ルカによる福音書14章7〜14節
ここはイエスがなさった譬え話で、結婚式での席順ということを題材にしています。1節に書かれていますが、イエスはある時、ファリサイ派のある議員の家に食事に招かれました。その時、(7節)イエスは招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにこの譬えを話されたのです。
この譬え話は大変分かりやすいものです。特に日本人には分かりやすいと思います。しかし、最近の催し事は予め席が決まっていることが多いからですから、このようなことはあまりないかもしれません。しかし一般的には、人に招かれた場合は、まずその場所での下座の方に自分の席を求めるようです。日本人は遠慮することを知っていますから、そうするのが自然な礼儀になっているような気がします。日本で上席と言いますと、和室の場合だと床の間に最も近い所、大きなホールですと正面の中央でしょうか。招待客はだいたいそこから遠い所に座ろうとするわけです。すると主催者側の人が来て、そんなところに座らないで、どうぞこちらへと勧めてくれて面目を施すことになるわけです。ところが興味深いことに、ユダヤの国にも上席末席があるようで、7節を読みますとイエスが招かれた食事会では、皆が上席に着こうとしていたというのです。どういうことなのでしょうか。ユダヤの人は自分に自信があるのでしょうか。あるいは自分を主張する精神が強いのでしょうか。
イエスが勧めておられるのは、先ほどお話しした日本流の行動です。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席のみんなの前で面目を施すことになる(8〜10節)。」
結婚式の席順というのは、招待客も多いですから特に気を遣いますが、ユダヤの国では最も身分の上の人が、一番最後に席に着くのが慣習だったようです。そこでイエスは「婚宴に招待されたら上席に着いてはならない」と教えられたのでしょう。全員が着席してしまった後で、もし最上位のお客が現われて席を譲らなければならなくなったとしたら、すでに全員が席に着いているのですから、上席にいた人は恥じ入って、末席に着かねばならないからです。
この話は「譬え」だと言いましたが、譬えとは、身近な出来事を例にして、霊的真理を教えるものです。ではここでイエスは何を教えておられるのでしょうか。それが11節です。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ここに書かれている「低くされる」あるいは「高められる」という動詞の主語は神です。「神が(高ぶる者を)低くされる」「神が(へりくだる者を)高められる」という意味です。つまり、神は高ぶる者を恥じ入らせ、へりくだる者に栄光を与えられるということなのです。
この譬え話がよく表しているように、自分の価値を決めるのは、自分ではなく他者です。また11節からわかるように、神が人を評価される時の基準は、その人がどれだけ神の前での自分を知っているかということです。確かにイエスが見ておられたのは、宴会の席での上席争いであったでしょうが、そこでイエスが見ておられたのは、私たちの生き方の基本に関わることです。イエスがここで言われている上席とか末席とかいうのは、神との関わりにおける座席、神の前で生きる姿勢、つまり立ち位置のことです。イエスは、婚宴の上席を争う人たちの心の中に「高ぶる者」の思いを読み取っておられたのです。いったいイエスは誰のことを言っておられるのでしょうか。
イエスがこういう譬え話をなさる時はいつでも、「自分は神の律法に適った正しい行いをしている、神の恵みを受けるにふさわしい立派な信仰者であると思っている人」と、「とてもそうは思えない人」との二通りの人を考えておられます。一方は神から選ばれた民だと信じているユダヤ人であり、他方は聖書が語る神を信じていない人々、異邦人です。もう少し説明するなら、一方はユダヤ人の中でも律法をしっかり守っているファリサイ派と呼ばれる人々であり、他方は、徴税人や律法を守ることができないので罪人と呼ばれている人々のことです。そして、一方は、自分は神の前に正しい生活をしているのだから、神の恵みを受けるのにふさわしい者だと自負していて、神の国で上席に着くのは当然だと思っている人たちで、もう片方は、自分は神の恵みを受けたり神におもてなしいただくには全くふさわしくない者だと思っている人たちです。
イエスは、自分が神の恵みを受けるのは当然だと思っている人たちではなく、自分は少しも神の恵みを受けるに値しない者だ、神の恵みを受けるにはふさわしくない者だと思っている人こそが、本当の意味で神の恵みを受けるにふさわしいのだということをここで教えておられるのではないでしょうか。神の恵みというのは、罪を裁きつつもそれを赦す神の力のことです。この譬えの隠された主題は、罪人こそが神の祝宴に招かれているということではないかと思います。そういう人たちの間では上席に座ろうとすることなど、とうてい考えられません。
この譬えもそうですが、イエスはよく結婚の祝いの席(婚宴)を譬えにした話をなさいました。それはなぜかと言いますと、神の国が婚宴に譬えられることが多いからです。神の国に生きるということは、神のご支配のもとで、神と親しく交わって生きる生活のことです。婚宴の場は、私たちが神と親しく交わって生きている姿を表すのに最もふさわしい譬えなのです。私たちが誰かと食事をするのは交わりの最も具体的な場であり、共に食事をするのは互いに良い関係である証しでもあります。
そして、この喜びの席を準備してくださったのは神です。私たちは、神の国で、神のもてなしを受ける喜びの宴席に招かれているのです。イエスは私たちをそこに招くためにこの世に来てくださいました。その招きに応えて神の婚宴の席で生きること、それが信仰です。そうだとすれば、その招きに私たちがどのようにして応じるのか、その姿勢が問われるのは最もなことです。
