ルカによる福音書 5章33~39節
“コロナ禍”が今だ収束しない中で、緊急事態宣言の期限が度重なって延期となってきました。その中での、わたくしたちの切なる願いは、早くこの事態が収まって社会活動が元通りになるとともに、教会での礼拝、教会学校、そして祈祷会などが元通りに行えるようになることです。このことを切に願いながら、本日も家庭礼拝で、聖書からのメッセージをご一緒に聞いて参りましょう。
ルカによる福音書からの説教を続けておりますが、本日箇所の5章33節に入りますと「人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。』」と、唐突な入り方をしています。そして、その中心テーマは「断食」です。因みに直前の段落(前回の説教箇所)では、“罪人と共に食事をすること”が挙げられていました。すなわち、この両者共に食事を巡っての事柄です。さらに前後二つの段落の“流れ”から見ても、本日箇所は前の段落から続いている一つの大きな段落である、と言われています。さらにもう一つ、この大きな段落は、共観福音書すべてに共通している、“大きな問答集の中の一コマ”でもあります。
では早速、33節の内容を見て参りましょう。冒頭にある「人々はイエスに言った」の人々とは、前の段落29節にあります、レビが催した宴会に招かれている“人々”と解釈できます。その人々の中には、徴税人の仲間は勿論のこと、ファリサイ派の人々、ヨハネ(バプテスマのヨハネ)の仲間、等々大勢いたのです。そして彼らから主イエスへの問いかけ(詰問)は、「ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々の弟子たちは習慣として、断食したり、祈ったりしているのに、なぜあなたの弟子たちは、それをやらず、今も飲んだり食べたりしているのですか」との、批判的な問いかけでした。
これに対する、主イエスの応えは、彼らの言葉や考え方に対して、直接反対したり、また批判したりするのではなく、むしろそれをチャンスと捉えて、ご自身が伝えている御国の福音を中心として、これに身近な譬えを用いながら、誰にでもよく分かるように、丁寧に説明しているのです。“これぞ福音の到来”という感じがします。
では、いま人々からの問いかけの中心となっている「断食」について、旧約聖書時代までその起源を遡って見ていきましょう。それは、いま主イエスに質問している人々が、旧約時代からの仕来り、考え方をその時まで守り続けてきて、主イエスが説く教え、仕来り等には中々ついていけない、あるいは受け入れることが出来ないでいる人々だからです。また現在のわたしたちも、その断食のことを少しでも理解するためにその歴史を辿ることは大事です。
断食(英語でFasting)は、文字通り、“食を断つこと”、のほか“節制する”“身を悩ます”“苦行する”などの意味があります。旧約時代のイスラエルの民は、自らを“神に選ばれた民”としながらも、折角、出エジプトしたものの、「水がない」と愚痴を言い、モーセがいま留守中だといって偶像礼拝に走って金の子牛を作るなど、数々の失敗、背信行為を繰り返してきました。その背信行為を預言者に指摘され、また自覚して、神に悔い改めを誓い、請願を立てる、この様な中で生まれたのが、断食、祈りの儀式を中心とした「贖罪日」です。
その贖罪日について、律法の中の唯一の規定が、レビ記23章27節28節にあり、次のように記されています。「第七の月(捕囚前の暦で、エタニムの月)の十日は贖罪日である。聖なる集会を開きなさい。あなたたちは苦行(断食)をし、燃やして主にささげる献げ物を携えなさい。この日にはいかなる仕事もしてはならない。この日は贖罪日であり、あなたたちの神、主の御前においてあなたたちのために罪の贖いの儀式を行う日である。」とあります。
さらに、イスラエルは統一王国を築いた後、南ユダ王国は近隣強国バビロンによって占領され、エルサレム陥落と神殿崩壊の憂き目に遭いました。民は、やがてその悲しみが喜びに代わる時が來ることを期待して、年に四回の断食を行う日を定めております(ゼカリヤ書8章19節参照)。
そして、時代が降って、主イエスの時代になっても、依然として、ファリサイ派の人々は、年に二回、断食を行っていました(ルカ福音書18章12節)。また、バプテスマのヨハネも、難行苦行をし、悔い改めを説く、これがヨハネの宣教方針でした。このように「断食」をし、また「祈る」、これを旧約聖書の時代からイエスの時代に至るまで、一部の人にとっては“自分たちの生活に欠かせないこと”、として守ってきたのです。因みに、主イエスも公生涯に入る直前に、荒野に出向いて四十日間、悪魔からの誘惑を受け、また断食を経験されました。その趣旨は、“人々と同じ苦しみを体験しておくこと”でした。
以上のことなどが背景にあり、人々はイエスに向かって、「あなたの弟子たちはなぜ断食をやらないのか」と問いかけてきたのです。これに対する主イエスの応えが以下です。
