ルカによる福音書16章1〜13節
この個所はイエスのたとえ話の一つですが、これは誰が聞いても何か不道徳でずる賢い男の話のように思います。イエスはどうしてこのようなたとえ話をなさったのでしょうか。ご一緒に聞いていきたいと思います。まず「(1節)ある金持ちに一人の管理人がいた。」当時、エルサレムに住む金持ちの多くは、地方に農園を持っていて、自分の土地を小作人に貸し付けていました。そして僕たちの中から管理人を派遣してその管理と経営を委ねていました。つまり彼に全財産を任せていたわけです。ところがこの管理人は任されているのは主人の財産であるのを知りながら、それをまるで自分の物であるかのように自分勝手にやりたい放題に使っていたのではないでしょうか。たぶんそれが目に余ったので、部下の誰かが主人に言いつけてしまったようです。「この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。」と書かれているとおりです。
それで主人は彼を呼びつけて言ったわけです。「(2節)お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」つまり、「おまえについて良くないうわさを聞いた。もしそれが事実であっておまえが不正をしているならば、もう財産を預けておくわけにはいかない。」つまり辞めさせるより仕方がないというのが主人の言い分です。そして次期管理人へ引継ぎをするために会計報告を出すよう言われたのです。主人に会計報告を出すまでの間、彼にはしばらくの猶予が与えられました。この事態に至って、追い詰められた管理人は今後のことをいろいろ考えたと思います。
もし私たちの身にそういうことが起こったらどうするでしょうか。ある人は素直に今までやった不正を主人に謝って、できれば引き続いて仕事をさせてもらうようにお願いするかもしれません。またはその逆に、そのような不正なんかいっさいやっていないと、いろいろな理由をこじつけ何かと言い逃れをして逃げ切るかもしれません。頭の良いこの管理人なら、もしかしたらそれができたかもしれません。あるいは自分がやった不正を認め、きっぱり諦めてこの家から出て行き、どこか他所で一からやり直すということもできるかもしれません。
しかしこの管理人はそれらのどの方法も取りませんでした。管理人は考えました。「(3〜4節)どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。」この管理人は、腕力がなかったのか、どうも肉体労働は苦手だったようです。またプライドも高かったようで、人に頭を下げることはしたくなかったようなのです。
彼が思いついたことは、今まで主人に借金していた人たちを呼びだして、それらの人たちの借金証書を書き換えることでした。すなわち負債者の負債を割り引くことで、彼らに恩を売り、主人から解雇されたら彼を家に迎え入れて面倒を見てくれる人々を前もって作っておこうとしたのです。彼はこの猶予期間を利用して将来のための備えをしようと考えたのです。
「(5〜7節)そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』」
始めに来た人には、その場で借用証書を半額に書き換えるように言いました。1パトスというのは今の単位では約23リットルです。別の人には小麦百コロスの借りがありました。1コロスは今の単位では約230リットルです。この人の証文は80コロスに書き直すように言い渡しました。割引率が違っていますが、ある学者が当時の物価レートで計算したところによると、これらは共に500デナリの値引きに当たるそうです。これは当時の労働者の500日分の給料に相当する額でした。そのような割引を受けた人はきっと彼に恩義を感じることでしょう。
さて主人は、管理人がそのような行動を起こしているのをどこからか聞いて知ったようです。そこで「(8節) 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」もしかしたらこの管理人はそのままここで働き続けることができたかもしれません。しかしここで明らかなのは、この時主人は、管理人の不正直さを是認したわけではなく、ただ彼の賢さを褒めただけなのです。
「(8節続き)この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」イエスは、この管理人に代表される「この世の子ら」と神を信じて生きる「光の子ら」とを対比され、管理人の行為を全面的に称賛するのでなく、その利口さと賢さを学ぶようにと教えておられるのです。この管理人は、まず自分に任されていた財産が早晩自分の手を離れるものであることを認識しました。次に考えたのは、やがて自分が管理人としての地位を追われた時に自分を迎えてくれる家を作っておこうとして、そのために自分に委ねられた富を用いたのです。
「(9節) そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」ここに書かれている「不正にまみれた富」というのは、「この世の富」を表す慣用句であって、不正な利得を意味するのではありません。管理人がこれまで管理してきた主人の財産を「不正にまみれた富」と言っているのです。神を信じる信仰者も同じように「この世の富」が無くなるものであることを知って、その富を用いて「永遠の住まいに迎えられる」ように備えなければならないということを、イエスは語っているのです。
