主イエスさまの誕生予告

ルカによる福音書 1章26〜38節

 ルカ福音書は文字通り、ルカが書いてローマの高官テオフィロに献呈したものですが、1章4節に「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分っていただきたいのであります。」とあり、この短い節の中に、“キリストの教えが確かで安全なもの、そして、世界の人々が信じるに値するものである”、とのルカの信仰と篤い思いが込められているのです。そしてさらに、当時すでにローマの高官にまで、キリスト教が伝わっていたことも知ることができます。
 では、ルカはどのような方針と手順で、ルカ福音書を書いたのか、それは、本書冒頭の1~3節にあります。分かり易く訳しますと、「わたしたちの間で実現した事柄(福音のできごと)を自からの目で見て共に働いた人々が、世の人々に伝えてきたことを物語として書き表そうと、すでに多くの人々が手掛けていますが、わたくしルカも、すべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いて、テオフィロさまに献呈するのがよいと思いました。」となります。

 ルカは歴史家と言われたりもしますが、伝道者で、また医者であり(コロサイ書4章14節)、かつ、伝道者パウロのよき協力者(フィレモンへの手紙24節)として働いてきた人です。なお、このルカ福音書の続編とも言われます使徒言行録も、ルカの執筆によります。

 早速本日箇所に入って参ります。1章26節に「六カ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。」とあります。ここの“六カ月目に”との書き出しは、前の段落、すなわち、新共同訳聖書では、「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」の見出しで記された記事内容と関連して、“六カ月目に”と記されております。すなわち、天使ガブリエルが、聖所で勤めについていたザカリアに現れ、「あなたの妻エリサベトは身ごもって男の子を生む」と告げられ、その後エリサベトは天使の予告通り身ごもって、五カ月の間身を隠していた、とあり、そして本日箇所、イエスの誕生予告、の段落に入りまして、26節で、“六カ月目に”との書き出しで始まっています。

 先に目を通しましたように、「天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に遣わされ、」そして27節に、「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。」とあります。これから起ころうとしている出来事は、ガリラヤのナザレという町で起こったのです。そのナザレという場所は、表舞台というよりは、“田舎のまた田舎”というイメージです。当時のナザレの人口は480人であった、と、ある発掘資料の碑文に記されているくらいです。また、ナタナエル(後にキリストの福音を信じた人)の言葉として、ヨハネによる福音書1章46節に「ナザレから何か良いものが出るだろうか」との言葉も残っています。

 次に、天使ガブリエルがマリアに告げた言葉が、28節に、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」とあります。この言葉を聞いたマリアの反応、「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(29節)とあります。“藪から棒に”と言いますが、そのときのマリアにとっては正にその通り、この挨拶は何のことかわかりません。マリアのその“戸惑い”は、わたしたちも理解することができます。「すると天使は言った」として、天使の言葉が30節から33節まで続いています。区切って見ていきます。
 30節、31節「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」とあります。旧約のイザヤ書7章(「インマヌエル預言」)の14節に「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名はインマヌエルと呼ぶ。」と預言されておりますが、そのことが今正に起ころうとしているのです。なお、天使が告げた「イエスと名付けなさい」、の「イエス」はギリシア語で“主は救い”という意味です。
 そして続けざまに告げられた天使の言葉が、32節、33節に、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」とあります。この言葉は本当に大きな意味をもった言葉です。そして、歴史を変える大きな出来事を表す言葉です。すなわち、主イエスさまは、旧約の時代から預言者をとおして預言されてきた、メシアすなわち“救い主”として来られた方で、また、神の子が人となってこの地上に来られた方なのです。この言葉には、三つの大きな意味があります。一つは、イエスと名付けられたその子は、成長して偉大な人になり、いと高き方の子、すなわち「神の子」と言われる、ということです。

 二つ目は、「神の子」と言われる彼に対して、主なる神は、“父ダビデの王座”すなわち、選民イスラエルを治める王的なメシア、支配者としての地位をお与えになる、ということです。イザヤ書、11章1~2節に「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。」とあります。また同じく、イザヤ書11章10節に「その日が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」とあります。

 三つ目は、成長して偉大な人となった彼は、“永遠にヤコブの家を治めその支配は終わることはない”と言われたことです。ヤコブの家とは、イスラエルの十二の部族のことですが、それに止まらず、“新しいイスラエル”すなわち、地上のすべての民、また教会を表します。これによって、今現在の時代が「教会の時代」と言われているのです。預言者を通して預言されたメシアなるイエスは、すべての民の救い主、また教会の主として、今も、またのちの時代も、永久(とこしえ)に立っておられるのです。

 以上、30節から33節の言葉を、天使ガブリエルから聞いたマリアでしたが、未だその言葉を信じ切ることができませんでした。そして天使に問い返したマリアの言葉が34節です、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と、現実的と思えるような言葉で問い返します。この言葉は、マリアの不信仰から出た言葉というよりも、自分の身のことを考えての言葉、と理解できます。この当時、婚約は結婚と同じように扱われていた、とはいえ、事実上マリアとヨセフは、結婚生活にまだ入っていなかったからです。
 即座に天使はマリアに言いました、それが35節から37節、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(35節)、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女といわれていたのに、もう六カ月になっている。」(36節)。そして「神にできないことは何一つない。」(37節)とありますとおりです。遡りまして、天使ガブリエルがマリアに現れて「おめでとう、恵まれた方、──」(28節)と、挨拶の言葉をかけられ、マリアは戸惑い、茫然自失していたときから、天使ガブリエルが、神からの言葉としてマリアに、事細かに説明した言葉など全体を、大きく分けますと、次の二つに整理することができます。
 その一つは、30節から33節の言葉です。マリアは、身ごもって男の子を産むが、それは神からの恵みである。その子をイエスと名付けるように。そしてその子は、ダビデの王座、すなわち旧約の多くの預言者を通して、メシアはダビデの末裔から出て、ヤコブの家すなわち、選民イスラエルの上に立ち、その支配はとこしえに終わることがない、と告げられてきたことが、これから実現する、ということです。

 二つ目は、35節から37節の言葉です。マリアの、わたしはまだ結婚生活に入っていないのに、どうしてそのようなことが起こるのですか、とのガブリエルへの問い返しに対して、マリアに告げられた言葉、「聖霊があなたに降り、神の力があなたを包む。だから生まれる子も聖なる者であって、『神の子』と呼ばれる。」でした。またこの言葉は、おとめマリアに起こった“処女降誕”のできごとです。わたしたちキリスト者は、最初にこのことを知らされたとき、また聖書をとおして、また説教を通して知ったとき、大きな驚きを覚えました。そしてやがて、信仰によってそのこと信じようとし、また信じるようになったのです。
 そこでマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」とすべてを受け入れて、信仰告白の言葉をのべます。また、この言葉が、わたしたちの信仰告白の言葉ともなりますように願っています。天使ガブリエルを通してマリアに告げられた、神の言葉が成就して、救い主なるイエスさまがお生まれになり、今も後も、とこしえに、救い主として、またインマヌエルの神として、わたしたちと共にいてくださいます。本当に感謝です。
 主の御降誕を待ち望むこの時期、また待降節の一日一日を、喜びと希望をもって、過ごして参りましょう。

(牧師 永田邦夫)