まず34節、35節で「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が來る。その時には、彼らは断食することになる」、と告げています。当時の婚礼は、まず新婚カップルは最上のもので着飾り、かつ招待客に対して、一週間の祝宴を催して、彼らを楽しませたそうです。
以上のことが背景にあって、主イエスは、質問してきた人々に向かって、“婚礼の客に対し、祝宴ではなく断食など、あなたがたにはできますか”と言っています。さらに続けて伝えているのが、次の35節で、これは非常に大切な意味を持っています。ここで「花婿」とは、もちろんイエスさまご自身のこと、そして「婚礼の客」とは、イエスの弟子たちや、更に広く、世のキリスト者のことを指しているのです。
“花婿が奪い取られる時”とは、「ご自身の十字架の受難のとき」であり、イエスさまはすでにこのとき、ご自身の十字架を予知しておられたのです。花婿が奪い取られたとき、すなわち、“わたしがあなたがたのもとから奪い去られたとき”は、飲み食いではなく断食をすることになるでしょう、と言っております。
序ながらこの“花婿”に準(なぞら)えた、「イエスさまが奪い取られている期間」とは、十字架のときから、五旬節がきて聖霊が降ったとき(使徒言行録2章1節から4節)までとされます。
本日箇所36節、主イエスの譬えによる応答へと戻ります。「そして、イエスはたとえを話された。『だれでも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎ当てはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。』」とあります。ここで、“新しい服”とはイエスさまが説いている、新しい御国の福音の教えであり、仕来り、そして考え方です。一方、“古い服”とは、旧約の時代の律法に基づいた教え、生活習慣、考え方、仕来りなどであって、イエスの時代にも、ファリサイ派の人々などは依然として、それを守り続けていたのです。
いまここでイエスさまが仰りたいことは、今ご自身が説き勧めている、新しい御国の福音に基づいた習慣、仕来りを用いて、旧約時代から守り続けている人の古い仕来りや習慣を修正しようとしても、あるいは、それを入れ替えようとしても、所詮それは無理なことであり、それをすれば両方とも駄目になってしまう、と言っているのです。その例を、ルカ福音書の現在箇所、或いは前後にある“問答集”から見ていきますと、周りの人はイエスに向かって“罪人と一緒に食事をしている”と責めていましたが、イエスご自身は逆にそれを、福音伝道のチャンスと捉え「自分は罪人を招いて悔い改めさせるために来た」と告げ、また(後方の段落で)“安息日に仕事をしている”として、イエスの癒しの業を責め立てる者に対し、“人が安息日のためにあるのではなく、安息日が人のためにあるのだ”として、癒しの業は福音伝道の一環であることを告げております。
今この“衣服の継ぎ当て”のことを、別の角度から思い返して見ますと、戦時中、戦後を生きて来た、わたくしなど、破けた古い服の“継ぎ当て”をして、大切にしながら使用したことを、当時はむしろ自慢に思っていたくらいでした。今になると懐かしい思い出です。
次は37節、38節「また、だれでも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」と結んでいます。参考までに、当時は、子山羊や子羊から革袋を作って、水や、ぶどう酒などの入れ物に用いていたそうです。そしてその革袋は、長く使用すると老朽化し弾力性を失い、かつ脆(もろ)くなったそうです。一方、新しいぶどう酒は、これからも活発に発酵が進むもの、その新しいぶどう酒を、古い革袋に入れたなら、結末は容易に分かります。ぶどう酒も、革袋も本来の働きを失って両方がだめになり、元も子も無くなってしまうのです。ここでも、主イエスが仰りたいことは、新しい御国の教え、福音の教え、そして救いの出来事は、古い民族宗教内に、閉じ込めようとすると両方が駄目になってしまう、と言っているのです。
最後は39節です。この句はルカ書だけに記されもので「また、古いぶどう酒を飲めば、だれでも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」と記されています。この節の意味は、断食問答に絡めて、“ぶどう酒のことをいろいろ譬えを用いながら言ってきたけど、人は普通、古いぶどう酒の方を好んで飲むもの”と、半分ジョーク交じりに言っております。
以上、見て参りましたように、主イエスさまは種々の困難を乗り越えながら、御国の福音はこの地上のすべての人に、宣べ伝えてこられたことをまた改めて知ることが出来ました。いまわたしたちは、断食ではなく、喜びと感謝をもって、日々過ごせることに感謝しながら、これからも共に伝道の歩みを続けていきたいと願っています。
(牧師 永田邦夫)