ルカによる福音書7章18〜23節
私たちはキリストの贖いを信じてクリスチャンとなりましたが、その信仰が揺らぐことはなかったでしょうか。このところには、バプテスマのヨハネが獄中から使いを送って「来たるべき方はあなたでしょうか?」と疑問を呈したことが書かれています。バプテスマのヨハネという人は、イエスの宣教の先駆者として活動した人です。彼の道備えによってイエスは公生涯をスタートされたのです。そのようなヨハネがいったいどういう気持ちで、イエスにこの質問をしたのでしょう。いったいこの質問の意図は何なのでしょうか。ヨハネともあろう人が今更イエスを疑いだしたのでしょうか。
この質問を弟子に託した時、ヨハネは獄に囚われていました。彼がどうして獄に囚われていたのかということは、マルコによる福音書6章やマタイによる福音書14章に書いてあります。簡単にまとめますと、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが、その兄弟フィリポの妻ヘロディアと不倫関係になり結婚したのをヨハネが「それは律法で許されていないことだ」と責めましたので、殺そうと思って牢獄に監禁していたのです。その後ヨハネがどうなったかという話は、絵画や戯曲にもなっていますのでご存知の方も多いと思います。ヘロデは自分の誕生日の祝いの席で舞を舞ったヘロディアの娘サロメに対して、何でも望むものを与えると約束してしまいます。サロメはヘロディアの入れ知恵により、バプテスマのヨハネの首を欲しいと望み、偉大な預言者ヨハネは、愚かな権力者の宴会の座興となって命を閉じてしまったのです。
この箇所ではヨハネはまだ獄中にいます。ヨハネは自分はいつかは殺されるであろうという危機的な状況にあることを知っていました。その獄中から二人の弟子を使いに出してイエスに質問を投げかけているのです。二人というのは証人として必要な数です。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。」この問いには、自分が置かれている境遇を悲しむとともに、ヨハネの必死の思いが込められているように思います。
ヨハネという人はまさに典型的な預言者の風貌であったようです。荒れ野に住み、らくだの毛衣を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野密を食べて暮らしていた(マタイ3:4)とあります。彼の思想には当時のエッセネ派の禁欲的敬虔思想の影響があったようですが、人々に悔い改めを説く者として、まず自分自身がその悔い改めを身をもって生きた人でした。語られる言葉が中味を伴って力を持つのは、語る人の生活がそれに伴っているからです。人々が続々とヨハネのもとに来て悔い改めのバプテスマを受けたのは(マタイ3:5)、ヨハネの言葉が人々の心を打ったからだと思います。ヨハネの活動はエルサレムとユダヤ全土にわたってあらゆる階層の人々に大きな影響を与えました。こうした中でイエスの活動が始まりました。そういう時にヨハネが捕らえられてしまったのです。ガリラヤ地方一帯は緊迫した状態にありました。
今や自分の命が今日とも明日とも知れぬ中で、ヨハネの心に沸き起こったのは、自分が生涯かけて説いてきた「来たるべき神の救い」とは、はたしてこのイエスによって成就するのであろうかという疑問でした。それは期待でもあり不安でもありました。ヨハネにはイエスに対して「この人こそ」あるいは「この人ならば」という信頼があったと思います。自分の希望をひたすらこのイエスにかけて生きてきたのですから、たとえ自分の身はどうなろうとも、このお方によって神の救いが実現されるならば、ヨハネとしては本望でした。
しかしここに来て、ヨハネには一つの不安が沸き上がってきたのです。ヨハネが得たイエスの活動からは、何か期待しているようなメシア像とはかなり違っているように思えたのです。お読みした聖書の少し前のところに、イエスがなさった数々の奇跡が書かれていて、17節には「イエスについてのこの話はユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった」とあります。当然ヨハネのところにもイエスのいろいろな情報が伝わっていたことでしょう。そういう情報や弟子たちが持ち寄ったイエスに関する事柄から判断すると、イエスがなさっていることは、どうもヨハネが考えていたようなユダヤ的終末観によるメシアとは違っていたようです。
イエスというお方は、尊大で偉ぶった方ではありません。イエスは平凡な市井の人々と同じようにふるまい、同じように暮らしています。しかも政治的革命を起こそうとするのではなく、大衆運動からは常に身を引いています。彼がもし本当にメシアならば、いったいこれではたして世の中が改革されていくのだろうか、神の支配が来るようになるのだろうか、と思ったのではないでしょうか。ヨハネにとっては、イエスがもし自分が信じてきたメシアでなかったとしたら、イエスにすべてをかけてきた彼の生涯は全く誤算になってしまうのです。彼の身に迫っている危機を感じれば感じるほど、いてもたってもいられない気持ちになり、この質問をイエスに届けたのです。