さて、ここには末席に着くという謙遜な行為が出てきます。謙遜は人間の美徳の一つです。しかし多くの場合、謙遜は、内心の自負心よりも低めに自らを言い表すという、対人関係での処世術になっているように思えることもあります。しかし、聖書が教える謙遜は、「主の前にへりくだる」ことであって(ヤコブ4:10)「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」心の底からの謙遜です。それは心の奥にある自負心を隠して低めに言い表すことなどではなく、内にある自負心そのものが砕かれていて無きに等しい、そのような謙遜を言います。
私たちはそのような謙遜な心を求めながら生きていきたいと思います。そのためには、まず人間はみな創造者である神に造られた者であることをしっかり認識することです。つまり被造物意識です。それは私たちが究極的には神の前に無力であり、神の偉大な御手に依存して生きる存在であることを覚えることです。幼子が親に頼る存在であるように、私たちは神の前にへりくだること、神により頼む心を持つこと、それが「心を低くすること」だと言われています。(マタイ18:4)「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」
また、謙遜な心は正しい罪意識から生まれます。神は自分を義とするファリサイ派の人の祈りは聞かれませんでした。ただ胸を打ちながら「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈る徴税人の祈りを聞かれたのです(ルカ18:9〜14)。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
さらに謙遜な心は、神と人に仕えます。聖書が語る謙遜は、自分の無力感や罪意識を感じるだけでなく、積極的に神と人に仕える行為を促すのです。その最も偉大な模範はイエスです。「仕えられるためではなく、仕えるために来られた」イエス・キリストです(マルコ10:43〜45)。このお方以上の素晴らしい模範はどこにも見ることができません。
続く12節から、イエスは、食事会を催したファリサイ派の人に向かって教えておられます。ファリサイ派の人達はかなりのエリート集団でしたし、まして議員であるこの人はかなり高位の人だったでしょう。そのような人物が開いた食事会ですから、それなりの身分の人たちが集まっていたと思われます。イエスはそこにいる招待客の顔ぶれをご覧になって、教えられたのです。食事の招待をする時には、有力者や財力のある人ではなく、社会的に弱い人たちを招くようにと。有力者は返礼の食事会ができますが、貧しい人たちはお返しなどできません。そこで、招待者は天での報いを期待できるのだというのです(12〜14節)。
ここでイエスが教えられたことは、人間的な見返りを期待しない無償の愛のことです。ともすると私たちの行為は人からの見返りを期待しがちです。何も期待しないようでいても、もし相手と何か争いやトラブルが起きた時、人は相手の忘恩をなじるような思い(あの時あんなに…してあげたのに…)を抱いてしまうのです。しかしイエスはこの時、天では報いがあると教えられました(14節)。けれども、神からの報いを期待してのことだとすると、これを打算的だと言う人がいます。しかしそれは神の報いについての誤った理解の仕方だと思います。
なぜなら、神を信じる者は、自分は罪を赦された罪人であるということを忘れることがありません。もし神による救いに与からなかったら、滅びるより他にない罪人であったことを知っています。クリスチャンはイエスの十字架による罪の赦しを根拠としてのみ、神のみ前に出ることができるのです。もし私たちが何か良いことを行うことができたとしても、それは神の聖い目から見るならば多くの欠点があり不純物の混じったものにすぎないでしょう。しかしそのような不完全な善行であっても受け入れてくださり、報いさえも与えてくださるのは、ただ憐れみ深い神の恵みです。神を信じる者が神の報いを期待するというのは、このような神の恵みに対する信頼なのであって、決して天国での点数稼ぎをするようなことではないのです。また、神からの報いというのは霊的な報いですから、それは神との交わりから生まれる心の平安です。富や名誉のようなこの世の報いとは異なり、神を崇める心があってこそ理解できる報いなのです。
最後になりましたが、このイエスの教えには、信仰者の交わりについての大事な視点が含まれていると思います。食事に招くのは単なる慈善ではなく交わりへの招待でもあるわけです。イエスはここで、ファリサイ派の人の交わりの閉鎖性を批判しておられるのではないでしょうか。ファリサイ派というのはもともと分離者という意味でした。律法を守れない民衆を罪人として軽蔑し、そこから分離してエリート集団を作っていた彼らの意識は、交わりをも閉鎖的にしていたのです。ここには食事会にお呼びするのは友人、兄弟、親類、近所の金持ちだとあります(12節)。私たちも同じです。気心の知れた交わりに閉じこもっていては、外に向かっての福音の伝道に開かれていくことはできません。教会が親密であるのは素晴らしい恵みですが、閉鎖的な交わりであってはならないのです。私たちの教会は、どんな方でもあたたかく迎える心を持った教会でありたいと願っています。この世で虐げられている弱い人や貧しい人に寄り添い、罪人のために命を捧げてくださったイエスへの信仰によって、私たちは主の身体である教会を作っていくことができるのです。私たちが模範とするのは、ただ神と人に仕えられたイエスのお姿です。新型コロナウイルス感染のために教会活動が制限されていますが、主の愛によって生かされていることを証しする一週間でありますようにと願っております。
(牧師 常廣澄子)