詩編73編1〜28節
詩編には150編の詩があります。あるカトリックの修道院では、この詩編を1週間で読み通しているそうです。詩編を何回も何回も読むことによって、神の恵みや御業をますます深く理解していくのではないかと思います。今朝お読みした詩編73編は、今の時代を生きる私たちに共感するところもあり、とても読む人の心に訴えてくる詩です。
1節に「賛歌。アサフの詩」とあります。このアサフというのは神殿の祭儀を司るレビ人で、音楽の訓練を受けた聖歌隊のような人々だと考えられています。この73編から83編までは、前置きにすべてアサフの詩と書かれていますから、研鑽を積んだ彼らによって歌われていたことがわかります。
まず詩人は始めの2節で神がどのようなお方であり、自分はそのお方の前でどのようであったかを正直に告白しています。「(1〜2節)神はイスラエルに対して、心の清い人に対して、恵み深い。それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ、一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。」恵み深い神の前で、詩人は足を滑らせ道を踏み誤りそうになったと言っています。そしてその試練の内容をこの後の3節から12節までに書いているのです。
それは神に逆らって生きている人の行状です。悪人は何の災いも苦しみも受けずに安泰で、苦労することもなく病気もなく元気でいる上に、肥え太って経済的にも豊かで幸福に暮らしていて、その心は傲慢でおごり高ぶっていて悪だくみに溢れている。そしてその高慢な舌で「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか(11節)。」と言って、神をないがしろにしても平気で生きています。神を神とも思わないこの悪人は、高慢で横暴で、人を苦しめることを何とも思いません。しかもその悪人は豊かでつやつやしています。詩人にとっては、彼らの傲慢がまるで首飾りで身を飾っているかのように、美しく格好良く見えてきたわけで、詩人はここで大きな躓きを覚えてしまったのです。
翻って今の時代にも悪い事をする人がたくさんいます。法律を犯すような大罪を犯す人もいれば、法の網をかいくぐって人をだまして貪欲にお金を儲けようとする人もいます。そして、こういう悪人は、どんなに悪事を重ねてもそれが成功している時には(つまりそれが誰かに見つかって裁かれたりしない間は)、罪悪感など感じないのです。逆に彼は、神というものは人間の世界のような次元の低いことについては無関心かそのような小さいことには関係しないのだ、と思うようになっていくのです。彼らは神が存在しないとは思っていないと思います。しかし、神は人間のことについては無知かあるいは無能であると勝手に不遜な思いを抱き、神を侮っていくのです。
彼らばかりではありません。彼らがやっていることを見ている周囲の者たちも、「(10節)(民がここに戻っても、水を見つけることはできないであろう。)」口語訳聖書では「それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、彼らのうちに誤りを認めない。」とあり、こちらの訳の方が分りやすいと思います。はじめはあの人達は悪い人だと言っていたのに、彼らが安泰でおごり高ぶって行くと、次第に心が変わって、あの人は力があるとか偉い人だとか言ってほめそやすようになっていくというのです。悪人はまるで英雄か独裁者のように自信を持っていきます。しかもこの悪人にはこの先ずっと何事もなく豊かで安らかな暮らしが続いていくわけです。彼が成した悪事によってひどい目に遭って苦しめられ、泣き悲しんでいる人がいるというのに、悪人はのうのうとしている、こんな不公平、不調和なことがあって良いでしょうか。
このようにここには、神を信じない人の考え方、生き方が書かれていますが、一方で、神を信じているこの詩人は、神の律法を守って心を清く保ち、身を清めています(13節)、まっすぐ神を仰ぎ見て生きているのです。しかし毎日病に苦しみ、すっきりした心で朝を迎えたいと願っても、毎日懲らしめを受けるような日々が続くのだと(14節)、自分の体験を告白しています。
この詩人は、神の前に一所懸命信仰を守って暮らしています。しかし、自分に良いことは何も起こりません。神の前にこんなに心を清めて努力しているのにこれはどうしてなのだろう、自分はあの悪人に比べたら何一つ悪いことをしていないのに、ほんの小さな罪でも告白して悔い改めて、日々新しく出直そうとしているではないか、それなのに、病気があり、懲らしめが続く。神は私のこの心からの信仰を見逃しておられるのではないだろうか。神はいったい彼らの不正を知っておられるのだろうか、といろいろな考えが浮かんで心が揺さぶられ、思い悩んでいるのがこの詩人の苦闘の中味です。
この詩は何千年も前に書かれたものです。しかしここに語られていることは、現代に生きる私たちが考えていることとあまりにも似ています。人間社会はどう見ても不公平で不調和です。それにもかかわらず神は何もなさってくださらない。苦しみの中にいる人間の不幸は、身体や心を襲うさまざまな苦しみに加えて、それにもかかわらず、神がそれに無関心で、そのことを見逃しているかのように思える時、いっそう苦しみが増します。
神を信じるこの自分の現実と、神に逆らっている悪人が富み栄えて享楽にふけり、幸福で健康である現実との違いを見て、詩人は(3節)「わたしは驕る者をうらやんだ」のです。実にこの詩人の信仰の危機は、このように神に逆らう者たちの安泰と幸福に対しての嫉妬心から生まれました。悪人は「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか(11節)。」と高慢にうそぶいて、安泰の中で財を成しているのに、神の前に清く生きている自分は病に打たれ、朝ごとに懲らしめを受けている。このあまりに矛盾した現実に、詩人の心は苦しみ、とうとう「(15節)彼らのように語ろう」という誘惑に駆られてしまったのです。危うく彼らと同じように「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか(11節)。」と口走るところでした。つまり神から離れてしまいそうになったのです。もし彼がそうしていたならば、この詩人もまた神を裏切る者、神に逆らう者となり、「(15節)見よ、あなたの子らの代を 裏切ることになっていたであろう。」と告白しています。詩人はその誘惑に対して寸でのところで思いとどまることができたのです。
