生涯の日を数える

詩編90編1〜17節

 詩編は150の詩からなっていて、神への感謝や賛美、嘆願や祈りなど、その内容はいろいろです。その時に応じてふさわしい詩編が読まれますが、今朝の詩編90編は、キリスト教の葬儀の時によく読まれる箇所ではないでしょうか。私たち人間の命について、人生について、永遠について、大変美しく哲学的に書かれた詩だと思います。本日の礼拝で歌う新生讃美歌572番「神わが助けぞ」(教団讃美歌88番「過ぎにし昔も来たる代々も」)は、イギリス最高の讃美歌作者アイザック・ワッツがこの詩編90編をもとにして作ったものです。

 この詩編はモーセの作品とされるただ一つの詩編ですが、それはモーセが出エジプト記3章で、燃え尽きない柴の火の中から聖なる神の声を聞いたことから、全聖書を通して働く神が現われたことによるのでしょう。

 始めに、私たち人間がいったいどこにいたのかが語られます。「(1節)主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。」ここに「宿るところ」と訳してある箇所は、口語訳聖書でも文語訳聖書でも「すみか」と訳されています。つまり私たちがいつも住んでいるところであり住居という意味です。自分が住んでいる家のことを考えるとよくわかりますが、私たちのすみか(住まい)はどんなに狭くて散らかっていても、どこよりも安心してくつろげる場所であり、その人にとって最も落ち着ける場所だと思います。この詩人は主なる神がおられるところがそのような場所だと言っているのです。それは、私たち人間がもともと永遠なる神のもとにいたからなのです。

「(2節)山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、代々とこしえに、あなたは神。」神は天地が生まれる前から神でした。しかし、今、私たち人間はその永遠の神から離れてしまい、永遠という時間からも断ち切られて、制限された時間という歴史枠の中で生きるようになってしまいました。

 この後の3〜6節は、神の永遠に対比して、人のはかなさについて語っています。「(3節)あなたは人を塵に返し、『人の子よ。帰れ』と仰せになります。」ここには創世記3章19節の思想があります。神が人に塵に帰ることを命じられたところには、聖書の死生観による厳粛さがあり、人生のはかなさや短い命への嘆きが、ただの詠嘆や諦めに終わらない所以があります。

 神は人の生と死を司っておられるのです。「(4節)千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。」と告白し、神の前にある人間の一生はほんとうにはかなく短いものであることを歌っています。新約聖書ペトロの手紙二でペトロも「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(3章8節)と語っています。ペトロはきっと詩編の御言葉を知っていたのでしょう。

 ここには「夜の一時」という言葉がありますが、旧約聖書時代にはユダヤの人たちは夜を初更、中更、終更と三つに分けて考えていました(士師記7章19節)。新約聖書の時代に入ると、人々は夜を夕方、夜中、鶏の鳴く頃、明け方(マルコによる福音書13章35節)というように四つに分けて考えました。この詩編の作者は、人の一生を「夜の一時」というように、夜のほんの一時、つまり夜の三分の一か四分の一の時間に過ぎないと言っているのです。神の永遠の前では、人の一生は実に短いもの、人間はほんの一瞬という時間を生きているのだということです。

「(5〜6節)あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れていきます。」短い人の一生を草花に例えることは、砂漠の風土を背景にして考えると容易に想像できます。日本のように潔く散る桜の花の風情とは違って、美しく咲いた花が急激に枯れ果ててしまう変化の速さには驚きと共に痛ましさが加わります。しかし詩人はここで、人はそのように短い人生であるのだから、どうせ何もできはしない。適当に気楽に過ごせばよいとは語っていません。詩人は、人生の短さ、そのはかなさの中で、まず人間が犯す罪について言及し、神の審きに思いを馳せさせているのです。

「(7〜9節)あなたの怒りにわたしたちは耐え入り、あなたの憤りに恐れます。あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消え失せます。」ここでは、神の前に立たされた人間の問題を、人が犯した罪とそれに対する神の怒りから語っています。神の怒りについては抽象的に語ることはできません。神の怒りは私たちの具体的な出来事に向けられ、それは実感できることだからです。人の罪は、神の怒りの激しさから押し測ることができます。人は、神の怒りの前に恐れ、消え失せてしまうとさえ語っています。人は死に直面した時、隠れた罪を一番強く実感するのです。「隠れた罪を御顔の光の中におく」という表現がそれを示しています。神の怒りの対象である罪というものは、神の光の前で明らかになるのです。

