詩編113編1〜9節
今朝は「ハレルヤ詩編」と呼ばれている113〜118編の中の一編から主のお言葉を聞いていきたいと思います。この詩の初めと終わりには「ハレルヤ」という言葉が付けられています。原語のヘブライ語では「ハレル」が誉めたたえよという意味、「ヤ(ッハ)」はヤハウェ、主という意味ですので、「ハレルヤ」というのは、「主を誉めたたえよ、主を賛美せよ」と訳されていて、神の素晴らしさを歌っています。
この詩編は、イスラエルでは祭り、特に過越しの祭りの時に歌われていました。イエスが最後の晩餐の席で、弟子たちと過越しの食事をなさった時も、その始めにこの詩編113編が歌われたであろうと考えられています。113〜114編は過越しの食事の前に、115〜118編は食事の後で歌われたそうですので、マルコによる福音書14章26節に「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。」とあるのは、おそらく115〜118編であろうと言われています。
「(1節)ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ 主の御名を賛美せよ。」ここにある「主の僕ら」とは誰のことを指しているのでしょうか。ここではたぶん神殿の聖歌隊、あるいはそこに集まっている会衆に向かって呼びかけていたのではないかと想像できます。主の僕というのは主に仕える者、主の信頼を受けて働く者のことです。そして主に仕える者というのはつまり主を礼拝している者、主を信じる私たちのことでもあります。詩人は私たち、主を信じて生きる者に向かって主なる神への賛美を促しているのです。
今は新型コロナウイルス感染防止のために全員マスクをしていますし、大きな声を出して賛美することは控えるように言われていますので、堂々と礼拝での讃美歌を歌えないという悲しい状態ですが、心の中では大きな声で心から私たちの信じる素晴らしい神を賛美したいと思います。「賛美は心の直き者にふさわしい」と言われ、何より「神は私たちの賛美をまとっておられるお方」なのです。そしてその賛美は「(2節)今よりとこしえに」続いていきます。聖書で言う「とこしえ」(永遠)という言葉は時間を貫いているものです。現在から遠い先にある未来に至るまで、人間の歴史的時間が続く限り「ハレルヤ」と賛美せよと詩人は勧めているのです。
そしてそのような永遠という時間の連続だけではなく、さらに詩人は、全世界の宇宙空間全体にわたって主のみ名を誉めたたえよと勧めています。「(3節)日の昇るところから日の沈むところまで 主の御名が賛美されるように。」当時の人にとっては、太陽が昇ってくる東から太陽が沈んでいく西の方までが全世界であり全宇宙でした。ですから、「ハレルヤ」と誉めたたえられる神は、永遠に全世界の神なのです。
「(4節)主はすべての国を超えて高くいまし 主の栄光は天を超えて輝く。」ここには神の高さが歌われています。神がすべてを超越したお方であることを高さという次元で表現しているのです。「(5節)主に並ぶものがあろうか」この世の誰一人として神と同じような高い所に座す人はいません。
また「(5〜6節)主は御座を高く置き、なお、低く下って天と地を御覧になる。」神はすべてに超越し、すべての民の上に高くその御座を据えておられるお方ですが、ただそこに座しておられるだけではありません。「なお、低く下って天と地を御覧になる。」ご自身の民をご覧になるために身を低くして地にも下って来られるお方なのです。
詩編36編7節に「恵みの御業は神の山々のよう、あなたの裁きは大いなる深淵。」というように、山はあくまで高く(高い所はあくまで高く)、淵はあくまで深い(低い所はあくまで低い)ことが際立つ表現がありますが、天よりも高い所に座しておられるお方が、低く下って天と地を御覧になり、「(7節)弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げられる。」というのは驚くべきことです。天から下って来られて地を御覧になるだけでなく、塵の中にはいつくばっている者たちをご覧になられ、弱い者を塵の中から助け起こされ、あるいは芥の中にまみれている人間を引き上げてくださる。塵芥に汚れている人間を引き上げてくださり清めてくださるというのです。それはつまり罪の塵にまみれている私たちを引き上げて救ってくださり、神を信じる者としてくださるということなのです。
その信仰を歌っているのがイザヤ書57章15節です。「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」
自分が塵の中にあること、芥に汚れていることに気づく事こそが、神の前にへりくだること、そして真の命をいただくことではないでしょうか。
創世記1章1節には「初めに、神は天地を創造された。」とあります。ですから天と地を造られたお方は、天よりも高い所におられるお方です。そのお方が塵芥の中にある人間世界、低さの極みに降りて来られるのだといいます。至高の神がその高みから地上世界を見下ろしているだけでなく、そこにいる小さな貧しい者を顧みて救おうと、塵芥の中に降りて来られるということが描かれているのです。ここには対立している高さと低さが一直線に結びついています。神はその間を自由に行き来することがおできになるのです。まるでヤコブの夢に現れた天の梯子の様です。この高さと低さが一つになる所におられるお方こそが生ける神です。このように聖書が示す神は、ご自身の位を捨てて低きに下る神なのです。
