キリストの復活

コリントの信徒への手紙一 15章1〜11節

イースターの喜びを感謝いたします。イースターは、キリストが苦難と死を過ぎ越して復活されたことを記念してお祝いする喜びの日です。キリスト教の初期にはキリストが復活された週の初めの日、つまり毎週毎週日曜日の度にキリストの死と復活を覚えて礼拝を捧げていたのですが、2〜3世紀頃に通常の礼拝とは別に、ユダヤ教の過ぎ越し祭の頃に一年に一度、盛大に祝われるようになりました。ところが当時は日付がばらばらであったようで、325年のニカイア公会議で話し合い、春分後の最初の満月の次の日曜日をイースターとするということが定着していったようです。

 先日ある店に行きましたら、「イースターってなあに?」という大きな看板に、ウサギやきれいなたまごの絵が描いてあって、その説明が書かれていました。クリスマスと並んでイースターというキリスト教の行事も今では大きな商業活動のイベントになっているのです。どういう方法であろうと、キリストの復活が多くの人に知っていただけるのは感謝なことです。キリストの復活ということが一人でも多くの人の心に何らかの興味や関心を呼び起こし、真の神を知る機会となってほしいと願っております。

「(3節)最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」
ここで、パウロが「最も大切なこと」と言っているのは、キリストの復活のことです。私たちは毎年イースター礼拝を捧げ、キリストの復活を記念してお祝いしますが、どうも何か人ごとのように受け止めてはいないでしょうか。この出来事を本当に真剣に受け止めるなら、私たちはもっと力強く喜びをもって生きていけるはずなのです。全人類にとって、また私たち一人ひとりにとっても「最も大切なこと」であるこの福音をしっかり受け止めて、どうか自分のものにして生きていっていただきたいと願っています。

 まずここには、キリスト・イエスが復活された時の様子が順を追って淡々と書かれています。「(3〜8節)すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」ここでパウロは、キリストの復活が「聖書に書いてあるとおり」に展開していると証言しています。ここでいう聖書とはもちろん旧約聖書で、イザヤ書53章やホセア書6章の預言の成就だと考えられています。

 また、復活のイエスに出会った人々が今なお生き残っているという証言は、大変現実的です。世界で一番最初のイースター、つまりよみがえられたイエスがはじめて現れた時、弟子たちの驚きというのは尋常ではありませんでした。ヨハネによる福音書の20章を読みますと、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、エルサレムの、ある一軒の家の一部屋に集まり、戸に鍵をかけて息をひそめていたのです。そこに十字架で死んでお墓に葬られたはずのイエスが入って来られて彼らの真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言って、手とわき腹をお見せになったというのです。弟子たちはどんなにびっくりしたことでしょうか。

 私が子どもの頃のことですが、新聞には尋ね人の欄があり、ラジオでもこれこれこういう方をさがしています、お心当たりの方はどこそこまでお知らせください、というアナウンスが流れていました。今では時代も変わりましたし個人情報の問題もあり、いつの間にかそういう報道はなくなりました。しかし人間社会では、故郷を捨てて何十年も音沙汰がなくなっていた人がひょっこり現れたりすると、人々はもうずっと前にどこかで死んでしまったのだろうと思っていたわけですから、とても驚きます。しかし、こういう方の場合は、人々はただ彼は死んでしまったんだろうと思っていただけですから、人知れずにどこかでひっそりと生きていたのでしょう。しかし彼もまたいつかは死ぬべき人間に変わりはありません。

 ところが、キリスト・イエスの場合は、まったく事情が違うのです。イエスは確かに衆人環視の中で十字架につけられ、死なれ、そして墓に葬られたのです。すなわち命が失われ、本当に死なれたのです。しかしそれにもかかわらず、イエスは墓から出て来られ、今ここにおられる。それを弟子たちは見たのです。傷のある手とわき腹を見たのです。「弟子たちは主を見て喜んだ。」(ヨハネ20:20)と書かれています。これがイースターの喜びなのです。この感動は、死んだと思っていた人がひょっこり現れたのを見て、その人が生きていたのを知って「良かったな」と思うのとは全く違う種類の感動です。このイースターの出来事は、人間が今まで持っていた理解力を超えた全く新しい出来事であり、人間の歴史の中でただ一度だけ起きた出来事です。そしてこの出来事を通して、それまでの人間の歴史とは違った世界が開かれていったのです。

「死人が復活する」それがどのようにして起こったのかは誰も知りません。復活についての唯一の資料である新約聖書を読んでも、四つの福音書にはそれぞれの書き方でイエスの復活の出来事が書かれていますが、イエスがよみがえられたということについては何一つ解明されていません。それは、イエスの復活ということが、人間の知恵や言葉では説明できない次元のものであるということかも知れません。つまりイエスの復活という出来事は、人間の理解力を超えたところで起きた出来事、つまり神の業、神の力で起きた出来事だと言うことができるのです。

