魂をゆだねる

ペトロの手紙一4章12〜19節

 新共同訳聖書ではこの段落のタイトルは「キリスト者として苦しみを受ける」となっています。お読みした4章12節から5章の終わり辺りまでは、キリスト者への迫害が感じられるような言葉が連なっているのです。今、私たちの社会全体を覆っているのは新型コロナウイルスという災いで、これは今世界に生きているすべての人間に共通の災害です。しかしこの個所では、「愛する人たち」と呼びかけていますから、この手紙の宛先(1章1節参照:ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地にいるキリスト者)の上に何らかの試練が及んでいたことがわかります。

「(12節)愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」ここには「火のような試練」という言葉が出てきますが、原語からは「火として迫ってくる試練」とも訳すことができ、文字通り火の試練なのです。当時のローマ帝国は、キリスト教徒を迫害していました。そして実際に火炎で迫ったのです。歴史に残されている記録を読みますと、皇帝ネロの時代には、キリストを信じる者を捕らえ、一人ひとりを柱に括り付け、そこに油を注いでたいまつの代わりにしたと言われています。あるいは次の5章8節に「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」と書かれていますが、捕らえたキリスト信者を、闘技場とも競技場とも言われる巨大な円形劇場に入れて、そこにお腹を空かせたライオンを放って、彼ら信者を食べさせたと言われているのです。こういうことは明らかに歴史的な事実として残っています。

 そのような時代に生きていた初代教会の信者たちは、迫害があることを知っていたでしょうし、そのような恐ろしい迫害がいつ自分の身に及ぶかと恐れていたと思います。そのような厳しい状況の中にあるキリスト者に対して、ペトロが、主を信じて生きる者のあり方、心構えを説いているのがこの箇所です。「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」これは、自分にそのようなことが起こるとは思えないとか、そのようなことは自分とは関係がないと思うな、つまり、もしも自分が苦しい目に遭っても驚くな、ということです。キリストを信じる者にとっては、苦しみは必然的についてくるものであること、キリストを信じるということは、キリストの故に苦しむことをも含むのだということをわきまえ知っておきなさいということです。だから「火のような試練」という言葉が出てくるのです。つまり火で精錬されるということで、火には本物か偽物かを試す力があるからです。

 このみ言葉は、遠い昔の話であり過ぎ去った歴史であって、今を生きる私たちキリスト者にはあまり関係がない話だと思うかもしれませんが、そうではありません。確かに今私たちには信仰が責められたり迫害されたりすることはないかもしれません。けれども二千年に及ぶ世界の歴史を見渡してみると、キリストを信じる教会が最も激しく迫害されたのは、近世に入ってからなのです。もちろん日本ではキリスト教が禁教とされていた頃のキリシタン迫害の歴史がありますが、日本が戦争していた頃の記録を見ますと、教会は大きな苦しみを背負っていました。神を信じることによって拷問を受けた牧師や信者がたくさんおられたのです。

 この当時の小アジアでも、ただキリストへの信仰を持っているがゆえに迫害を受けるということが起こっていたのです。ペトロはこう語ります。「(16節) しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。」自分が何か悪いことをしたり、犯した罪を償うために苦しむというのではなく、キリストを信じる者であるというだけの理由で、社会的な差別や疎外、屈辱を受けるのなら、恥ずかしいなどと思ってはならない、むしろそのことを、つまり神の名の故に辱められたことを喜び、神を崇めなさいとペトロは勧めているのです。

 ここに「キリスト者」という言葉が出てきます。これは英語でクリスチャンです。面白いことに口語訳聖書でもクリスチャンとなっています。この「キリスト者」「クリスチャン」という呼び方は、信者が自分たちのことをそう呼んだのではありません。キリストに反対している人たちが、アンティオキアで、キリストを信じる者に付けた軽蔑の意味のあだ名、ニックネームです。聖書ではこの箇所と、使徒言行録の11章26節、26章28節の三カ所だけに出てきます。現在はクリスチャンと言えば聞こえのよい響きがしますが、本来は「キリスト野郎」とでもいうのでしょうか、大変侮辱的、差別的、屈辱的な呼び方でありました。当時はそういうレッテルを貼ってキリストを信じる者の存在や生活を貶め、蔑んでいたのです。

 事実、この世に在ってキリスト者として生きていく上では、苦しみが伴います。私たちの国籍は天に在りますから、私たちはこの世に在りながら天の価値観を持って生きているからです。以前に4章2節で学びましたが、真の神を知らない人達が作っているこの社会では、神の御心に従って生きようとすると、この人はおかしい考え方をする人だとか、自分たちの考え方とは違うと言われたり、何かと苦労することがあるのです。時には周りの人たちから浮き上がって見えることもあるかもしれません。しかし、そのような冷たい視線を受けたり、差別されたり、愚か者扱いを受けたとしても、「決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。」と、神を信じる者の誇りをもって生きていくようにペトロは勧めているのです。イエスも「義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(マタイによる福音書5章10〜12節)と語られました。

