愛の勝利

ヨハネによる福音書 11章17〜44節

 本日は召天者記念礼拝です。これまでに神のみもとにお送りした方々の在りし日のお姿をしのび、また主にあってお交わりをいただいたことを感謝しながら、この礼拝が天と地とで互いに呼応していることを覚えながらお捧げしたいと思います。 

 主の日の礼拝は神の国の雛型であると言われています。教団讃美歌191番(新生讃美歌339番)の歌詞には、「世に残る民、去りし民と、共に交わり、神を仰ぎ、永久の安きを待ち望みて、君の来ますをせつに祈る」とあります。この歌詞のように、主の日の礼拝はここに集っている私たちと、先に召された方々とがいっしょに捧げている礼拝なのです。今、この時、天上では、神に仕えている天使たちと先に天に帰られた方々の賛美が満ちていると思います。

 今、世界中が、新型コロナウイルス感染拡大により大変厳しい状況に置かれています。多くの教会は感染防止のために極力人が集まることを避け、礼拝をライブや動画で配信しています。一日も早いワクチンの開発と認可、製造、接種が待たれます。また毎日のニュースでは、その日の感染者数が報告されていますが、感染増加傾向の国々もありますし、わが国では増減が繰り返され、まだまだ落ち着くところには至っていません。新型コロナウイルス感染によって亡くなられる方も大勢おられます。先頃はテレビ等で活躍されていた有名な方が相次いで亡くなられ、最愛の家族でさえも最後のお別れができないという残酷な新型コロナウイルスの怖さと共に、この世から人が死んでいなくなることの悲しさ、辛さを身をもって味わい、涙を誘うことでした。

 人が亡くなるのは、新型コロナウイルスによるだけではありません。実に人間の死ほど厳粛なものはありません。今朝の聖書箇所は、ラザロという一人の男の人の病気と死、そしてそのよみがえりについて書かれている場面です。ヨハネによる福音書では今朝お読みしたこの11章までに、イエスがなさったいろいろな不思議なしるしが書かれています。結婚式で水をぶどう酒に変えたり、5千人に食べ物を与えたり、湖の上を歩いたり、目の見えない人を癒したり、イエスは数々の力ある業を行われました。しかし、死んだ人をよみがえらせるということ程、大きな業が他にあるでしょうか。そういう意味では、ラザロの復活は今まで語られてきたしるしの中で最大のものです。今朝は、このラザロの死と復活を通してイエスの愛と力について考えてみたいと思います。

 さて、「ある病人がいた。」11章1節の冒頭ですが、最大の奇跡ともいうべきラザロの復活の記事は実に淡々とした書き出しです。死んでしまった人をよみがえらせるという前代未聞の大きな出来事も、ここでは日常的な普通の生活から始まっています。この病人の名前はラザロで、マルタとマリアの兄弟であり、ベタニアに住んでいたと紹介されています。イエスはエルサレムに近いこのベタニア村に住むマルタとマリア、ラザロの家族をとても愛しておられ、しばしばこの家を訪れて休みをとられるような親しい関係でした。しかしこの時は、イエスはベタニアからはるか離れたヨルダン川の向こう側に滞在していたのです(10章40節参照)。そこで「(3節)姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。」のです。「(4節)イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』」と。そしてこう言われた後、どういうわけかすぐにラザロのもとに行かずに、なお二日間同じところに滞在されたのです(6節)。
 
「この病気は死ぬほどのものではない」と言われれば、やれやれ良かったと私たちは安心します。この病気は一時的なものですぐに治るのだと思います。しかしこの話を読んでいくとそんな簡単なものではないことがわかります。その間にラザロは死んで葬られるという厳しい現実がありました。 誰でも病気になって心配になるのは、このまま治らずに死んでしまうのではないだろうかという不安です。人が病気で苦しむのは、肉体的な痛みや辛さもさることながら、病の行きつく先が死だからです。医学の進んだ現代では、あらゆる病気の治療が進み、薬が開発され、たとえ病気になっても人間は長く生きることができるようになりました。しかし、どんなに頑張っても最後に死なない人はいません。人間は死に向かって生きている存在です。今生きている私たちは、しばし、死の執行を猶予されているだけに過ぎないのです。

 しかし、人生の終着駅は死であるということが、御子イエスによって変えられたのです。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」これは、この病気の行きつく先が死や滅びではなく、神の栄光を現わすことであると言っています。ここには、イエスによって人間の理性や力を越えた道が指し示されているのです。イエスがその道を開かれたからです。

 ラザロは死にました。間違いなく死んで、墓に葬られました。「(17節)さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」とあります。39節では、イエスが「お墓の石を取りのけなさい」と言われると、マルタが「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」と言っています。ラザロの肉体が腐り、臭っていく死という現実は私たち一人ひとりにも同様に起こります。いつどのような死を迎えるかはわかりませんが、私たちの死は、このラザロの死と重なっています。

 マルタもマリアも泣きながら口々にイエスに言います。「(21節、32節)主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」これは実に彼女たちの心の底にある本心です。彼女たちはイエスのなさった数々の奇跡を知っていますから、イエスには兄弟ラザロの病気を癒す力があると知っていたことでしょう。ですから、早く戻ってきてくれたら助かったのに、と無念さと悔しさが入り混じった複雑な気持ちを持っていたと思います。

