罪の赦し 病の癒し

ルカによる福音書 5章17節~26節

 2021年も半年が過ぎました。しかし、いまだ“コロナ禍”の中にあって、新規感染者数も増加傾向にあり、いま出されております「まん延防止等重点措置」の行方も、果たしてどうなるのでしょうか、大変心配です。一日も早く皆が安心して過ごせる日が来ますようにと願うばかりです。
 ルカによる福音書からの説教が続いておりまして、本日の説教は、標題の通りですが、直前までの流れの大筋を確認しますと、ガリラヤ伝道たけなわの中で、主イエスはカファルナウムにおられたとき、さらに巡回宣教の拡大の抱負を語られました(4章43節)。そして、漁師のシモン・ペトロ、ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネたちを弟子として招かれ(5章1節~11節)、さらに本日箇所の直前では、“重い皮膚病の人の癒し”(5章12節~16節)をされ、そして、本日箇所へと進んできました。

 では早速本日箇所に入りましょう。17節「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。」とあり、さらに「主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。」とあります。ここに、“ファリサイ派の人々、律法の教師たちがいた”とあります、ファリサイ派の人々とは、当時のユダヤ教内の一分派であって、その特徴は、律法を厳守し、そのことをまた自負していました。その名の由来ともなっています。また律法の教師たちも同様に律法の専門家です。なお、ルカ福音書では、この人たちが登場するのは本日箇所が初めてで、「彼らは、ガリラヤ、ユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである」と記されておりますように、広い地域からきて、イエスさまが宣教する場所にはすでに集まって来ていたことを伺い知ることができます。

 なお、彼らの名前が聖書に出てまいりますと、“あ、また何かが起こりそうだな”などと先入観が働きそうですが、果たしてそうでしょうか。彼らもイエスさまの話を熱心に聞こうとして、イエスさまの元に集まって来ていた、と思いたいです。
 次は、18節、19節に「すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。」とあります。当日もイエスさまの所には、非常に多くの人たちが集まっていた。そこにやってきた男たちは、仲間の一人で中風を患って苦しんでいる人を、床に乗せて運んで来て、何とかしてイエスさまに癒してもらいたい一心でそこまで辿り着いた。しかし、その日は多くの群衆のために、イエスさまの前まで連れて入ることが出来なかった。そこで彼らがとった行動とは、すでに見てきた通り、常軌を逸した方法、“屋根に上って屋根の一部を壊し、床ごとイエスさまの前につり降ろす”というものでした。この行為は、そこに集まっていた群衆にとっても迷惑千万、そこに何が起こっていたかは、いろいろと想像がつきます。

 しかし、イエスさまは、そのこと自体を問題とはしておりません。そのときの様子を記した、著者ルカの言葉は、「イエスはその人たちの信仰を見て『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」(20節)とあります。因みに、岩波版聖書でこの箇所は「すると彼(イエスさま)は、彼らの信仰を見て言った、『人よ、あなたの罪は、あなたにはもう赦されている』」とあります。
 イエスさまは、彼等四人が中風の人を床に乗せ運んで来て、その家に来てから、ご自分の前に至るまでの、彼らの一部始終の行動を、さらには、その動機となっている、彼らの思いをもすべてを汲み取られた上で、それを、“信仰”と見なされ、さらにその信仰が中風の人に働いて、「あなたの罪は、もうすでに赦されている」と宣告なさったのです。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者は開かれる。」(マタイ福音書7章7~8節)。この教えは、イエスさまの“山上の教え”の後半の部分で、信仰の姿勢を具体的に教えている数々の中の一つで、この教えの中の、“熱心に求めること”、“探すこと”そして“訪ね求めること”をそのまま、この男たちは実行に移したのです。
 そのときイエスさまから、思い掛けなく重く、そして大きなお言葉をいただいた彼等は、一瞬、戸惑い、驚きを示したことでしょう。しかし、そこには、大きな課題も残されております。それは“病気の癒し”と、“罪の赦し”の関係についてです。これは後程ふれることにしまして、先ず、聖書は、律法学者、ファリサイ派の人々の心の反応を伝えております(21節)。「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と、です。
もともと、ファリサイ派の人々や律法学者は、イエスさまを、神が遣わされた御子「神の子」と理解しておりません。そうではなく「預言者の一人」ぐらいにしか考えていなかったのです。ですから、たった今、罪の赦しを宣言されたイエスさまに対して、これは神を冒瀆することだ、と即断し、許せない気持ちが湧いて来たのです。そして、彼らの胸の内に、「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、だれが罪を赦すことができるのか」との思いや、呟きが飛び交っていたのです。

