ルカによる福音書2章41〜52節
コロナ禍による緊急事態宣言期間が2月7日から、さらに1か月延期されることとなりました。今しばらく、試練の時が続きますが、どうかわたしたちも、そしてすべての人々の緊張が切れないようにしっかり対応していけますように、そして、一日も早くコロナ禍から解放されますようにと願いつつ、祈るばかりです。
では、ルカによる福音書2章41節~52節から、少年期イエスのみ言葉を中心に「恵みのみ言葉」をお届けいたします。因みに、御子イエスさまについての幼児期から少年期までのエピソードを伝えております福音書は、このルカ福音書のみです。それは本書冒頭に記されておりますように、“順序正しく書き記す”ということに加えて、イエスさまの幼児期から少年期への成長の中に、旧約の時代から新しい時代への大きな移り変わりの出来事が確かにあったことと、さらにこのことが伝えるメッセージを読者が読み取ってほしい、との願いが込められています。
なお今回の聖書箇所、ルカ福音書2章41節~52節は、前の段落である22節~40節の内容も関連しますので、これを先に確認してから前に進みましょう。イエスが誕生後、律法の定めに従って“清めの期間”が終わり、エルサレムに上って神殿での奉献の儀式を終えた直後のことです。旧約の時代をしっかり生き抜いてきた二人の年長者、シメオンとアンナから、夫々、祝福の言葉を受けました。その中で特に、シメオンから母マリアに告げられた言葉には印象深いものがありました。
その内容とは、「①この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、②また、反対を受けるしるし(「しるし」とは反対者にとっての標的となる、という意味)として定められており、③さらに、母親自身も剣で心を刺し貫かれますーー多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」という非常にショッキングな内容の言葉でした。
以上は、旧約の時代から大きく時代が代わって、全く新しい時代を生き、そして、わたしたちを招いていてくださる、主イエスさまの姿であり、そこにいる両親の姿であり、また世の人々の姿でもあります。そして、先のシメオンの言葉は、いわばその指南の言葉です。母マリアは、これらのことを心に留めながら、ガリラヤのナザレに帰った。幼子イエスはたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれて成長していった、という内容でした。
早速、本日箇所に入っていきます。41節、42節「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。」とあります(出だしの「さて」は、足早に前の段落から本日箇所に移っていることを表しています)。
なお42節に「イエスが十二歳になったときにも、云々」とありますが、当時、男子の十二歳は、律法の掟にしたがって、もう大人扱いされる年齢だった、と言われます。
祭りは、世界のどの民族にとっても、楽しい年中行事の一つです。わたくしも幼少時代に育った長野での祭りを思い出します。なお子どもにとっての楽しみは、出店での買い物でもあります。
聖書に戻りまして、43節「祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。」とあります。因みに、ガリラヤのナザレからエルサレムまでは、距離にして100キロ強ありますが、その間の旅は、とても一日では行き来できません。最短でも二日はかかったことでしょう。そして足の速さに応じて、女性、男性がそれぞれ別のグループに分かれて旅をすることもあったようです。
44節~45節「イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。」とあります。初め両親は夫々、イエスがほかのグループの中に入っているものと思い込んで旅を続け、一日分の道のりを進んでしまい、多分そこで宿を取ろうとしたのでしょうか。両親は、イエスがどこにもいないことに気づき、慌てふためいて途中出会うグループの中をくまなく捜しながら、エルサレムまで引き返したのです。
そして46節、「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。」とあります。“三日の後”とありますのは、遡って帰路についたその時から数えて三日目(中一日置いて)ということです。なお、この“三日目”という記述については、イエスさまが公生涯の最後の十字架の死から、“三日目”に復活されたことを彷彿させます。
次は、その三日目に、神殿で少年イエスが発見されたときのイエスさまの立ち振る舞いです。両親の心配を他所に、“ここが僕の居場所”とばかり、少年イエスは群れの真っただ中に座って、学者たちの話を聞いたり、また質問をしたりしていた、とあります。なお当時は、祭りの際には神殿境内で学者たちが集まり、律法の講義などをしていたそうです。
そしてその時の様子が以下に記されています。47節、48節a「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。──」とあります。因みにこの部分はほかの聖書(岩波版聖書)では「聞いている人は、正気を失うほど驚いていた」とあります。
