主に信頼する者

詩編32編1〜11節

 本日は詩編32編から、神の御言葉を聞いていきたいと思います。
 まず1〜2節『いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。』
 ここに書かれている「いかに幸いなことでしょう」というのは、イエスが山上の説教で「心の貧しい人々は幸いである。悲しむ人々は幸いである。」(マタイによる福音書5章参照)とおっしゃった言葉と同じ意味です。原語は「アシュレイ」で、詩編1編1節で「いかに幸いなことか」と言われているのと同じ言葉が使われています。

 幸いなのはいったいどういう人だと言っているのでしょうか。それは「背きを赦された人」「罪を覆っていただいた人」「主に咎を数えられない人」「心に欺きのない人」です。つまり神から罪を赦されている人は幸いだと語っているのです。注意していただきたいのは、罪のない人が幸いだとは言っていないのです。罪がないのではありません。誰にでも罪はあるのです。罪はあるけれども赦されている。主に咎を数えられないでいる、罪を数えられないでいる人が幸いだということです。

 この「数える」という言葉は、創世記15章6節で「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」にある「認められた」と同じ言葉です。この「認める」は、これはこの人のものだ、と帳簿に書きつけることを言います。この個所では、「咎を数えられない」のですから、それを神が帳簿につけないということです。ですから、罪がないのではなくて、罪は赦されているので帳簿に載らないということなのです。そういう人こそ本当に幸いだと語っているのです。

 この詩編は、詩人が長い苦しい心の闘いの末にやっと罪の赦しが与えられた自分の体験を感謝しながら語っているのです。
「罪の赦し」ということは、人間が生きていく上での根本的意義があります。パウロも「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」(ローマの信徒への手紙4章7〜8参照)と語っています。

 人は誰でも、心にやましいことがあったり、何か人に言えない隠し事がある時は、心がすっきりしません。心に痛みがあるなら、力いっぱい前進できないのです。「(3〜4節)わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は、夏の日照りにあって衰え果てました。」ここで詩人は自分の過去の体験を赤裸々に告白しています。具体的にどういうことがあったのかわかりませんが、自分の体験から出てきた言葉ですから説得力があります。自分は罪があるにも関わらずそれを黙っていたというのです。それを口で言い表して神に懺悔することをしなかったのです。そのために自分の内側からうめき声があがり、骨が腐るほどに病んでしまったというのです。

 あるいは、この詩人は罪というものを自覚しなかったから、そのことを表白することをしなかったのかもしれません。しかし、罪が持つ重圧は自ずと感じていたのかもしれません。罪という実体を自分の内に隠しているなら、いくら外面的に取り繕っても、それは癌の様に人間の心と体を冒していくのです。「骨まで朽ち果てました」骨は人間の体の中心ですから、生きている自分全体が破滅していくというのです。この詩人の心には、絶えずちくちくと刺さるような良心の声が聞こえていたのかもしれません。

「(4節)御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は、夏の日照りにあって衰え果てました。」
神の御手が私の上に重いというのは詩人の感覚です。神の憤りが私を襲っているようで、神の御手が重くのしかかっているように感じたのでしょう。そして自分はそこから逃れることができないでいたというのです。

 3節に「わたしは黙し続けて」とありますが、ここでの沈黙というのは、罪を表白しなかったことを言っています。旧約聖書では、罪は神の前に口で言い表す時に本当の懺悔になるのであって、それをもって神は赦しを与えてくださるのです。神の前に出て、自分の口で罪を言い表すということが極めて大事なことなのです。この詩人は神の前に黙し続けていたため、内面から崩れていく苦しみを味わっていたのです。

 沈黙が持つ意味にはいろいろあると思います。人があえて沈黙するという時は、「いたずらなことを口にしたり、舌によって罪を犯すかもしれないから沈黙を守る。」というのがあります。これは積極的な意味での沈黙です。また詩編62編2節には「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。」のように、言い訳したり、言い逆らったり、自己弁護したりしないで、ただ神がご存じであるのだから、神を信頼して黙していようという沈黙があります。これは信仰の沈黙と言えると思います。

 続いて5節「わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました。『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」ここでは一転して、詩人は沈黙を破り、神の前に自分の背きの罪を告白しようと語りだします。転機です。するとただちに「あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」というのです。「あなた」と呼ぶ神と「わたし」の間には一切の仲保者をさしはさみません。神が直接、私の罪を赦してくださるのです。しかも無条件で「あなたは私を赦してくださった。」と言います。

 聖書が語る「罪」というのは、法律を破る犯罪などの罪ではなく、神から離れていることを言います。「罪」というのは「的外れ」という意味なのです。ですから神の方に向き直って生きることが悔い改めです。それはルカによる福音書の「放蕩息子のたとえ」を思い起こしますが、神に向きを変えて生きる決心をした時、神は赦しを与えると共に、あの父親の様に、走り寄って悔い改めた罪人を抱きしめてくださるのです。