「永遠の住まい」というのは天国を意味する言葉です。しかしここでイエスは、人々に富や財産を与えることが天国に行ける条件であるということを言っているのではありません。一方、ファリサイ派の人々は、富や財産は、神に祝福された者や神の律法を守る者に与えられる特別な恵みであり、律法遵守に対する報酬のように見ていました。また天国に行けるのは善行への報酬であるとも考えていました。(ですから、イエスがたとえ話の終わりで「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と言われた時、イエスをあざ笑ったのです(14節)。)
しかしイエスは、人間の目には確かに富んでいる者は神に祝福されているように見えるかもしれないが、神はそのようには見ていないということを言われたのです。富に対して持っている彼らの誇りや称賛の心は、彼らの中に潜んでいる貪欲な心を覆い隠そうとしていることをイエスはよくご存じでした。イエスはこのたとえ話で、富の用い方こそが神に対する本当の心を表すものだということを伝えたかったのではないでしょうか。
このたとえ話の前の箇所(15章11〜32節)に書かれているのは、誰もがよくご存じの「放蕩息子のたとえ話」です。ここでの父親は息子に財産を分けてやりましたが、多くの財産を持っている人は、その相続財産を全部自分の息子に与える前に、まずその一部を彼に託して様子をみるそうです。同様に神は私たちに託した物質的所有物の用い方をご覧になって、天から与えられる真の富に対する私たちの考え方をみておられるのです。私たちの富(金銭)の使い方は、私たちが神に主権を置いているか、あるいはそうでないかを試す良い試金石だと考えられます。もし私たちが富に支配され、富を神のように崇めているならば、神に仕えてはいないことになります。その事が13節に書かれている「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」ということです。私たちはこの世の命が終わる時、神から与えられた富や財産や賜物の管理者としての任務を解かれます。それらの富は私たちの永久的な所有物ではないからです。むしろ私たちはそれらを賢く用いることによって、永遠の命を準備しなければならないのです。
ここでイエスは「(9節)そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。」「この世の富」を用いて友を作るようにと言われました。すなわち、私たちに与えられた富の管理で大切なことは、隣人や他人に向かって開かれたやり方でなければならないということです。パウロはテモテへの手紙一6章17〜18節で勧めています。「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみせず、喜んで分け与えるように。」
不正な管理人は、この地上に自分を迎え入れてくれる家を準備するために主人の富を使いましたが、「光の子ら」は永遠の家を天に備えるために、神から与えられている富を用いるべきなのです。つまり隣人を愛して、そのために富を用いる者が永遠の住まいに迎えられるのだとイエスは教えておられるのです。
ここでは神を信じている者を「光の子ら」と呼んでいますが、「光の子ら」は空を飛んでいるわけではありません。この地上に生きて学校や家庭や職場や地域で、この世のいろんな生活場面で「この世の子ら」と共に生きています。この世では「光の子ら」の考え方が通用しない時もあります。この世の習慣やルールがあり、妥協を余儀なくされることもあります。そのことを考えるなら、イエスがここで「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」と言われた言葉の奥に隠れているお心が想像できます。イエスは決してこの管理人がとった行為を勧めておられるわけではありませんが、神を信じない「この世の子ら」がここまで賢く行動する態度から、神を信じる「光の子ら」に賢い生き方を学びなさいということではないでしょうか。
この管理人は不正にまみれた富で、自分を助けてくれる人、つまり友達を作りました。では友人こそ助けになると考えていたのでしょうか。確かに彼を助けたのは友となった負債者かもしれません。しかし、私たちを永遠の住まいに迎えてくださるお方は神お一人です。その神は私たちを友と呼んでいてくださいます。その神の愛を信じ、神から委ねられている富や様々な才能を神に喜んでいただけるように用いて生活することが勧められているのではないでしょうか。
「(10〜12節)ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。」
ここで言われている「小さな事」とは何を意味しているのでしょうか。前後の関係からこれは「不正にまみれた富」つまり金銭のことです。金銭の問題は永遠の問題と比べれば「小さな事」であり、「永久に所有できないもの」「神から借りた一時的な地上のもの」「他人のもの」にすぎません。しかしわたしたちはこれを賢く用いなければならないのです。神はこのような「小さな事」に忠実な人に「大きな事」「本当に価値あるもの」を与えられるというのです。この「本当に価値あるもの」とは永遠の命のことです。富の問題が永遠の命の問題につながることを教えているのです。なぜなら、富は神が私たちに管理を委ねられたものであって、富をどう扱うかは非常に信仰的な課題だからです。金銭という卑近な事柄によって、私たちの信仰が問われているのです。ですから「小さな事」であっても大変大切な課題です。そして富は神から私たちに託されているもの、いわば預かりものですから、それ自体が神のようになって私たちの生活を支配するようであってはいけないのです。
人類全体に与えられている地球という大きな物から、人間一人ひとりに与えられている日常的な小さな物に至るまで、私たちは神から与えられているすべての物に対して謙遜な態度を持ち、忠実な良い管理者でありたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)