コリントの信徒への手紙二 4章7〜15節
このところ、新型コロナウイルスやその変異株ウイルスの感染状況が厳しくなり、医療体制がひっ迫してきて、救われる命とそうでない命が出てきています。先日の柏市で起きた出来事、自宅療養中のコロナ陽性の妊婦さんが具合が悪くなってもどこの病院にも受け入れてもらえず、自宅で出産して赤ちゃんが死亡してしまったというニュースは、なんとも言えない怒りと悲しみを感じました。この方にとって、またこのご家族にとって、何とも理不尽な不条理な苦しみではないでしょうか。どうかこの方に、主の豊かな慰めがありますようにと心からお祈りいたします。
私たちの人生においても、突然の災害に遭ったり、思いがけない病に罹ったり、人間関係や仕事や家庭の問題など、だれにも理解してもらえない辛いことが起こります。人は誰であっても時には無力感に襲われて眠れない夜を過ごしたり、絶望的な思いでただ独り立ち尽くしてしまうようなことが起こるのです。今朝のみ言葉は、人生の途上で度々このような思いを抱きながら生きている私たちに、パウロに言葉を通して、福音と苦難との関係、信仰と苦難との深い関係を教えてくれる箇所だと思います。
パウロは、自分の体に与えられていた「肉体のとげ」(コリントの信徒への手紙二12章7〜9節参照)に加えて、福音の伝道者になったことで様々な苦労をしました。ある時は「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。」(コリントの信徒への手紙二1章7節)と死さえも覚悟していたことがわかります。
しかし、今朝お読みした個所でパウロは「(8〜9節)わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」というように、イエス・キリストを信じて生きる者は、たとえ途方に暮れるような、八方塞がりの事態が起きても絶望しなくて良いのだ、主の助けがあって必ず出口があるのだ、苦難があっても決して見捨てられた訳ではない、打ち倒されたように思えても起き上がれないほどに決定的なことではないのだ、キリストにつながってさえいれば、必ず再び立ち上がって歩みだすことができるのだと語りかけているのです。
いったいその根拠、その保証はどこにあるのでしょうか。それは「(10節)わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」という言葉に示されています。イエスの死というのは十字架上での死、人々の目にはイエスの敗北、無力としか映らなかったことでした。しかしこの十字架の出来事の背後に、神の救いの計画が確実に着実に進められていたのです。その時、神が人間を祝福する計画は始まっていました。その証しであり完成がイエスの復活という出来事です。十字架は死で終わりませんでした。十字架の先に勝利としての復活の命があったのです。ですから、そのイエスの贖いに与った私たちは「いつもイエスの死を体にまとっている」のです。「まとっている」というのは、いつも持ち運んでいるということです。そしてそれは「イエスの命がこの体に現れるため」であるというのです。パウロはきっとイエスの死をいつもその身に感じながら生きていたのでしょう。そしてイエスの死が自分たちのために負われた死であったのであれば、イエスがその死によって受けられた復活の命にも与りうるものだと信じていたのです。ローマの信徒への手紙6章5節に「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」とあるとおりです。
かつてはこの十字架のイエスを憎み、イエスを信じる者たちを迫害していたパウロでしたが、復活のイエスに出会って180度変えられ、今や福音の働きに携わっているのです。パウロはいたるところで、人々を救う神の力のすばらしさ、福音の栄光について語っています。そしてそのような福音を語る働きには大きな苦難が伴うことも語っています。しかし感謝なことにその苦難はいつも神の力によって支えられているというのです。神の力がパウロを支えていてくださり、どのような苦難の中にあっても希望と喜びをもって強く生きていくことができたのです。
「(7節)ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に収めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」ここに書かれている「このような宝」とは福音そのもののことですが、さらには福音を伝える力をも指していると思います。福音とは良い知らせです。神の御子イエス・キリストが十字架に架けられ、三日目に死から復活なさって私たちの罪を赦し完全に贖ってくださったという良い知らせが福音です。そして「このような宝」を収めている「土の器」とは、ここではまさに主の福音を語っているパウロやその同労者たちのことを指しています。
「土の器」というのは粘土で造られた粗末な土器で大変もろいものです。昔この地方ではこのような土器の壺に金や銀を入れてしまっておく習慣があったそうですが、同じように人間がこの地上で与えられている体もまたちょうどこの土の器のようにもろくて壊れやすいものです。しかしそのもろく弱い人間がキリストの福音という宝のために用いられるというのは、何と素晴らしいことでしょうか。
旧約聖書イザヤ書45章9節には、人間が土から造られた被造物であることが書かれています。
「災いだ、土の器のかけらにすぎないのに、自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか、『何をしているのか、あなたの作ったものに取っ手がない』などと。」人間はどんなに優れた人であったとしても、何らかの弱さを抱え、欠点を持っています。肉体的な弱さだけでなく、霊的、精神的な面でも神の業をなす器としては不完全なものです。しかしパウロはどうしてここで自分たちを「土の器」であると言ったのでしょうか。それは、パウロたちがコリントで伝道して主の教会を生み出した後に、コリントの教会に来た別の指導者たちが、パウロの人間的な欠点をあげつらい、その上にパウロたちが宣べ伝えた福音にまで難癖をつけていることを伝え聞いたからでした。