 そこでイエスは、彼らの考えを知って次のようにお答えになった、と飽くまでも冷静になり、「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」(22節、23節から)との、諭(さとし)の言葉です。
 このお言葉によって、事態は進展し、中風の人の“病気の癒し”は現実的となります。このようなことは、わたしたちの間でもよくあることです。議論が衝突しそうになったとき、その中の一人が言った、極めて冷静な、そして、“核心を突いた一言の言葉”が、事態を解決に導びいて、そこに、皆が待ち望んでいた、良い結果が生まれる、ということがです。
 イエスさまが言われた、「あなたの罪は赦された、というのと、起きて歩け、と言うのとどちらが易しいか」は、「罪の赦し」と「病の癒し」両者の、容易さの比較の問題です。その答えは、口で言うだけなら、どちらも優しい、特に“罪の赦し”は、はた目からは確認できない事柄なので、言うだけなら簡単です。しかし、いま目前にいる中風の人の癒しについては、誰もがそれを見て判別できる事柄なので、口で“あなたの病は癒された”、などと簡単には言えないのです。

 以上のような、いわば“禅問答”を続けることが、イエスさまの目的だったのではありません。そうではなく、いま目前にいる、“中風の人の癒し”が必要なことであり、そのためには、それに先行して、“罪の赦し”が必要だったのです。そしてそこに至るまでの手段として、“ご自分がこの地上に派遣されて来ている役割”を知らせようとなさったのです。また、このこと自体が、ファリサイ派の人々および律法学者の呟きを解決する方法となっているのです。

 そして、24節「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう。そして、中風の人に、『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』と言われた。」とあります。いよいよ本日の出来事のクライマックスの場面を迎えます。
 25節、「その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。」とあります。このことを順番に見ていきましょう。まずイエスさまのお言葉、命令を聞いて、いままで床に寝かされていた人が「すぐさま立ち上がった」ことです。イエスさまのご命令に、どうしようか、果たして自分の病気がそんなに直ぐ治るなんていうことがあるだろうか、皆の前で恥をかいたらどうしようかなど、あれこれ考え戸惑っていた様子は微塵もありません。このことは、わたしたちにも非常に参考となります。特にイエスさまのことを聞いて、それを信じて受け入れ、信仰に入るときのことを思い起こしてみたいと思います。マルコによる福音書10章15節に「はっきり言っておく、子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」とあるとおりです。

 二番目、この中風だった人が、「自分が今まで寝ていた台を自分で取り上げた」ことです。そこに必要なことは、決断力、そして実行力・即断力です。そして先ず、自分の身の周りから順番に考えることが大事です。その際には、“ああしよう、こうしよう、そして先ほどのように、もしだめだったらどうしようか”、などと迷ってはだめです。この中風だった人に、戸惑いなどは一切見られません。

 そして最後、これは本当に素晴らしいことです、「神を賛美しながら」家に帰って行ったことです。神を賛美すること、これは素晴らしいことです。たとえ“音痴”でもいいのです。わたしたちは折に触れ、神を賛美出来たら、それは素晴らしいことです。またそのことが、周りの人々にも良い影響を与えます。

 最後は26節a「人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。」とあります。この人々に中には、真っ先に登場した、ファリサイ派の人々、そして律法学者もいたことでしょう。26節b「そして、恐れに打たれて『今日、驚くべきことを見た』と言った。」と結んでおります。

 本日箇所では、病の癒しに先行して、まず“罪の赦し”があること、それには、イエスさまの前に進み出て、イエスさまの話を聞き、受け入れ、そして行動を起こしていくことの大切さを教えられました。わたしたちもこのように、今日も、明日も、イエスさまに従って歩んで参りましょう。

(牧師 永田邦夫)