では、両親はそのとき何に驚いたのでしょうか?、そこにいた他の人々のように、“少年イエスの賢さ、立ち振る舞い”に驚いたのではありません。自分たちと一緒に帰るのでもなく、独りで別行動をとって、その挙句大きな心配をかけて、と“怒り心頭”の驚きだったことでしょう。
考えてみますと、子どもは親の思いとは別に、どんどん成長していくものです。そして時には、その子の成長ぶりに親は驚かされたりすることがままあります。そんなときは、子どもの成長を喜びながら、自分の考え方を変え、子どもの成長についていくことが大事だなと思わされます。しかしその時、母マリアの口から出た言葉が48節b、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」でした。十二歳になった少年イエスの成長ぶりを喜び、そしてそれを受け入れるのではなく、“自分中心”から出た言葉です。
更にもう少し、このとき母がイエスに告げた言葉の内容に注目しましょう。「お父さんもわたしも心配して」の“お父さん”の原語は、単に「お父さん」ではなく、「あなたのお父さん」とあることです。母マリアの気持としては、心配していたのは自分だけではなく、“あなたのお父さん”も心配していたのよ、ということを強調したかったのです。そして、図らずも次に少年イエスから返ってきた言葉は、“お父さん”を巡って、別の言葉が返ってきたのです。
49節「するとイエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを。知らなかったのですか。』」でした。“わたしが自分の父の家にいる”とは、勿論、父なる神の家、すなわち神殿の中にいる、ということで、信仰的に考えれば直ぐわかります。さらに前述のとおり、子どもは親が気づかないうちにどんどん成長していくもの、十二歳になった少年イエスさまも、もうそこまで成長していたのです。そしてさらにイエスさまは、ユーモアを働かせ、先の母の言葉、「あなたのお父さん」を受けて、「自分は今まで父の家にいた」と言ったかもしれません。しかし残念ながら、両親はその、イエスのユーモアさえ汲み取る余裕は全くありませんで。「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」(50節)と、素っ気ない言葉のみが記されています。
イエスさまから返ってきたこの言葉に、両親はさぞ大きなショックを受けたことでしょう。特に、父親ヨセフの心境を察しますと、余り有るものを感じさせられます。本日の冒頭のところでも、前回の説教箇所の概略を見て参りましたが、シメオンが母マリアに告げた言葉の中に、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれますー多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」とありましたことが、先に少年イエスが母に告げたその言葉、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」によって、現実のものとなりました。
一方、母マリア自身のことを振り返ってみますと、天使ガブリエルから「あなたは身ごもって男の子を産む」(1章31節)と告げられ、さらに念を押すように「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む、――生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(1章35節)と言われた直後に、マリアもこれに応えて「わたしは主のはしためです。この身に成りますように」(1章38節)と信仰的な言葉で答えておりました。一方、父ヨセフも、婚約者マリアの身に起こった出来ごとを、マリアから聞き及んでいたでしょう。そしてこれらの出来事から十二年経ったとは言え、本日箇所50節には「しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」とだけあります。
では本日箇所の締め括り51節以降です「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。」とあります。
十二歳になった少年イエスが、過越祭のエルサレムにおいて両親に示されたことは、“御父なる神とその御子イエスの関係に立っての大きな成長ぶり”でした。母マリアは、「これらのことをすべてを心に納めながら」今まで通りのナザレの生活へと戻って行ったのです。その後は52節、「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人に愛された。」とありますように、さらに成長されて、やがて公生涯の時を迎える時がくるのです。
今日、わたしたちの、教会、家庭、そして社会においては、わたしたちが気が付かないうちに、周りが、大きな変化や進歩、そして成長を遂げていることがあります。わたしたちにとって必要なことは、まず周りのことに対して、しっかり目を向けていくこと、そしてその中で、何が、神の御心であり、何がそうでないかを、しっかり見極めたうえで、対応していくことが大切だと思わされております。
(牧師 永田邦夫)