2021年08月

主と共なる生と死

パウロは「(8〜9節)わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」というように、イエス・キリストを信じて生きる者は、たとえ途方に暮れるような、八方塞がりの事態が起きても絶望しなくて良いのだ、主の助けがあって必ず出口があるのだ、苦難があっても決して見捨てられた訳ではない、打ち倒されたように思えても起き上がれないほどに決定的なことではないのだ、キリストにつながってさえいれば、必ず再び立ち上がって歩みだすことができるのだと語りかけているのです。

人間を惜しむ神

今朝はヨナ書から神のみ言葉を聞いていきたいと思います。ヨナ書は、他の預言書と違って非常にユニークな書物です。このヨナ書は、預言者ヨナが神から託された言葉が書かれているのではなく、ヨナという一人の預言者についての物語であるということです。ヨナ書はたった4章の短いものですが、子どもたちがよく歌う子ども賛美歌にも表れているように、そのストーリー展開の面白さは読む者をひきつけます。それらの場面はまるで童話かメルヘンのようにドラマチックなものですが、その底には神の深い御計画と人間への愛が満ちています。

エフェソの信徒への手紙

心の目を開けて

今朝はエフェソの信徒への手紙1章にある「パウロの祈り」の言葉を通して神に聞いていきたいと思います。パウロは、今朝の聖書箇所の前の部分で、神の恵みの豊かさや素晴らしさを讃え、真理の言葉、すなわち救いをもたらす福音を聞いて神を信じ、キリストに希望を置いて生きる者は神の栄光を讃えて生きるのだと、格調高い賛美の言葉を語っています。そしてその後で今朝の御言葉の祈りの言葉が続くのです。パウロは神の力と御業を賛美しながら祈っているのです。

罪びとを招く主

本日の説教箇所は、主イエスさまが自ら出て行って、徴税人のレビを招いて弟子とされる出来事から始まっております。なお、この記事は共観福音書すべてにありまして、マタイによる福音書9章9~13節、そして、マルコによる福音書では2章13~17節にあります。ときにはこれらも参考にしながら、ルカによる福音書ならではの独特で、豊かなメッセージをご一緒に聞き取って参りましょう。

主に信頼する者

幸いなのはいったいどういう人だと言っているのでしょうか。それは「背きを赦された人」「罪を覆っていただいた人」「主に咎を数えられない人」「心に欺きのない人」です。つまり神から罪を赦されている人は幸いだと語っているのです。注意していただきたいのは、罪のない人が幸いだとは言っていないのです。罪がないのではありません。誰にでも罪はあるのです。罪はあるけれども赦されている。主に咎を数えられないでいる、罪を数えられないでいる人が幸いだということです。