漁師を弟子にする

ルカによる福音書 5章1節~11節

 緊急事態宣言の期限が5月末まで延期となり、さらには、新規追加も出されている状況の中で、医療逼迫が現実のものとなっています。今ほど、国民一人一人に何をなさなければならないか、何をしてはならないかが問われているときはありません。そして、人の命が何よりも大切にされなければならないときです。わたしたちキリスト者にとっては、教会での礼拝が守れないことの苦しみを共有しながら、家庭礼拝を起点にし、それぞれの生活の場へと遣わされています。後で振り返ったとき、この苦難が、喜びへと代えられていますように、確りと生き抜いて参りましょう。

 本日の説教題は、「漁師を弟子にする」で、どちらかと言いますと、イエスさまの視点での表題ですが、わたしたちの視点からは「漁師から弟子への転身」です。早速、聖書に目を通して参ります。1節「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」とあります。ここで“ゲネサレト”とはガリラヤ湖のことです。因みにこの名称は、ガリラヤ湖北西岸で、水が豊富で肥沃な土地の名前、ゲネサレトからとったものです。その湖畔にイエスさまが立っておられると、群衆が神の言葉を聞こうとして周りに押し寄せて来た、とあります。このときすでに、イエスさまの評判は人々に広く行きわたっていたのです。

 イエスさまは、直前の段落ではカファルナウムでの礼拝とこれに続く一連の出来事があり、ご自身について、ほかの町々、村々への福音の伝道の抱負を告げ知らせ、諸会堂で宣教されて来たのです。次の2節、3節は、本日箇所の中心テーマに入る前の出来事が記されています。
 イエスさまが湖畔に立っておられたとき、二そうの舟が岸にあるのを御覧になり、さらに漁師たちが、舟から上がって網を洗っていたのです。以下は想像ですが、そのときの弟子たちの姿は心なしか、“喜び”と言うよりも肩を落とした漁師たちの姿、そこからは“寂しさ”をイエスさまが感じ取っていたかもしれません。

 聖書の3節に、イエスさまは、シモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろして舟から群衆に教え始められた、とあります。いよいよ、4節以降の中心テーマに入っていきます。4節「話が終わったとき、シモンに『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。」。イエスさまは、漁の後、網を洗っているシモンたちの姿の中に、意気消沈している彼らの姿を見てとり、前夜の不漁のことも、すでに感じておられたことでしょう。そしてシモンに対し、「沖に漕ぎ出して、網を降ろし、漁をしなさい。」と命じられたのです。このご命令は、漁においては素人のイエスさまが、その道のプロのシモンに対する、漁の命令ですから、本来なら筋違いであることを百も承知の上でのご命令だったのです。

 序ながら、ガリラヤ湖では、夜に魚は群れを成して岸の方に来るのだそうで、漁師はそれに焦点を絞って漁をしたそうです。ところが、たった今シモンにお命じなったのは、“間昼間に、沖に漕ぎ出し、深みに網を降ろしてみなさい”でした。
この、イエスさまのご指示に対するシモンの応答が5節、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」でした。この応答の言葉には“自分たちは夜通し苦労をしたのに、また、そうお命じになるのですか”と、難色を示すような言葉は全く見られません。そうではなく、本当に素直に「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と答え、そして仲間たちと一緒に、沖に舟を出し、言われた通りに漁をしたのです。

 6節、7節「そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。」とあります。このときの漁師たちの姿、その様子を想像しますと、わたしたちまでほっとして、また楽しくなるような出来事でした。それは、漁師たちの前夜の経験があるのに、イエスさまのご命令に直ちに従って、その通りに行動を起こしたこと、さらには漁の結果などです。また一方、イエスさまのご命令には、すべてを御見通しであるイエスさまの威厳さを感じさせます。そしてまた、これらのどれを取っても、わたしたちに深く教えられるものを、感じとることができます。

 しかし、その結果は驚くことに、“単なる喜び”で終わることはありませんでした。喜びではなく、罪の告白と悔い改めの姿でした。8節「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った。」と、シモンの罪の告白があります。なお、このルカ福音書で、「シモン・ペトロ」とフルネームで示しされているのはここだけです。次の9節、10節a「とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。」と、シモン及びその仲間たちの名前をすべて挙げながら、その喜びから、罪の告白へと変わった、その様子を伝えています。