 しかしこういう風に言いますと、神様さえも作り出してしまう人間中心の今の社会では、イエスが復活したなどというのは愚かな幻覚かまぼろしの類だと笑う人が出てきます。実際、パウロがギリシアのアテネで説教した時には、おそらく初めは新しい教えだと感心して聞いていた人たちも、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについてはいずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。」(使徒言行録17:32)のです。ところが実際に復活のイエスに出会った弟子たちは、疑うどころかただこれを受け止めたのです。そしてたとえようもない喜びと自由を与えられたのです。さらには自分たちは主イエスの復活の証人であると言って堅く立ち上がったのです。これがキリスト教信仰の原点となりました。これを抜きにしてはキリスト教の教会は成立しませんでした。

 パウロは「(3節)最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」と言って、パウロ自身も「受けた」ことなのだと語っています。パウロはユダヤ教の学問に通じ、大変頭の良い人だったと思われますが、彼はこの真理は自分の知恵で到達したものではない、神様の方から迫って来たもの、受けたもの、与えられたものだと言っているのです。そしてこれが神の福音の最も大事なことなのだというのです。

 3節からの内容を繰り返しますが、大事な点が四つあります。一つはキリスト・イエスが私たちの罪のために死んだこと、二つ目は葬られたこと、三つめは三日目に復活したこと、そして四つ目はよみがえったイエスが弟子たちに現れたことです。二千年の間、教会が人々に宣べ伝えてきた福音の中身はこの事に尽きるのです。この15章は58節まであって長いですから、本日は最初のところだけをお読みしましたが、キリスト教信仰の最も基本となる問題について、パウロが言葉の限りを尽くして論じ説明しているところです。それらをまとめて言うならば、キリストの復活ということは、私たちの罪のために死んだイエスが、今私たちと共に生きておられるということなのです。これは神ご自身の現れ、自己啓示です。そしてこれは神のなさった力ある御業であり、イースターの出来事なのです。

 さらにパウロは続けて言います。「(8〜9節)そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」よみがえりのイエスは、月足らずで生まれた子どものような自分にも現れてくださったのだとパウロは謙虚に語ります。神の教会を迫害して使徒と呼ばれる値打ちの無い自分であるが、そのような自分が今あるのはただ神の恵みによるのだと感謝の言葉を述べています。「(10節)神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」

 ここを読みますと、私はいつも、何かの会合の席で誰かお祝いされる人が、集まった人たちからお祝いの言葉をいただいてそれに応えて謝辞を述べる時、「私が今日ありますのはひとえに皆様方のおかげでございまして…。」というような決まり文句、申し訳ないですがそれほど真剣には思っていないのにそう述べている場面を思います。ところが、パウロがここで「 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」と語っているのは、心の底からそう思い、そう語らざるを得ないパウロの本心です。「働いたのは、実はわたしではなくわたしと共にある神の恵みなのです。」とも語り、パウロの働きは、全く神の一方的な恵みによるのだという信仰告白でもあります。

 しかし、もしキリストの復活を否定し、それが無かったとするならば、どうなるでしょうか。「(14節)キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」パウロはそうはっきりと語ります。すなわち、福音宣教という教会の働きは全く無駄なことであるし、私たちの信仰というのもあり得ないことになってしまうと言うのです。これは言い換えるなら、キリスト教やキリスト教会の歴史、クリスチャンという神を信じる者、それらはただキリストの復活という事実によって存在するものであるということです。私たち人間の罪のために死んだイエスが、神の全能の力で、死に勝利し、今信じる者と共に生きておられる、そのことによって教会は世にあるのだということなのです。

 今地球上の人間社会は、新型コロナウイルスやその変異ウイルスの脅威の下で危機的な状況にあります。大げさに言うなら、地球全体は死の危機にあると言っても良いかもしれません。今、かろうじて核兵器による人類破滅の危機からは守られ、均衡を保っていますが、地球の温暖化、気候変動、環境汚染等々いつ何が起きてもおかしくないくらい地球環境や人間社会は大きくゆがんでいます。当たり前のように明日が来る、当たり前のように未来が来る時代はもはや過去のことになってしまいました。

 まさにそのような時代の中で、死に打ち勝たれたお方が、復活の力、神の創造の力を持って私たちのただ中にあり、この世界を支配して生きておられるのです。今こそ、その事実と真理を謙虚に受け止めて信じることが大切ではないでしょうか。私たちがキリストの復活を信じるということは、そういうことです。この危機的な世界のただ中で、罪と死に打ち勝ったお方が新しい創造の御業でこの世界を変えていく、そういう力がすでに始まっているということを信じることなのです。

 科学者たちがいろいろな統計を取って研究した結果、何千年か後には終わってしまうと言われている地球です。あらゆるところに人類の危機があります。私たちはそういう時代に生きています。しかし私たちの信仰は、目に見えるところに留まるものではありません。神が私たち人間社会に抱いておられる計画や、キリストの復活によって起こった教会の歴史が、どのように動いていくのかわかりませんが、御子をさえもこの世に送ってくださった神は、どんな時も私たち人間を愛し祝福していてくださいます。私たちはこの世にあっていろいろな悩みの中にありますが、日々新しい命に満たされ、生きる希望を与えられているのです。

 イースターの喜びは希望の喜びです。生きる望みが与えられているということです。キリストが復活されて今生きておられる、そして世の終わりまであなたがたと共にいると約束してくださったのです。このキリストが、新しい年度も私たちに先立って歩んでいてくださいます。感謝と喜びをもって主の後に従っていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)