ヨナ書 4章6〜11節
今朝はヨナ書から神のみ言葉を聞いていきたいと思います。ヨナ書は、他の預言書と違って非常にユニークな書物です。このヨナ書は、預言者ヨナが神から託された言葉が書かれているのではなく、ヨナという一人の預言者についての物語であるということです。ヨナ書はたった4章の短いものですが、子どもたちがよく歌う子ども賛美歌にも表れているように、そのストーリー展開の面白さは読む者をひきつけます。それらの場面はまるで童話かメルヘンのようにドラマチックなものですが、その底には神の深い御計画と人間への愛が満ちています。
ヨナについては、列王記下14章25節に「預言者、アミタイの子ヨナを通して告げられた主の言葉のとおり、彼はハマトの入り口からアラバの海までイスラエルの領域を回復した。」とあるように、ヨナは、紀元前8世紀の北イスラエル王国ヤロブアム二世時代に、東ヨルダンの領域がイスラエルによって回復されると預言したことが書かれています。しかしヨナ書が実際に書かれたのは、書かれた言葉やニネベの陥落のことなどを考慮すると、それ以降に書かれたものだと考えられています。
本日は4章の御言葉を取り上げましたが、まず、物語の概要を簡単にたどってみたいと思います。「(1章1〜2節)主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。』」預言者ヨナに主の言葉があり、ニネベの都に行って神の言葉を語れという命令があったのです。
ニネベという都については、3章3節に「ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。」とありますから、単なる小さな町ではなく、今日でいう大都会です。「彼らの悪がわたしの前に届いている」というのですから、そこには不正がはびこり、暴力が横行していたのかもしれません。ニネベはアッシリアの中心地でしたから、各地から人々が集まり、あらゆる国の言葉が話されていたでしょう。高い城壁をめぐらして自負心に満ちたアッシリア王が住んでいる、いわばその国の象徴的な都でした。しかしニネベは真の神を知らない異邦人の町でした。神はヨナを用いてこのニネベの民に真の神を知らせ、神の前に悔い改めさせようとなさったのです。
ところがヨナはこれに従わずに、タルシシュに向かって逃げました。「(1章3節)しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。」タルシシュという町は地中海の西にありましたから、東の方にあるニネベとは正反対の方角です。ヨナは神の命令からだけでなく、そのご支配からも逃げ出したかったようです。
旧約聖書にはいくつもの預言書があります。それらの預言書に書かれている預言者たちは、ある時、主なる神の召しを受けて、神の言葉を語った人たちです。しかし、すべての預言者が初めから素直に従ったわけではありませんでした。自分はその任にたえない者であるとか、自分は未熟な者だとか、それは自分の力に余ることだと言って固辞した預言者がたくさんいます。しかし意識的に、自分はそこに行って神の言葉を語る預言者にはなるまいと決断して、計画的に逃亡した人はヨナただ一人です。彼は聖書の中でも例外的な存在といってもよいかもしれません。それだけでなく、ヨナは神の御心に不満を持ちました。神から委託された仕事を聞いて不快に思ったのです。
ニネベの町は異邦人の町である上に、不正や悪が横行し、罪に汚染された町でした。ヨナが当時教えられていたところによれば、神はイスラエルの神であって選ばれた民の神である、従って異邦人の神ではないのだ、ということでしたから、自分がわざわざ異邦人の町に行って、神の御心を語るなどということはしたくないと思ったのでしょう。選ばれた民である我々は、汚れた異邦人の世界の問題などには無関係なのだから、ヨナははるか遠くのニネベまで行って自ら苦しむようなことはしたくないと思ったのです。ヨナには神のご命令の意味が理解できませんでした。だからそのような命令を発した神を不満に思ったのです。ヨナはそのような悪に染まった彼らは裁かれ、破滅させられて当然だと思っていたのです。もし自分がそこで語ったとしても、彼らの無関心や反対にあって苦しむなどということはまったく割に合わないことではないか、なぜ自分がニネベまで出かけて行って苦しみを負わなくてはならないのか、と自己弁護に必死だったのでしょう。だから、ニネベに行って神の裁きを伝えよと命じられた時、これを不満として逃げ出したのです。
ところが彼がタルシシュに向かう船に乗っている時、乗組員たちが恐れるほどの大嵐に遭うわけです。彼らはそれぞれに自分たちの神に助けを求めましたけれども嵐は治まりません。きっとこれは神の怒りによるものであろうというので、誰かに責任があることに気づき、その者を見つけ出そうとくじを引くとヨナに当たります。ヨナは主の前から逃げてきたことを白状し、荒れる海を静めるために自分を海に放り込ませるのです。ヨナは神の怒りで死ぬことを覚悟したのでしょうが、神に備えられた巨大な魚の腹の中に三日三晩いた後、陸地に吐き出されて助け出されます。ヨナは九死に一生を得たのです。一方乗組員たちはヨナの神に畏敬と感謝の念を示しました。
さて、神に逆らって逃亡したヨナでしたが、この恐ろしい体験を通して神から離れることの不可能を知り、助け出された神の憐みと恵みを味わって、神に服従する心を持つようになりました。それで「(3章1節)主の言葉が再びヨナに臨んだ」時には、「(3章3節)ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。」のです。そして悔い改めないなら「(3章4節)あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」と神の罰を宣告しました。するとニネベの人々はこぞって神の言葉を聞き、神を信じたのです。ヨナが語ることを、まさしく神の言葉を語っていると認めた彼らは、粗布をまとい、断食を呼びかけて嘆き、悔い改めを表しました。それで「(3章10節)神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことをご覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」のです。