 詩人は自分の悔い改めの体験を通して、咎ある心で苦しんでいたけれども、沈黙を破ってその罪を告白した時に赦しが与えられたことを語りました。その体験に基づいて、詩人は強い確信を抱いたのです。ですから「(6節)あなたの慈しみに生きる人は皆、あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。」というのです。「あなたの慈しみに生きる人は皆」と多少一般化しながら、神から赦しをいただき、神の慈しみにすがって生きる人の一人として、詩人は喜びにあふれて語っています。

 ところで、ここに「あなたを見出しうる間に」と書かれていますので、では「あなた(神)を見いだしうる時」と「あなた(神)を見いだしえない時」があるのだろうかと素朴な疑問を抱きます。
 私たちの人生には、神がその姿を隠しているのではないか、と思わせるような辛い体験をすることもあるわけで、そういう意味では「見いだしうる時」と「そうでない時」の区別があると言えるかもしれません。しかし、神の側から言うならば、そういう区別はまったくないわけで、いつもそこに赦しを与えようと忍耐して待っていてくださる神がおられるのです。今はまさに「恵みの時」「救いの時」「赦しの時」です。今こそ神の忍耐にすがる時です。いつでも今というその時が備えられていることを感謝したいと思います。

 さて、詩人は「(5節)主にわたしの背きを告白しよう」と神に向かいますが、それは罪を覆い隠さないことで自分に正直になること、本当の自分を認識することです。そしてその罪の告白は主の御霊の働きであり、御霊の導きによるのです。もし人が自分で自分の罪を隠そうとするならば、神がその罪を覆うことはありません。言葉遊びのようですが、「罪とは人が隠すことであり、赦すとは神が隠してくださること」なのです。

 罪の告白は、その人と神との間の大きな転換点です。それまで閉ざしていた心を神に開くことです。「(5節)そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」罪の赦しは新しい自分の誕生です。神によって自分が開かれていくからです。「(6節)あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。」ここには罪赦された者が新しい現実に立ち向かっていく姿勢があります。ここからは「神よ、私を守ってください、私を導いてください」という祈りの心で生きていくのです。

「(7節)あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって、わたしを囲んでくださる方。」聖書が教える真の神への信仰は、「あなた」とお呼びするお方と、「わたし」との間に起こる事柄で、それがこの詩編には生き生きと描かれています。「あなたこそ私の隠れが」であり、「救いの喜びをもってわたしを囲んでくださる方」なのです。本当に素晴らしい信仰の言葉です。私たちも救いの喜びにすっぽり包まれて生きていきたいと願います。

 沈黙の耐え難い苦しみから罪の告白へ、そして直ちに赦されて救いの喜びに囲まれていく。そのような悔い改めの体験を経て8節9節に続きます。「(8節)わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。」詩人はいまや隣人に向かって、あるいは礼拝をともにしている会衆に向かって語っています。「(9節)分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。」(箴言26章3節「馬に鞭、ろばにくつわ、愚か者の背には杖」参照)愚かものの代表としてしばしば馬やろばが引き合いに出されますが、それは、くつわを食ませないとどこへ行くかわからない愚かなものと思われていたからです。だから、神であるわたしがあなたに行くべき道を教えようと言っているのです。「(8節)あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。」神があなたの上に目を注いでいてくださり、勧めを与えて、導いていてくださるのです。そして憐れみをもって私たちの行くべき道を教えてくださるのだというのです。何と大きな恵みでしょうか。

「(10節)神に逆らう者は悩みが多く、主に信頼する者は慈しみに囲まれる。」ここには「神に逆らう者」と「主に信頼する者」の二通りの生き方が書かれています。詩編全体をながめてみても、神に従う道と、神から離れて生きる道と、この二つの道が私たちの前にあるのです。それは、日々の生活の中でもあります。私たちはある瞬間、神に近くあるかと思えば、その次の瞬間には神から離れていくような不確かな弱い存在にすぎません。

 しかし、この詩編は神を信じて生きる者の何たるかをはっきり示しています。それは、罪の重荷と重圧を深く経験した者が、それを隠さずに神の前に言い表した時、そのすべての罪が赦され、神の義の衣に覆われて、主の慈しみに囲まれて生きるようになるということです。「(11節)神に従う人よ。主によって喜び踊れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。」ここにある「喜び踊れ」「喜びの声をあげよ」は礼拝の本質でもあります。神を信じる者の喜びは歌になり、歓声になり、身体全体が踊り出すのです。神を信じる者は神を喜び、神に信頼を置く者です。

 今、私たちは新型コロナウイルスまん延という苦悩の現実の中にいますが、そのような不安や心配や苦悩の中にあっても、絶えず神の約束の御言葉を聞き、神に私たちの願いを訴え、祈り、主に信頼して生きていけるのです。この詩編はある意味で私たち神を信じて生きる者の人生そのものを歌っているかのようです。新しい週も主に信頼して生きる者でありたいと願っています。

(牧師 常廣澄子)