つまり7節でパウロが語っているのはこういうことです。確かに自分たちは土の器のように貧弱で弱くて価値がない人間かもしれないが、そのことが器の中身である福音の価値を下げることにはならないのだ。かえって福音が持っている「並外れて偉大な力」が貧弱な自分たちから出るはずがないのだから、それは神の力であるに違いないということが明らかになるではないか。そのためにこそ神はわざわざ弱くもろい自分たちを用いられたのだと語っているのです。
4章1節では「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」と語っています。今、福音を語り伝える使徒の働きを担っているパウロは、この務めは復活のイエスからゆだねられているものだと確信していますから、何が起ころうと落胆などしないのだと言うのです。パウロは自分に与えられた働きの上に神の憐れみと恵みを見ているのです。
また4章5節では「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。」とあるように、自分たちはイエス・キリストという宝を運ぶ土の器にすぎないのだと語っています。しかし以前のパウロは、自分が土の器にすぎないものだとは考えもしないし思ってもいませんでした。フィリピの信徒への手紙3章(2〜16節参照)を読んでいくと、パウロは過去を振り返って、自分は「律法の義については非のうちどころのない者でした。」と自信に満ちて語っています。しかしひとたびキリストを信じてキリストの内に生きる者となった時、自分がどんなに弱い小さな存在であるかに気づき、そのような自分に死ぬということがわかったのです。それはキリストの苦難に与り、その死のさまと等しくなることでした。
パウロは復活のイエスに出会い、イエスの使徒として歩む中で、ほんとうの自分に気づき、イエスの使命に生きました。その時、自分の弱さが改めて全く違った意味を持って迫ってきて、自分が土の器であることがわかったのです。つまり土の器というのは、イエスの死をわが身に負うという生き方をする時にはじめて了解されるものであるということです。そうだとすれば、パウロに先立って、いや私たち主を信じる者すべてに先立って、イエスご自身が土の器になられたのだと思います。イエスのその死に至る歩みがそれを十分に示しているからです。
「(12節)こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。」実際、パウロたちがその身を削って、つまり死ぬ思いでなされた伝道活動によって、コリントの人々の信仰が強められていったのです。福音を語るという伝道活動は、愛の業です。愛には犠牲が伴います。ある人の内に死が働いてこそ、他の人には命が働いていくのです。
昔、神に信頼していた詩編の作者が「わたしは信じる。『激しい苦しみに襲われている』と言うときも、不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。」(詩編116編10〜11節)と歌ったように、真に福音を語る者はどのような困難や苦痛があろうと、黙っていることはできませんでした。信仰のある所には必ず証の言葉があったのです。パウロは「(13節)『わたしは信じた。それで、わたしは語った』(詩編116編の原語からの意訳)と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。」と語ります。パウロがここで「それと同じ信仰の霊」と言っているのは、パウロがここで引用した詩編の作者と同じ霊によって生かされているという意味です。しかもパウロの信仰は復活のイエスを体験しているのですから、詩編の作者よりもさらに深かったと言えます。
「(14節)主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」信仰とはイエスの復活を信じることです。またイエスを死から命へ移された神の力を知ることです。そしてその力が終わりの時に私たちにも働かれるという望みを持つことです。それが今ここにある患難に生きる力となるのです。パウロはキリストを信じる者の希望をこのように明らかにしています。
これまでの信仰生活を振り返ってみるならば、私たちもまた、苦難に陥って進退極まった時、その都度主の助けを受け、ふさわしいみ言葉を示されて支えられたことがあるのではないでしょうか。思いがけずどこからか導きの御手が差し出されて、苦難は相変わらずのままでありながらも、不思議にも絶望せずに踏みとどまることができた経験があるのではないでしょうか。イエスは私たち人間が味わう苦難は何もかもすべてご存じなのです。もしこれは不条理だと思われるような苦難と死に私たちが出会うなら、それは間違いなくイエスが味わわれた苦難と死なのです。なぜなら、イエスは十字架の刑罰で死ぬに値するどんな罪も犯されなかったのですから。その苦難と死はイエスご自身にとっては誠に不条理な苦難と死であったのです。
ところで、私たちの人生に起こる様々な艱難や途方に暮れる状況は、ある時に一回だけというわけではなく、いつもあらゆる場合に起こります。むしろ私たちの人生は、苦しみや艱難のただ中に生きていて、そこでなおかつ望みを失うことがないのだといってもよいかもしれません。ですから、失望と希望は同時に起こっているとも言えるのです。しかしどのような患難や絶望的な状況も、イエスの死をこの身に負うことを知っている人間、つまり神の力を信じる者にとっては、決して本当の意味での絶望的状況にはならないのです。
パウロは自分がイエスの死を体にまとって苦難を耐え忍びながらも福音を語るのは、感謝に満ち溢れることであり、神の栄光が現れることだとその恵みを語っています。私たちもまたいやしい土の器でありますが、神を信じて生きることにおいて神の栄光をあらわすことができます。それこそ
が人間究極の生ける意義だと言えるのではないでしょうか。
(牧師 常廣澄子)