ルカによる福音書2章22〜38節
コロナ禍にじっと耐えながら、歩みを続けて参りました2020年が明けて、新しい年2021年となりました。しかし、直前の大晦日には東京都のコロナ感染者数が、過去最高の1300人を超える状況となっており、今しばらくは試練の時が続きそうです。一日も早くこの状況が終息しますようにと願うばかりです。
さて、この「恵みのみ言葉」は、ルカによる福音書の2章22節~38節からで、幼子イエスさまがお生まれになってのち、律法に定められた行事を順番に進めてきて、清めの期間が過ぎ、両親が幼子を主に献げるためエルサレムに上った、その時に起こった出来事からです。
ここには、旧約時代の仕来りの中で、信仰深く生きてきて、すでにかなり年齢を重ねている二人の人が相次いで登場します。いずれも聖霊に導かれつつ、エルサレム神殿で、母マリアに抱かれた幼子イエスさまにお会いする、という劇的な出会いを果たしました。この出来事は、いわば旧約時代から新しい時代に移り変わろうとする、その接点で起こった出来事です。
旧約時代を本当に信仰深く生きてきた人と、旧約時代から多くの預言者を通して預言されてきた、救い主メシアなるイエスさまとの出会いの出来事は、今現在のわたしたちの世界で起こっている、“古い年、苦難に満ちた年から、希望に満ちた新しい年への幕開け”、と理解することもできます。では初めから、皆さんと一緒にその出来事を辿っていきましょう。
本日箇所は、22節から38節までですが、先に見ておきたいこと、それは直前の21節に「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」とあり、さらに本日箇所の直後の39節に「親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。」とありまして、本日箇所を含む全体が、如何にもドラマチックに描かれております。
22節、23節「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである。」とあります。以下整理しつつ見ていきます。
•生後八日目に割礼の日を迎え、そして幼子の名は、天使(ガブリエル)に示されていた通り、イエスと名付けました。
•母の清めの期間33日(男児の場合)が過ぎ、初めの8日間を加えて、40日目に、幼な子イエスさまを主の者として神に献げるためにエルサレムに上りました。これはイスラエルの民が出エジプトを果たし、さらにその命を救われたことを記念して行う行事で、“主に献げる”とは、「聖別された者として主に従って生きる」ということを意味します。
•神殿でのささげものは、“山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽”を生け贄としてささげる。
以上がモーセの律法に定められた一連の行事です(レビ記12章、出エジプト記13章を参照)。
25節「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」とあります。“正しい人”とは善悪を弁える、というのではなく、“信仰的に義しく生きている人”いう意味です。そして彼はイスラエルの慰められるのを待ち望んでいた人でした。
イスラエルの民は、歴史的な苦難、すなわち「バビロン捕囚」を紀元前6世紀に経験しました、その時代に各預言者は、捕囚という苦難からの解放と祖国への帰還を実現するメシアの到来を預言していました。イザヤ書40章1節2節に「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」とあるとおりです。
そして「聖霊が彼にとどまっていた」とは、シメオンの信仰深さゆえに、聖霊が彼を覆っていることを自覚し、かつ聖霊に導かれながら生きてきたとの意味です。次は26節「そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」とあります。シメオンの信仰ゆえに、聖霊が示す言葉を自覚しながら生きてきたのです。
27節、28節「シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。」とあります。その言葉が次の29節~32節です。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」とあります。以上の言葉は、シメオンの賛歌としてよく知られている賛歌です。
