互いの受容

ローマの信徒への手紙 14章1~12節

 イエス・キリストの福音を信じて義とされた者が、この世で生き、日々の生活を送っていく、その実生活そのものが「生きた礼拝」であり、また「理に適った礼拝」であるとして、その生活における具体的な教え、勧めの言葉が、12章から始まりまして、本日は14章に入りました。

 この個所は、信仰共同体、すなわち教会員同志の信仰生活についてのお勧めです。それは15章13節まで続いております。ローマ書の著者パウロは未だ訪問したことのないローマの教会の人々に対して、これ程までに具体的かつ踏み込んだ内容の勧めの言葉を書き送っている、それは教会すなわち、信仰共同体の信仰生活において、最も重要な事柄であり、また基本的な事柄だからです。
 そして、もう一つのことは、パウロが今まで行ってきました、異邦人伝道の中で、“否というほど”経験してきたこととも直接関係しているのです。例えば、第一コリント書8章や、10章には、“偶像に供えた肉を食べることについての問題”が、また、コロサイ書2章16節以下には、“食べ物、飲み物、さらには、特定の日を巡る問題”についてのことが記されております。

 では、早速本日箇所箇所に入って参ります。1節「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」とあります。ここでの“信仰が弱い人”とは、信仰をもってから日が浅い人、とかいうのではなく、周りの人から見ての言葉です。その人はその人なりの考え方、あるいは堅い信念に基づく考え方に従っているのです。ですから、その相手の考え方をいきなり批判し、あるいは非難するのではなく、先ず受け入れなさい、と言っております。信仰共同体においては、相手を先ず受け入れる、ことの大切さを冒頭に掲げております。それは、本日の聖書箇所の全体に係わる中心的なテーマでもあります。これに因みまして、本日の説教題を「互いの受容」とさせていただきました。

 次は2節以降に進みますが、その勧めの言葉全体の組み立てについて見ますと、2節~4節では、野菜だけを食べている人のことを述べた後に、信仰全体にまで及ぶ勧めの言葉があり、続きまして、5節から7節では、特定の日を尊ぶような考えを持つ人のことに触れ、そして再び信仰全体に係わることまで発展させて、勧めの言葉を記しております。
 2節~3節b「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は食べる人を裁いてはなりません──」とあり、ここでは、野菜だけを食べる人、またそうでない人が、お互いに他者を軽蔑したり、また裁いたりすることがないように、と諭しております。さらに続いて3節cでは「神はこのような人をも受け入れられたからです。」とあります。お互いに相手に対して、とやかく言うことはいけません。どちらの人をも、神はすでに受け入れてくださっているのですから、と基本的、かつ最も大切なことを伝えております。
 そして4節に入りますと、どちらに対しても、神を中心とする視点での諭(さと)しの言葉が続いています。「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです──」とあります。神を信じ、神に従っている人は、その人自身が神の僕として立ち、そして日々を送っているのです。そこには“神を中心とする主従関係”がすでに成り立っているのです。ですから、ほかの僕を傍(はた)から裁くとは、何事ですか、という厳しい諭しの言葉になります。
 わたしたちも、いや、わたし自身が、自分を棚に上げて、“あの人はどうの、こうの”、と直ぐ人を裁くような心が湧いてくる、弱い者です。反省しなくてならない、と思わされました。

 5節に入ります。ここでも、先に触れました通り、「特定の日」に対する、信仰的な思いを取り上げたうえで、先の“食べる、食べない”のことと併せて、全体に係わる諭の言葉が続いております。「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。」、さらに「それは各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」とあります。

 次は6節です。「特定日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです、また食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」とあります。ここでの大切なことは、“食べる、食べない”はいずれの立場をとる人も、自分の確信に基づいてそのようにして生きている人であり、片や、特定の日に対しての思いを持つ人、持たない人、両者いずれも、神に感謝しながら、そのようにしている、これが重要なことであり、かつ、決め手ともなります。

 そして次の、6節の言葉が大きな意味を持っている言葉です。
 特定の日を重んじる人、そうでない人、また一方、特定のものを食べる人、食べない人、いずれの人も、各自の確信に基づいてそのようしており、さらに、いずれの人も神に感謝をもってそのようにしているのです、と全体をまとめて記しております。
 因みに、食べ物や、特定の日に関して記された記事は、コロサイの信徒への手紙、2章16節、17節にもあり、次のように記されております。
「あなたがたは、食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。」とあります。ここでの、“実体”とは、本当に大切なものの本体であり、中心となるもので、イエス・キリストご自身です。

 次は7節「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。」とあります。主イエス・キリストの贖いとその福音を信じて、主のものとなったわたくしたちは、その信仰によって義とされ、キリストに迎え入れられており、かつ、主のものとされているのです。ですから、わたしたちの生も死も、すべて主にお任せして、主なる神を中心に生きているのです。そのことが、さらに次の8節にも記されております。
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものなのです。」とあります通りです。
 すべてのキリスト者は、キリストの僕です。ですから主に対して、まず従順であること、これが基本です。そして自分の命までも、主なる神、キリストに託しながら生きる者となります。
「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」ここに全幅の信頼をよせているキリスト者の姿を見ることができます。そしてこのことは、わたしたち自身も、そのようになりたいといつも願っていることでもあります。

 次の9節のみ言葉、「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」ここには、二つの意味が含まれております。
 十字架に死なれれ、復活の主となられたイエス・キリストは、すでに召された人、そして今もなお命をいただき、世に生きている人、いずれに対しても、やがて“再臨の主”として、再び来てくださるのです。その大きな希望を、わたしたちそれぞれが主から戴いているのです。

 続いて10節です。「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの前に立つのです。」とあります。
 9節で見て参りましたことを考えた時に、わたしたちはお互いを裁いたり、侮ったりすることは、もってのほかのことです。
 何度も触れますが、わたしたちは、お互いに、自分の確信に基づいて、生き方を決め、そして、神に感謝をささげながら生きているのです。それだけではなく、将来またわたしたちすべては、再臨の主にお会いする大きな希望を持ちながら生きており、やがて主の前に立って裁きの時を迎え、さらに続いて、御国へと招かれる、その大きな喜びと希望をいただいております。

 さらに続いてイザヤ書の言葉が記されております。イザヤ書49章18節「目をあげて、見渡すがよい。彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。わたしは生きている、と主は言われる。」、このみ言葉の一部が、ローマ書に引用されております。また続いてイザヤ書45章23節bから24節a「わたしの前に、すべての膝(ひざ)はかがみ すべての舌は誓いを立て 恵みの御業は決して取り消されない」からも、その一部が11節bに引用されております。
 このイザヤ書の、40章から55章までは、第二イザヤの執筆によると言われておりまして、イスラエルの民が、バビロンに捕囚の身となっていた、紀元前6世紀に、かの地で、自分たちの罪を悔い、かつ再起を願いながら歌っている詩なのです。
「主は言われる、わたしは生きている すべての膝はわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめ讃える」、イザヤ書からの引用の言葉です。
 いつの時代においても、人と人が対立したり、そして裁き合うことがなく、神に目を向け、そして神を讃えながら生きることができたら、それは本当に素晴らしいことだと思います。
 このことを願いつつ、また本日からの歩みへと遣わされて参りましょう。

(牧師 永田邦夫)