神の栄光

詩編 19編1〜15節

 流れるように美しいこの詩編は、神が創造された世界の素晴らしさを賛美しています。この詩は多くの芸術家の心に強く訴えてきました。ハイドンのオラトリオ「天地創造」は、創世記の第一章に書かれている天地創造の場面を取り上げていますが、太陽と月と星がつくられた後に、この詩編19編前半の言葉を挿入して、神の創造の壮大な美しさを、天体の運行をあらわす音楽的な言葉によって歌っています。

 この詩編は神の啓示を称える歌でもあります。「啓示」というのは、創造者である神が、神のその偉大な真理を人間に伝えることです。この詩編には、始めに「自然を通して示される神の啓示」次は「律法を通して示される神の啓示」最後にそれらをまとめて「神の啓示を受け入れた人の信仰による応答」が美しく書かれています。山であれ川であれ、木々も岩も自然界のあらゆるものは、それをお創りになった神の知恵や力、御性質、つまり神の栄光のすべてをもって絶えず私たちに語りかけています。多くの科学者が自然を研究すればするほど、神が存在すること、神の言葉である聖書が確かな真理であることを証言しています。私たちも自然に触れる時、創り主である神を想い、神からのメッセージを聞き取りたいと思います。

「(2〜5節)天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」ここでの「天」というのは夜の天体を指し、「大空」は昼の空を指しています。夜空には数えきれないほどの星たちと月光が輝き、昼の空には太陽の光と熱が降り注ぎます。この夏のような熱波は困りますが、太陽は人間にはなくてならない存在です。太陽の動きについての6〜7節の表現は大変勇壮で力強い例えです。「昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。」「昼は昼に」「夜は夜に」というのは、日の出から日の入りまで、あるいは日暮れから夜明けまでというように、来る日も来る日もということです。神の存在と共に、その力と偉大さは、天地創造の時から今に至るまで一日たりとも途切れることなく、絶え間なく豊かに語り続けられているのです。「その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」全世界のどこを見ても神の力が働いていることがわかります。

 自然界を通して明らかにされる神の啓示は、言葉によるものではありません。しかし、それが物語る真理から逃れることができる人は一人もいません。なぜなら世界中のすべての人は神が創られた被造物の中に存在しているからです。「世界が造られた時から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます(ローマの信徒への手紙1:20)。」と書かれている通りです。

 後半の8節から11節は、律法の役割とその力や価値への賛美になっています。神はご自分の思いを人間の言葉で表し、それを書物にしてくださいました。自然はそれを見て感動した人の心にしか響いて来ませんが、聖書の御言葉はそれを読む人であれば誰でもそこから神の声を聞きとることができるのです。

「(8節)主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。」
ここでの律法は、旧約聖書のモーセ五書だけを表す律法ではなく、もっと広く神の言葉、神の教えという意味で使われています。つまり神の言葉に従ってこそ、神が創造されたこの美しい世界の中で正しく生きることができると語っているのです。聖書は私たちに真理を教えます。そして私たちの心は真理を知る時に「魂を生き返らせる」ほどの本当の満足を味わいます。

「(9節)主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。」私たちは聖書の言葉にそって物事を見る時、正しく判断できるのです。「主の命令」も「主の戒め」も、神が人間を守って正しく教え導くための働きをしているもので、それは人に喜びを与えてくれます。

「(10節)主への畏れは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。」ここで「主への畏れが清い」と言われているのは、人間が神の前に出るという敬虔な思いこそが大切であるということを指摘しているのだと思います。それにはまず、聖書の言葉が私たち人間に聖なる神を伝え、心から愛し敬うことを教えていることを知ることが大切です。「主の裁きはまことで正しい」これも神ご自身が世界を裁かれることを伝えています。

「(11節)金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」聖書の言葉、神の御言葉は金や銀では買えないものを私たちに与えてくれます。金や銀を蓄えるよりも聖書の言葉を読んで味わい、心に蓄える方がもっともっと私たちを豊かにします。ここは、神の言葉は私たち人間に正しい世界観を教え、知恵を与え、心を喜ばせ、悟りのある生活をさせるものであり、何より価値があるものだということを語っています。

 12節からは、自然界と聖書の御言葉を通して示された神の啓示を受け入れた人の、信仰による応答が書かれています。「(12節)あなたの僕はそれらのことを熟慮し、それらを守って大きな報いを受けます。」創造主である神の栄光をほめ称え、神の御言葉を愛する人は、そこに書かれている言葉を心に留めます。そしてその人は、神が私たちに仕えるために存在するのでなく、人間が神に仕えるために造られたことをはっきり悟るのです。きっと当時のイスラエルの人たちは、律法を守れば祝福され、それを破れば災いが与えられるという契約を思い起こしていたに違いありません。