このことを語っているのが初代教会の讃美歌であったと言われているフィリピの信徒への手紙2章6〜8節の御言葉です。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」天よりも高い所におられたお方、聖さの極みにあられるお方が、私たち人間社会のどうにもならないドロドロした苦しみと不調和の闇の中にご自身を投げ入れてくださり、最も低くなってくださったのです。ですから、そのみ名はとこしえに誉めたたえられるのです。
神は人知を超えた隔絶したお方であります。しかし低きにいる人間を深く憐れまれ、顧みていてくださる生きた心を持っておられるお方です。ここの7節に書かれている塵や芥という表現はヨブ記の中に出てくる表現にも通じています。ヨブ記2章8節「ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。」一夜にして家族や財産をすべて奪われただけでなく、自身もひどい皮膚病にかかったヨブは共同体から締め出され、町の外で塵や泥や灰の中に座っていたのです。そのように、共同体の中にある民として扱われず、排除され、孤独の中にいる者を「(8節)自由な人々の列に 民の自由な人々の列に返してくださる。」お方こそが、聖書が語る真実の神です。
有名なイザヤ書40章4節に「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」という言葉がありますが、神が望まれるのは不平等な社会ではなく、すべての人が公平に処遇される世界です。この8節で語られていることも同じような思想の下にあります。新型コロナウイルスのために今社会は大きく分断して、人々の格差が拡大していますが、今こそこの御言葉が真実であることが示されますようにと願います。
さらに、ここには古くから社会に根付いていた因習を打ち破る思想があります。「(9節)子のない女を家に返し、子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」日本には明治頃まで「三年子なきは去る」というような非情な考え方があり、夫である者やその女性を嫁として迎えた家は、子を産まない女性を堂々と離婚することができた時代がありました。しかしそのような不幸な女性であっても、主の守りの中でしっかりした生き方ができるように支えてくださり、喜びさえも与えると約束されています。ここには主の福音があります。まさに「ハレルヤ」です。
「子のない女」とあるのは「子を産まない女」であり、生きている意味がないとレッテルを貼られた女性のことです。その女性に子を持つ母の喜びを与えてくださる、つまり家族を持つ喜びを与えてくださるというのです。ここには持たない者が持てる者のようになる奇跡があります。神の恵みは人間の法則やルールを超えているのです。孤独で悲惨な生涯を送らなければならなかった女性が、その孤独な人生から救われて喜びが与えられるのだというのです。天より高い栄光を持つお方が、この地上の小さな孤独な一人の女性を顧みていてくださるのです。私たちはここにこの世の小さな命の一人ひとりに配慮される神のお姿とその心を見ることができます。弱い者や乏しい者、子のない女など、この世の中で生きている価値が無いと言われている者に目を留めてくださるお方こそが、ここで讃えられている神です。
今、新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴って、感染され亡くなられた方のご家族の悲しさはもとより、感染された方やその御家族はとても辛い境遇に置かれています。その治療に携わっておられる医師や看護師さんなど、医療関係のお仕事に従事されている方々の御苦労は並大抵のことではありません。そのお働きを心から感謝したいと思います。この詩編が誉めたたえている神は、きっとそれらの方々に寄り添い、慰め、励ましていてくださると信じています。
また、私たちは今、超高齢化の時代を生きています。今までは4人に一人と言われていたのが、3人に一人が高齢者という人口構成の世の中になってきました。誰もが歳を重ねていくと、若い頃のように自由に速く動くことも、新しいことを覚えることもだんだん大変になり、今までできたことができなくなります。それは言わば自分の肉体から少しずつ力がそぎ落とされていく過程です。そして誰かの介助を受けなくては生きていけなくなった時、私たちはやっと気づかされるのです。心や身体に障がいや弱さをもって生きておられる方の悲しさと苦しさがわかってくるのです。人間がマイナスの要因を背負ってこの世を生きていく時、また弱さの中で人生の終わりを生きていく時、傍らに共にいてくださるお方がこの詩編で賛美されている神、私たちを救ってくださる神なのです。
新型コロナウイルスのために苦しい忍耐の時を過ごしていますが、どんな時もこの素晴らしい神に支えられ、守られていることを感謝して、希望を失わずに生きてまいりたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)