 ペトロも同じように語っています。「(13節) むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」ここには苦難の中での喜びという逆説があります。キリスト者は、イエスが受けられた悲惨で惨めな苦難の十字架こそが神の栄光の十字架であるという逆説の世界に生きる者だからです。しかし、どうして苦しみの中にあって人は喜ぶことができるのでしょうか。人がキリストの故に苦しい目に遭ってもそれを喜ぶことができるのは、キリストの栄光が現れる時、つまりキリストの再臨の時には、苦難から解放され、希望と大いなる喜びに満ちあふれることを信じているからです。またキリストと共にいるならば、今のこの時にもその喜びがあることを知っているからです。終わりの時の栄光が今ここで先取りされるのです。苦しみの中にあっても喜ぶ生活を通して栄光の時がもう始まっているのです。それをさらに言い換えるなら、キリスト者の日々の生活において、神の裁きに耐え得るかどうかが問われているとも言えるのです。

 それは「(14節)あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」神の霊がその身に留まってくださるが故にむしろ苦難は幸いなのだとペトロは説いています。キリストの名のゆえに非難され苦しみに遭っている時、私たちには神の霊という助け主が共にいてくださるのです。ですからキリストの名の故に苦しむならば、陶器が火で練られて強く輝いて完成するように、キリスト者のうちに聖い変化が起こってくるのです。それは苦しみの中での幸いと言えると思います。

 キリストを信じる者として生きる時には苦難が伴うこと、しかし、苦難と同時に喜びもまた与えられるのだとペトロは語っていますが、人間は誰しも苦しみを避けたいと願います。苦しみや困難を避けるためにはどうしたら良いでしょうか。人と関わらず、じっと動かずにいるなら問題は起こりません。つまり何もしないで一人でいた方が良いことになってしまいます。しかし、神の霊は自由の霊です。その自由を神の愛の働きのためにこそ用いるべきです。「(15節) あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。」このように神からいただいた自由を悪をなすことに使用してはならないのです。

 ここに「他人に干渉する者」という言葉が出てきますが、これは他のどこにもない珍しい言葉なので、もしかしたら著者ペトロが作った言葉かもしれないと言われています。自分に何の関係ない事柄を見て、あるいはそこに立ち入って、これを自分のものにしてしまおうとする支配欲、つまり他人の物を管理、監督するという意味です。他人の事件に干渉して自分の基準に従わせようとする自己主張欲です。時々こういう方がおられますが、人が他人のものを欲しがる時、そこに諸悪の根源があります。キリスト者の自由は、自分の生きがいではなく神のみ旨がなることを求める生活です。そのような生活を神は求めておられるのです。

 神を信じたキリスト者の共同体である教会、その教会が今受けている苦難こそが終末が始まる序曲だとペトロは言います。「(17節)今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。」ここには、裁きは神の家から始まると書かれていますが、その思想は旧約聖書から出ています。初代教会もそれを受け継ぎ、キリスト者ゆえの苦しみを語るのです。

 ところで、裁きが神に選ばれた者から始まるとするのならば、教会を迫害している者たちはいったいどうなるのでしょうか。「(18節)『正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか』と言われているとおりです。」ここには裁きが神の民としての教会から始まることを、箴言11章31節を引用して語っています。最後の裁きの時には、キリストを救い主と信じる人々の群れもまた神の前に責任を問われるのです。しかしキリストの名のゆえに直面している試練を、自分たちの信仰を精錬して聖めるもの、また神の摂理として受け止めるなら、耐える力もまた与えられるのです。「(19節)だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」ペトロは苦しみを受け止めていく秘訣として、善い行いを成し、真実な創造主に自分の魂をゆだねることを勧めます。それが迷わずに心安らかに困難な状況を切り抜けていくことができる心構えであると説いているのです。

 魂は神から与えられたものであって、神のものです。魂は肉体と共に滅びるものではなく、神と人とを結合させているものです。ですから「魂をゆだねる」ということは、その人の内面を含めた全存在を神に信頼してまかせなさいということではないでしょうか。たとえ日常的、継続的な苦難があったとしても、それが神の意思であるならば耐えられない試練はありません。またそのように考え受け止めるならば、その状況に対する不満や悲しみをも克服することができます。

 この手紙が繰り返し語ってきたテーマは、神への信頼をもって生きるようにということです。「愛する人たち」という慰めに満ちた呼びかけから始まって、最後に「自分の魂を神にゆだねなさい」と勧めるペトロの言葉は、自分のすべてを主に委ねて生きる者の確信の伴った力強い信仰の言葉です。「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます。」(ルカによる福音書23章46節)と言って息を引き取られた十字架のイエスを思い起こします。コロナ禍でいつ何が起こるかわからない日々を過ごしていますが、自分の魂を神にゆだねて生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)