 ここでもう一度、シモンがイエスさまに告白した懺悔(ざんげ)の言葉に注目しましょう。
 預言者イザヤ(紀元前8世紀の南ユダ王国の預言者)が召命を受けた時のことです。イザヤが見た幻の中で、天の御座に座す、主なる神の周りに、セラフィム(神に仕える天使たち)が互いに呼び交わして「聖なる 聖なる 聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」と唱えていた。これにイザヤは応答して「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(イザヤ書6章3節、5節)と、天の神殿で、高らかに神の栄光を賛美するセラフィムの声を聞き、その後イザヤ自身が、自分の罪、民の罪深さに打ちのめされた、その様子を伝えております。

 ルカ書に戻りまして、8節に示されたごとく、シモンが自分の罪を告白したのは、イエスさまを前にしてとった、自分の言葉や行動に対しての罪告白ではありません。そうではなく、自分の中にある根源的な罪に気付いての懺悔の言葉なのです。自分は今まで“一端の漁師である”と自負しながら人生を歩んできた、そして、今朝またイエスさまにお会いし、イエスさまのお言葉を聞き、漁に出なさいとのお言葉に従って漁に出た、そしてその結果が、全く予想だにしなかった大漁であった。
 これらのことを、一つ一つを思い返したとき、辿り着いたのは、大漁についての喜びではなく、自分の心の中にある根源的な罪の自覚だったのです。そのとき一つ一つを思い返すと、「沖に漕ぎ出して網を降ろして見なさい」とのイエスさまのお言葉は、自分の心の内すべてを見透かした上でのイエスさまのお言葉だった、とシモンは悟ったのです。それがすでに見てきました「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(8節b)の罪告白の言葉となったのです。
そこに至るまでのイエスさまのお言葉の重み、そして、その中に見られたイエスさまの威厳さの中に、すべてをお造りになり、すべてを支配したもう創造主なる神の御姿を重ね見ていたのです。

 次に10節b「すると、イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』」とあります。この箇所を岩波版聖書では、「もう恐れるな。今から後、あなたは人間を生(い)け捕るだろう。」とあります。“人間を生け捕る”とは、「人間を生きているそのままで、他者(すなわち“神の”)の支配下に移す」、すなわち福音の伝道者になるということです。
 自分の罪深さ、そして汚れを自覚するあまり、「主よ、わたしから離れてください」心の内を吐露したシモンでした。しかし主イエスさまは、そのことをすべて、お赦しになったうえで、「安心しなさい、恐れることはありません、あなたはこれから福音の伝道者になるのです。」とのイエスさまのお言葉は、優しさ、そして威厳さに満ちた招きのお言葉だったのです。
 イエスさまの招きに対してのシモンほか彼らの応答が11節、「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」とあります。“すべてを捨てて”とは、いままでの生業(なりわい)を、親兄弟、家族、或いは雇人、等々すべてを捨てて、“人間をとる漁師”すなわち福音伝道者として、イエスに従っていった、ということです。
 使徒パウロの信仰告白が、フィリピ書3章8節、9節にあります。「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」とあります。では、本日箇所の要点を、聖書の記載順に従って確認しながら、さらにわたくしたちも、キリストの招きに応える者となって参りましょう。

•シモンはじめ漁師仲間は、前夜の不漁のため意気消沈している状態で、ゲネサレト湖畔で主イエスさまに出会いを果たしました。イエスさまから話を聞いたその直後のこと、
•「沖に漕ぎ出して網を降ろして漁をしなさい」とのイエスさまのご命令に、「お言葉ですから」と直ちに従って、その通りにしたところ、全く予想もしないような大漁となりました。
•漁師たちはなんと、大漁への喜びではなく、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」との罪告白、懺悔へと導かれました。
•すると主イエスさまは、「恐れることはない、いまから後、あなたは人間をとる漁師になる」と、召命のお言葉をお与えになりました。
•そこで彼らは「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」のです。

 以上、ルカによる福音書から、主イエスさまが、漁師のプロのシモン、およびシモンの仲間たちを、イエスさまの弟子、すなわち福音伝道者としてお招きになった出来ごとをメッセージとして聞き取って参りました。わたしたちも、いつもわたしたちを招いていてくださるイエスさまに従て立ち上がり、福音伝道の歩みに仕える者となって参りましょう。

〈お祈り〉
父なる神さま、主イエスさまが、シモン始め漁師を招いて弟子とされた、その経緯を示され感謝いたします。どうかわたくしたちにも、そのような一大決心へと招かれるチャンスをお与えください。そしてその決心に至る道、そしてそれを成し遂げる道をも、どうか整えてくださいますように、この祈りを、救い主イエスさまの御名により祈ります。アーメン

(牧師 永田邦夫)