繰り返しですが、シメオンは信仰深く、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、との確信に満ちて、その人生を歩んできました。そしてついにその時が来たのです。メシアにお会いした、その喜びを体いっぱいで表したことでしょう。それが、この賛美の歌となっています。さらにこの歌は、シメオン自身の喜びに止まらず、イスラエルの慰め主の到来を待ち望んでいたすべての人、異邦人を含む全世界のすべての人にとっての、神の啓示の光であり、メシアの到来を喜ぶ歌です。
この賛美の歌は、“ヌンク・デイミイテス”「今こそ、あなたは去らせてくださいます。」と呼ばれておりまして、日本基督教団讃美歌560番に「讃詠」としてあります。またローマの聖務日課の中で、一日の終わりに唱える終歌(寝る前に祈る祈りの歌)ともなっており、またルター派教会では、信徒陪餐の終わりなどで歌われているとのことです。
次は33節~35節の段落に入ります。まず33節「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。」とあります。両親は直前のシメオンの歌の素晴らしさに驚いただけではなく、今胸に抱いている幼子の将来に思いを馳せながら、その驚きを示したことでしょう。
一方、シメオンは更に彼らを祝福して、母マリアに言います。整理しますと、
1)34節b「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められています」。このことは、後のイエスさまの公生涯のご活躍の中にはっきり見ることができます。イエスさまの言葉、そして御わざに驚き、そして信じてそれに従っていく人が多くいる一方で、信じるのではなく、それに躓いて、反逆の言葉を返し、敵対し、そしてやがて、イエスさまを十字架へと追いやる側に回っていったのです。“倒したり立ち上がったり”の言葉は正にこのことを表しております。わたしたちはどちら側につくのでしょうか。もちろん教会のわたしたちは、イエスさまを救い主として固く信じている人びとの群れなのです。
2)34節C「また、反対を受けるしるしとして定められています。」とあり、先ほどの“倒れたり立ち上がったりする”に関連して、イエスさまご自身、それぞれの人の「しるし」すなわち、標的とされる、という意味です。
3)35節は「―あなた自身も剣で心を刺し貫かれますー多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」とあり、シメオンが母親に告げている言葉です。その事例として、イエスさまが公生涯に入られて間もない頃のことです。イエスさまが群衆に向かってお話をされていたそのとき、母と兄弟たちが、イエスさまに話をしたいと、人に頼んでイエスさまを呼び出そうとしました。その時イエスさまが、使いの人に向かって返した言葉、「わたしの母とは誰か、兄弟とは誰か、誰でもわたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母ある。」(マタイ福音書12章46節~50節)があります。この言葉は、実の母、兄弟にとって、何と素っ気なく、また冷たい言葉だったでしょうか。これは、身内の人にとっては、正に“心を刺し貫かれる言葉”となったのです。
次は36節からの段落です。ここにはアンナという女預言者が登場します。「アシェル族のファヌエルの娘」との紹介です。アシェル族とはヤコブとレアの側女ジルパとの間に生まれた第二子アシェルの系統に属する民族で、北イスラエルの北西の地中海岸寄りに住んでいた部族です。その部族のファヌエルという人、“ファヌエル”はヘブライ語でペヌエル(「神の顔」の意)と言います。因みに、ヤコブがエサウとの再会を果たす前に、緊張して神と格闘する夢を見た、その場所をペヌエルと名付けた(創世記32章23節以下)ことはよく知られています。
そのアンナは、すでに多くの年齢を重ねていたが、彼女は神殿を離れずに、断食をしたり、祈って神に仕えていた、とありますように、非常に信仰深い人でした。そのアンナが、幼子イエスを献げようと神殿に来ていた両親に近づいて来て神を賛美し、そしてエルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話しました。この時すでに、伝道者として働いているのです。
以上に登場しました、シメオン、そしてアンナいずれも、旧約時代の中で、忠実に信仰に生き、かつ、「イスラエルの慰め」、「エルサレムの救い」を強く望みながら生きてきた人です。そして今、神殿で幼子イエスさまにお会いし、この方こそすべての人が待ち望んでいたメシア、救い主であることを知り、神を賛美し、喜びを全身であらわしました。
わたしたちもこの新しい2021年を、希望と喜びをもって生きて行きたいと願っております。
(牧師 永田邦夫)