 イエスはマルタに言います。「(23節)あなたの兄弟は復活する。」それに対してマルタは「(24節)終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」と言います。今復活するなどとは思ってもいません。ここでさらにイエスは力強く言われました。「(25〜26節)わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」ここにはラザロの復活だけではなく、イエスご自身の死と復活が示されています。「このことを信じるか。」イエスのお言葉はただの宣言ではありません。これを聞いた人に受け止める心を求めておられます。私たち一人ひとりにも「信じます」という答えを求めておられる言葉だと思います。

 しかし、科学の発達した現代に復活なんて信じられないという方がたくさんおられます。そんなことはあるはずがないと思っている方が大勢おられます。しかし、わかっていただきたいことがあります。今日は日曜日です。なぜ日曜日に教会で礼拝するようになったのでしょう。当時ユダヤ教は土曜日が安息日でした。どうしてそれが週の初めの日曜日になったのか、日曜日に礼拝せざるを得ない何かが起こったからです。それはイエスの復活です。それを感謝し祝うために弟子たちが日曜日に集まるようになったのです。実にイエスの復活がなかったら、キリスト教は成立していませんし、この世のどこにも教会はありませんでした。

 いったい「わたしは復活であり、命である。」とはどういうことでしょうか。死んでしまったラザロのような人間とは違って、私は神の子だから死ぬことはないと言われたのでしょうか。そうではありません。あなたがたも私イエスも人間は皆死ぬのだということを否定しているのではないのです。実際この後、イエスは死刑に定められてしまいます。「わたしは復活であり、命である。」という言葉にその事実が込められています。私イエスは殺されて死んでしまう、しかしその死のかなたにおいてよみがえる者であるという意味が込められているのです。

 ではイエスの死は何を意味していたのでしょうか。私たち人類のために死んでくださったのがイエスです。今の世界は自分さえよければ他人や他国はどうなってもよいという、非常に利己的で、愛やいたわりのない惨憺たる現実がありますが、そのような罪の中にある人間一人ひとりを心底極みまで愛してくださったがゆえにイエスは十字架につかれたのです。イエスは十字架の上でこれ以上ないと思われる肉体の苦しみと霊の苦しみを味わって死なれました。そのようにしてイエスは父なる神のみこころを成し遂げられたのです。これは父なる神が人間を愛する愛の証拠です。

 イエスの死は自分のためでなく人類の救いのため、私たちのための死でした。でももしすべてが死で終わるのであれば、どのような大きな深い愛があろうと最後は死に飲み込まれて無駄になってしまいます。死でこの世で起きたすべてが終わるとしたら、どんなに美しいものも、どんなに良いものも、どんな美しい行為もすべて意味を失ってしまいます。そこには希望がありません。世界も人生も矛盾のまま終わって、生きる意味と支えはどこにもありません。キリスト教がよみがえりを説くのは、イエスが復活され、愛が死で終わらないからです。愛が死のかなたに消えるのでなく、愛が勝利したのです。イエスはラザロの死に対して涙を流されました。そしてその死に憤ってくださいました。死というこのむごたらしい現実を怒り、死に打ち勝ってくださったのです。

 イエスは大声で言われます。「(43節)ラザロ、出てきなさい。」すると死んでいた人が、顔を覆いで包まれ、手と足を布で巻かれたラザロが墓から出てきました。これが生ける神の子イエスの力です。イエスはそのように神の力と権威をもった愛のお方です。キリスト教が復活を説くのは、人間世界で死が最も恐ろしいものとして力をふるうことを許さないからです。「死は勝利にのみ込まれた。」「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。」「死よ、お前のとげはどこにあるのか。」これらの言葉が実現するのだと、パウロはコリントの信徒への手紙一15章54〜55節で語っています。この愛の勝利の力を信じる時、私たちは深い悲しみの中にあっても、厳しく苦しい現実社会の中にあっても、神のみ前で心からの最善を尽くして誠実に生きて、人のために祈ることができるのです。

 御子イエスは十字架で死なれ、墓に葬られ、三日目に死から復活されて、救いの御業が完成しました。肉体的にも精神的にも極限まで苦しみぬかれたイエスは、最後の敵、死に勝利したのです。これは神の愛の勝利です。私たち人間をいかに愛しぬかれたかということです。今イエスは、苦しみの中にある人、病にある人、死の床にある人の最も近い存在となっておられます。彼らに伴なっていてくださるお方なのです。ですから、復活の主を信じる人はどんな時も孤独ではありません。

 人間は死に囲まれ、死に向かう存在ではありますが、たとえどんな時でも「この病は死に至らない」と仰せられる復活の主が共におられるのです。いまここにおられるのです。私たちはいつどのような形で死ぬのかわかりませんが、私たちの死の床のすぐ傍らにイエスは伴っていてくださいます。どうかこの礼拝においでくださった皆さまお一人おひとりが、先に召された方々のように神から生きた命をいただいて、復活の主の光の中で、与えられた各々の人生を生きて行けますようにと願っております。

(牧師 常廣澄子)