「(10節)人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」は、人の体験としてよくわかることです。今の長寿社会では、100歳以上の方もたくさんおられ、80歳や90歳でもお元気な方がたくさんおられますが、大方の人の人生は70年か80年で終わるのです。しかし突き詰めたところ、その得る所は空しい労苦や災いに過ぎないと語ります。この実感がこもった言葉からは、この詩人がもう若くなくて年を重ねた人であることが想像できます。しかしそれにもかかわらず、多くの人は自分がいつまでも生きることができるかのように、死の現実とその背後にある神について知ろうとはしないのです。

 ところで、人が死に直面して、神の怒りに触れ、罪を自覚するということを述べた詩人ですが、実は神の怒りの重さを、人は本来十分には知り得ないのだと言っています。「(11節)御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて、あなたの憤りをも知ることでしょう。」これは大変重い言葉です。人は神によって自分の罪を示されるのですが、神の怒りがあるからそれがわかるということであって、実は本当には罪の重さが分かっていないのだという矛盾した姿があるのです。それは人間の罪というものは、その罪を赦されて初めてその重さが分かるからです。神の愛の大きさを知って初めて、私たちは自分の罪の大きさを知り得るのです。それは新約のキリストの光に待たなければならないのかも知れません。

 人は何のために生きているのでしょうか。労苦と悩みの多い人生に何の意味があるのでしょうか。
 この問いは洋の東西を問わず、古くから常に人間が抱き、問い続けてきた問いです。この辺りは、何か虚無的な思いがしてコヘレトの言葉を思い起こします。「何事にも時があり、天の下にの出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時……(途中略す)……戦いの時、平和の時。人が労苦したところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(コヘレトの言葉3章1〜11節)

 コヘレトは、この世は確かに過ぎ行く世ではあるけれども、虚無に陥って自暴自棄になるのではなく、すべてのことに時があって、神のなさることは皆、その時にかなって美しいのだと語り、永遠の神の前に立って生きることを勧めています。確かに人間は弱くてはかない存在です。しかし私たちはありのままの姿で神の前に立つことが赦されていますし、またそうすることが求められているのです。

 さて、詩編90編の中心をなす聖句は12節だと思います。「(12節)生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」ここにある「生涯の日」というのは、口語訳聖書でも文語訳聖書でも「おのが日」と訳され、新改訳聖書では「自分の日」と訳されています。私たち人間の生涯の限りある日のことです。人間の一生には終わりがあり、私たちはその限りある一回きりの人生を生きているのです。その日々をなるようにしかならないと思って怠惰に生きるのではなく、与えられた人生の一日一日を大切に生きることが求められています。

「生涯の日を正しく数えるように教えてください。」と詩人は願っていますが、私たちはその生涯の日(おのが日、自分の日)をどのように数えればよいのでしょうか。まず考えられることは、それは自分の日ではあるけれども、自分の側からだけ見るのではなく、神の方から見ることが大切だということです。自分の日を正しく数えて生きるならば、自分の栄光や栄誉を得るために生きるのではなく、与えられた日々を神の赦しと恵みの中で、神の言葉に聞き従いつつ、神を賛美し、人を愛して永遠を目指しながら歩む者となるのです。人は死に向かって生きています。しかし、主にあって生きる者は希望に生きているのです。神に目を向けて、生涯の日(おのが日、自分の日)を生きることが求められているのではないでしょうか。大切なことは、私たちの人生は自分のものであって自由に生きる権利があるのではなく、神から与えられたもの、神に赦されて生かされているのだということをしっかりわきまえることが大切だと思います。私たち一人ひとりには、生きる使命が与えられているのです。

 詩人は「(12節)生涯の日を正しく数えるように教えてください。」と願った後で、「知恵ある心を得ることができますように。」と求めています。聖書で知恵というのは、人間の賢さや知識の量の多さを言うのではなく、神を畏れる思い、神を知ると言うことがその中に含まれています。箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め。」とあるとおりです。

 そして知恵を求めた詩人はその後で、神に願っています。「(13節)主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。」この「帰って来てください。」というのは、神に向きを変えてこちらを見てくださいということです。このように神が人の方を向き、人が神の方に向きを変えるところに、神と人との間に真の和解が成立します。人の心には喜びが満ち、神の威光を仰いで生きる人の人生は確かなものになるのです。そのことを祈り願っているのが最後の14節から17節です。

「(14〜17節)朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。あなたがわたしたちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください。あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。私たちの神、主の喜びが、私たちの上にありますように。わたしたちの手の働きを、私たちのために確かなものとし、わたしたちの手の働きを、どうか確かなものにしてください。」詩人はこのように神を信頼して祈りつつこの詩を閉じています。コロナ禍に生きる私たちも、この祈りの心で、神の支えを信じて生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)