「あなたの僕はそれらのことを熟慮し」とありますように、誰でも神の御言葉にしっかり耳を傾けるなら、自分が神の前にいかに小さな存在であるかがわかってきます。その時、素直に自分の罪を認め、神に赦しと救いを願う人は本当に幸いな人です。知者の代表と言われるソロモンが著したとされている「箴言」の冒頭には、知恵を賛美して、知恵と律法の深いつながりを示しています。「(箴言1:7)主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」ここには神を認めて生きることによってこそ、本当の知恵、正しい知識を得ることができる、そして主の諭しをも受け入れることができるのだと書かれています。

 さてこのようにこの詩編は、前半で神がお造りになった世界の美しさを称え、後半部分では神の言葉こそが何より大事なのだと言い表しています。そして、この詩編はこの二つの異なるテーマを扱いながら、とても大事なことを伝えようとしています。それは本当に美しいものは、人間が作りだしたり飾ったりするものではなく、神がお造りになったものであり、そして、人は神の言葉によって生きる時にこそ、本当に美しい生き方ができるのだということではないでしょうか。

「(13〜14節)知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください。あなたの僕を驕りから引き離し、支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から浄められ、わたしは完全になるでしょう。」この作者は、ここで、誰にも知られていないであろう、人の心の奥に秘められた罪までも、神の前に許される必要があるというような祈りをしています。実は旧約聖書で罪というのは、犯してしまった過ちを意味することが多いのです。それを自分の内面に秘められたものまで、神の前に許される必要があるということをはっきり口に言い表した人はいませんでした。さらに「驕り」という心も、自分の内側にある醜さから出てくる罪だと言い表しています。ここで「重い背きの罪」と言っているのは、「意図的に神の律法を破る罪」のことです。神の律法を知っていながら、それを破る罪は「主を冒涜する者であり、その人は民の中から断たれる。」(民数記15:30)と言われていたのです。

 この詩人は、隠れた罪とか、驕りとか、見えないものにまで目を向けています。このこと考えると、この詩人が求めているのは、目に見えない神の前にある美しさ、正しさと言ってもよいかもしれません。本当に美しいものというのは、何でしょうか。目に見える神の作品はすべて美しく完全です。その上にさらに人間が何か素晴らしいものを造り出すことなどできません。神に造られた私たちは神が願っておられるように生きること、それこそが美しいことではないか、そのように詩人は悟っていたのでないでしょうか。

 神は私たちに律法という戒めを与え、神の御前に正しく生きることを求められました。それは私たちが表面的に見えるところだけうまくやることではなくて、神のみ心に添って生きることです。心の底まで神の思いに生きることです。詩人はこの詩の中で一つの願いを語っています。それは「わたしを清めてください」という言葉にあらわれています。神だけが自分を内側から清く作り変えて、神の目に適う美しい生き方ができるようにしてくださると言っているのです。14節後半にこうあります。「そうすれば、重い背きの罪から浄められ、わたしは完全になるでしょう。」詩人はここに人としての完全な美しさを見ています。ここで言う完全、つまり本当の美しさとはこの世界を完全な美として創造された神の目に適う者とされることではないか、それこそが人が求めるべきものではないかと悟ったのです。

 私たちは美しさについてしばしば誤解しています。美しさは手に入れられるもの、努力や財力で得られるものだと思っているかもしれません。しかし、それは外側に貼り付ける程度のものでしかありません。神が求められている美しさというのは、私たちが内側に身につけるものです。それは私たちの存在が変えられること、神の前で、神が求めているような人間として生きることです。この詩人が祈っているように、心の醜さを捨てて、神の御言葉に従う時、私たちは美しく生きることができるのではないでしょうか。

 最後に詩人の祈りの言葉があります。「(15節)どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」私たちはだれでも皆、言葉で失敗しない人はいません。思いもしない時に嫌な言葉、冷たい言葉、悪しき言葉が口から出てしまいます。それだけ人の心は悪いということなのでしょう。ですから詩人は「「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。」と祈っているのです。それは、もし私たちが謙虚に自分の罪を認めて祈るならば、たとえそれが心の中であろうと、言葉で犯す罪であろうと、行いで犯す罪であろうと、神はそれを赦し、その罪から救い出してくださるからです。

 そして詩人はこの詩を「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」と、世界を創られた神を礼拝する言葉で締めくくっています。「わたしの岩」というのは、信仰者の生活の揺るがない基礎であり、「わたしの贖い主」というのは、過ちを犯した人間を滅びから助け出し、危険な状態から救い出してくださる救い主のことです。このように呼びかけることによって、神の救いを信じて祈る詩人の心から思いを表しているのです。神が全世界を創造された時から今に至るまで、神はこの世界を美しくしたいと願っておられます。そしてただ神の御言葉に仕えて生きることだけがそれに応える唯一つの道なのです。神が求めておられることを一つひとつ心に刻みながら、今週も神のみ前に感謝して生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)