ニネベの人々が、身分の高い者も低い者も皆素早く、しかも心から悔い改めて神に乞い願う祈りを聞いて、神はヨナに託した預言のようにニネベに滅亡を下すことを止められました。ところが「(4章1節)ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。」のです。ヨナはその不機嫌を隠そうともせず神に向かって怒りを発するのです。なぜヨナは怒ったのでしょうか。その理由について聖書は何も語っていませんが、いろいろな理由が考えられると思います。「あと四十日すればニネベの都は滅びる」と預言したことが実現しなかったことによって、自分が偽りの預言者だと非難されることへの怒りかもしれませんし、イスラエル民族の敵であるニネベの人々が神の憐みによって助けられたことに対する怒りがあったのかもしれません。
ここでヨナは、自分が以前にタルシシュに逃がれようとしたことを持ち出し、自分はこうなることを予測したから、自分はそうなることを望まなかったから逃げたのだと語るのです。自分の体験だけでなく、「(4章2節)あなたは恵みと憐みの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」と、イスラエルの民に対してなされてきた神の憐れみ深い性質について語り、その憐みがニネベの人々にも与えられたのが気に入らなかったのだと告白するのです。
ヨナは今や神に対して死を願っています。「(4章3節)主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているより死ぬ方がましです。」とまで言います。そこでこのヨナの怒りに対して、神は「(4章4節)お前は怒るが、それは正しいことか。」と問いかけるのです。もし厳格な神であったならば、ヨナ自身が海の中で果てていたはずであって、今ここに存在することすらあり得ないことだと、神の憐みを深く理解していないヨナに対して静かに語りかけているのです。
一方、神への怒りをぶつけたヨナは、神が自分の怒りに応えて何かニネベに対して起こすのではないかと考え、それを見るためにニネベの都を出て東の方に行き、小屋を建てて日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとしました。しかし都には何も起こりませんでした。神はもう何もなされなかったのです。その時、神はヨナのために日陰をつくるとうごまの木を備えられました。ヨナを太陽の熱と光から守るためです。とうごまは聖書の中ではここだけに出て来る植物で、どのような木なのかはわかっていませんが、成長が早くて「(4章6節)ヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰を作ったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。」とあります。ヨナはこのとうごまという植物の成長に心なごむ思いがして大いに慰められたのでしょう。
ところがヨナの喜びは突然終わりを告げます。ヨナは再び不満と怒りの状態に戻ってしまうのです。「(4章7 節)ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。」神はまたもや、巨大な魚やとうごまと同じように、「一匹の虫」を備えられたのです。夜明けの涼しいうちに虫は植物を食い荒らして枯れさせてしまいました。
「(4章8節)日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。『生きているよりも、死ぬ方がましです。』」太陽が上ってくると、東の方から熱風が吹きつけ、太陽はヨナの頭の上でじりじり照りつけました。次々と災いがヨナの上に襲ってきたので、またもやヨナは死んだ方がましだと叫びます。
そのようなヨナの言葉に対して、神は前回と同じように問いかけます。「(4章9節)お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」一本の植物が枯れても自分の死を願う愚かさにヨナは気づいていません。「(4章9節)もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」それが正当で当然なことだとヨナは言うのです。そのようなヨナに対して、神は厳しくも愛を持って教えられたのが次の言葉です。「(4章10〜11節)すると、主はこう言われた。『お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。』」一本の植物と大勢の人間の命とを比較しながら、神がどんなに人間の命を惜しんでおられるかを語っています。神が命を与え、養い育ててきたニネベの人々が滅びるのをどうして憐れまずにおれようかと神は言われるのです。
真の神は、選ばれたイスラエル人や信じる人々だけの神ではありません。悪に染まったニネベの都の人々にみ手を差し伸べられる愛の神なのです。ニネベの人々だけでなく家畜までも惜しみ給う神です。ニネベだけでなく、すべての人間は神の救いの計画の中に置かれているのです。神によって叱責され、一夜にして枯れてしまったとうごまの木の驚くべき体験によって、ヨナは目が覚めました。すなわち、すべての人間に対する神の大きな愛と深い憐みに対して、自分はいかに狭い心で判断して過ちを犯していたかに気づいたのです。神のこの言葉に対して、ヨナがどう答えたのかわかりませんが、彼の心には神の愛と憐みが深く刻み込まれたに違いありません。
ヨナとニネベの関係は、教会とこの社会との関係でもあります。神はこの世が暗く悪に満ちた世界になることを欲していません。神はヨナを通してニネベに救いをもたらされたのです。同じように、教会を通して神の救いの福音がこの世に宣べ伝えられていくのです。神はすべての人の命を惜しまれる方です。なぜなら命は神が与えたものであり、その命を救われるのも神だからです。コロナ禍の中にあろうとそうでなかろうと、いつの時代でも、主の救いの福音が一人でも多くの人に告げ知らされていくことが神の御心であることをしっかり受け止めたいと思います。そして私たちに対する神の愛を心から感謝して生きていきたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)