ところで、彼がこの問題を自分で解決しようとしていたなら、いつまでたっても堂々巡りで埒が明かなかったと思います。彼はその答えを見出すために神の聖所に行きます。「(16〜17節)わたしの目に労苦と映ることの意味を、知りたいと思い計り、ついに、わたしは神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた。」この詩人の変化は、思い切って聖所に行った時に起こりました。聖所は単に建物を意味しているのではありません。それは神に向かって顔と顔を合わせるほどに親しい交わりを持つことです。彼は神の前に出て祈ったのです。そして神が、神を信じる民をいかにねんごろに扱い、助け守ろうとしておられるかを知った時、自分の考えは、悪人が行っていることに妥協していることだと気づいたのです。詩人が聖所で見たのは「彼らの行く末」でした。
詩人が今まで見ていたのは人を外観から判断する見方でした。しかし詩人は神の聖所でものを見る視点の転換を迫られたのです。それは人生をその終わりの方から見るという視点でした。そして詩人は、財産に恵まれ、幸福に満ちていると思われていた悪人の道が実に滑りやすいものであることが分かったのです。詩人は神の聖所で見たのです。「(18〜19節)あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え、彼らを迷いに落とされるのを、 彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされるのを」彼が見た終わりというのは、人の死を意味するものではありません。ましてやその死に方でもありません。それは人の現実を超えた神の究極の視点から見た人間の行く末です。その視点に立ってみるならば、滑りそうなのは心を清く保っている自分ではなく、むしろ神を侮って生きている者の行く末だったのです。
続いて詩人は見ました。「(20節)わが主よ、あなたが目覚め、眠りから覚めた人が夢を侮るように、彼らの偶像を侮られるのを。」神を侮る者は、神がまるで眠っているか、または夢を見ているかのように現実を見ることができない者であり、自分たちこそが目覚めた人間であると思っているのですが、ここで詩人はその逆を見たのです。つまり、主なる神こそがはっきりと目覚めた人のようであり、悪人が大切にしている偶像を夢として侮られるのだと。実に真の神こそがまどろむことなく、いつもその目を私たち人間の上に注いでおられるお方です。神を視点にして物事を見るならば、悪しき人の道の滑りやすさだけでなく、人を外見でしか判断できない愚かさ、知識の浅はかさが見えてくるのです。詩人は自分の浅はかさに気づきました。「(22節)わたしは愚かで知識がなく、あなたに対して獣のようにふるまっていた。」と告白しています。
詩人はこれまで、病に苦しむ自分は不幸だ、自分は朝ごとに懲らしめを受けるばかりだ、と嘆いていました。しかし、そう思っていた彼は「(23節)あなたがわたしの右の手を取ってくださるので、常にわたしは御もとにとどまることができる。」実に神が自分の手を取って導いておられること、神は自分を見捨てたわけではなく、神の計らいのもとに自分が導かれていることに気づかされたのです。「(24節)あなたは御計らいに従ってわたしを導き、後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。」
詩人がそのような現実に気づかされたのは、彼に神を求める信仰があったからです。しかしだからといってそれ以後彼に苦しみがなくなったわけではありません。富が増し、健康が回復したというわけでもありません。しかし、詩人の心はそういうことから解放されているのです。そのような目に見えるものに心を奪われず、神にある幸い、神に約束されているゴールを信仰の目で見るようになったからです。神を土台として生きる人生の確かさ、将来における希望の約束を、今、信仰の目で見ることができたのです。それをこのように語っています。「(26〜27節)わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえにわたしの心の岩、わたしに与えられた分。見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。」ここには真に神にある平安があります。今を生きる私たちもまた、自ら聖所に入っていくことが求められているのだと思います。そこで神は私たちの考え方や生き方を導き、主にある平安を与えてくださるに違いありません。
神はこのように信じる者を取り扱われるのだと再確認した詩人は、「(25節)地上であなたを愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか。」とその信仰を告白しています。心の苦しさに耐えかねて神の聖所に入っていき、信仰の大切さに気付かされた詩人は、神に近く歩むことがどんなに幸いなことであるかわかりました。ですから「(28節)わたしは、神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。」と語っているのです。
この詩人が気づいたように、この世を生きていく時、大切なのは、いつも神に近く歩むことです。どんなに小さなことでも、神がなされる御業の数々を語り伝えることができるのはとても感謝で幸いなことです。病に苦しんでいたこの詩人は同じように病で苦しんでいる人たちに向かって神を証していったのではないでしょうか。彼がたどった道は、そのような道をたどらねばならなかった多くの人たちに大きな慰めを与えていると思います。それが神の計らいです。私たち一人ひとりにも、神の豊かな計らいがあることを信じ、感謝して歩んでまいりたいと願っています。
(牧師 常廣澄子)