素晴らしい食卓を囲んでいるのです。

今、新型コロナウイルス感染防止のために「主の晩餐」ができない状態ですが、初代教会の時代は各自が自分たちの作った作物やぶどう酒を教会に持って来て、その日の晩餐に必要なものを取り分けてから、残りは貧しい家庭の人たちに届けられたようです。今の教会ではそのようなことをしていませんが、その精神は今も生きています。私たちは主のために捧げものをします。金銭的なことだけではなく、私たちは自分の身体と心を捧げます。それを主が豊かに用いてくださるのです。私たちが捧げるものを主は受け入れてくださり、共に喜ぶことができるのです。主の食卓から流れ出るものは、私たちの生活を潤し、また私たちの生活を作りだす力となっていくのです。

面白いことに、ここにはその漁で捕れた魚の数まで書かれています。初めて漁をしたトマスなどが大漁に感激して夢中になって数えたのかもしれませんし、後に教会の人たちがこの話を弟子たちから聞いて、その数を覚えていたのかもしれません。でもいったい153匹というこの数は、いかなる意味を持つのでしょうか。ある者はこれは当時の人々が知っていた魚の全種類の数だと言い、ある者は当時の人々が知っていた民族の数だと考えました。だとすると、これはすべての人を救おうとされるイエスの御業を象徴するかのような数字ではないでしょうか。人間を捕る漁師、ペトロたちにふさわしい数字です。

宗教改革で知られるマルチン・ルターはこの箇所について語っています。「私たちがよみがえりの主に出会う時、そのことによって私たちの日常生活を捨ててよいのではない。むしろよみがえりの主を知った時こそ、自分に与えられた生活を尊ぶのである」と。復活のイエスは、何か熱狂的な雰囲気の中に現れたのではなく、いつでも全く日常的な普通の場所に現れてくださいました。

主イエスの復活は、信じる者への静かな恵みです。主イエスの復活を信じることは、静かで落ち着いた生活の源です。私たちの日常のまったく普通の生活の中に、よみがえりのイエスが入ってきてくださるのです。復活されたイエスは、私たち一人ひとりの生活の中に共に生きておられます。私たちは日毎の生活のただ中で、イエスと共に喜びの食卓を囲んでいるのだということを、イースターの佳き日にもう一度深く味わいたいと願っています。復活のイエスは、今日も私たちに向かって「来て、食せよ」と招いてくださっているのです。

(牧師 常廣澄子)