私たちは今、このヨハネの質問に注目する時、これは長いキリスト教の歴史の中で同じように少なからぬ人が心に抱き、イエスに投げかけてきた質問であることに気づきます。一人ヨハネだけでなく、私たち自身も往々にしてイエスに対して抱く問いではないでしょうか。「自分はイエスの救いを信じてクリスチャンになった。決して後悔はしていないが、これでよかったのだろうか。」そういう疑問を持ったことはないでしょうか。私たちはイエスに何を求めているのでしょうか。救いとは一体何でしょうか。
一般に人間が求めている救いというのは、極めて単純な生活上の問題が多いと思います。人間が生きることに行き詰まった時の解決は確かに救いです。つまり衣食住の道が開ければ救われたと思うのは自然なことだと思います。また、人間が求める救いには「病気や死からの救い」というのがありますが、教会に来て信仰を求める方が、単に病気の苦しみや死の恐怖から救われたいというだけでしたら、その期待は裏切られるかもしれません。もちろん信仰によって病気を克服したり、死の恐怖から解き放たれることはありますが、それは結果であって目的ではありません。人間は実際、生きるための様々な悩みがあります。生活上の問題が解決されても、なおそこには突然の病気や予告なしに起こる災害の問題があります。さらには死という大きな問題が待っています。ですから、本当の人間の救いというのは部分的なものではなく、人間存在そのものの根本的なものでなければならないのです。
私たちが信じているキリストの救いというのは、人間存在の根拠を明らかにし、人間が真の人間として生きることをいいます。人間とは何であるか、人間は何のために生きているのかを明らかにするのです。およそ人間が一番知らないのは自分自身のことです。自分は何者なのだろうか、自分がこの世で生きていく目的は何であるのか、この問題に根本的な解答を与えたのがイエスです。従って救いとは生活の安定でもなく、単なる人間形成でもありません。まして病気の苦しみを解決することや死の備えでもありません。人間がどのように生きていくことが、与えられた命を真に生きることであるのかを明らかにし、またそのように生かしてくださるお方のまなざしの中で生きること、そしてそのお方のもとに帰っていくこと、これが本当の救いです。言い換えれば私たちが「生きていくよりどころ」を見出すことなのです。
ヨハネに対するイエスの答えがそれを示しています。22節「それで、二人にこうお答えになった。『行って見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。』」しかしこの言葉をただ表面的に受け取るだけなら、救いとはまるで医者の仕事か社会福祉の仕事のように思うかもしれません。
しかし、イエスのこの言葉の奥には深い意味が込められているのです。つまり、これはある意味で象徴なのです。このところを読んでいくとわかってくるのは、この人間の悲惨な現実の只中におられて、あらゆる病気や苦しみを共に担ってくださり、最後まで共に悩んでくださるイエスのお姿です。つまり、人間の友として人間のあらゆる苦しみを共に負われるイエスの姿をここに見ることができるのです。このイエスの言葉が示しているのは、たぶんヨハネならわかるはずだという一つの象徴的な意味合いを持っています。それはこの言葉がイザヤ書35章5〜6節、42章6〜7節などからきている言葉であって、メシヤが来られる時に起きる現象を預言しているからなのです。イエスは「そのとおりだ」「私があなたの期待しているメシア、キリストなのだ」などと露骨にいうのではなく、謙虚にイザヤ書の預言を引用して答えられたのです。イエスが語られた言葉はあくまでもしるしです。その奥には、今のゆがめられ、虐げられている人間生活の現実は、キリストが来られることによってすべて新しく変わっていくのだという救いの事実を語っているのです。
ただ、イエスの御業はこの時まだ始まったばかりで、その完成を見ていません。イエスの救いは十字架の死を通して初めて完成するものです。実際、弟子たちですらイエスが死んで復活されてから、やっと心からイエスを救い主キリストと告白できました。ヨハネはイエスによる救いの完成を見ずに死んでいくのですが、弟子たちからイエスの答えを聞いて、不安だった心に光がともり、自分がやってきたことは間違っていなかったと心から満足し喜んだに違いありません。
イエスの救いは、神の御子が十字架の死を通して私たちの罪を贖ってくださったという人間の回復にあります。人間の本当の救いというのは、お金が儲かることや、立身出世することや、病気の癒しや、様々な問題の解決にあるのではありません。神の前から自分の存在が失われていたことに気づき、この世界に一人しかいない自分、そして二度と繰り返すことのできない自分の人生を、新たにつくりかえてくださるイエスのもとに立ち帰って生きていくことです。ヨハネが「来たるべきお方」として待ち望んでいたお方を、私たちもまた自分の心の中にお迎えして生きていきたいと思います。
(牧師 常廣澄子)