嘆きを聞かれる神

詩編6編1〜11節

 詩編には全部で150ものいろいろな内容の詩があります。神をほめたたえる賛美の歌があり、神に感謝する詩があり、必死に訴える嘆願の詩があり、悔い改めの言葉に満ちたものがあり、神からの慰めの言葉に満ちたものもあります。そしてすべては神への祈りになっています。

 詩編のみ言葉は、礼拝の中では招きの言葉として読まれることが多いですが、私たち一人ひとりの信仰生活においては祈りと慰めの書でもあります。詩編に語られている言葉から、私たちは自分自身の姿を見出します。そして喜びの時も悲しみの時も私たちを神へと誘ってくれるのです。

 この6編は、キリスト教の伝統の中では七つある「悔い改めの詩編」の中の一つです。しかしながら読んでいただくとお分かりのように、ここには何かを悔い改めている言葉がありません。直接的に罪を告白しているようなところもありません。ただ2節や3節を読んでいきますと、「怒ってわたしを責めないでほしい、憤って懲らしめないでほしい。」と願う間接的な祈りがありますから、ここに罪の告白があると読み取られているのです。どうもこの詩人がなしたことを主が怒っておられ、その憤りによって自分は懲らしめられている、と告白しているようです。ですからここには詩人の深い罪意識があり、この詩には悔い改めや懴悔の気持ちが込められていると考えられているのです。

 しかし、この詩人が今どのような状況に置かれているのか、具体的には何も明らかではありません。ただ3節に「主よ、癒してください」と語っていますし、また「わたしの骨は恐れる」と言っていますので、非常に重い病気を抱えているのではないかとも思われます。この詩人は日ごと夜ごと、とめどもなく涙を流しています。詩人は病床で衰え果て、魂は恐れおののき、死さえも予感しているほどです。眼はかすんで見えなくなるほどに弱っています。詩人はこうした状況を神からの懲らしめだと感じ、自分は神の怒りにさらされているのだと受け取っているのです。

 このところは、この詩人のように出口のない苦しみの中にある人や、そういう経験のある人には、この詩人の心境がよく理解できるのではないでしょうか。しかし、神のみ手が今自分の上に重くのしかかっている、これは神からの怒りなのだ、そう感じとることができていること自体、この詩人がすでに神の前に打ち砕かれていることでもあります。具体的な事柄を懴悔する、しないに関わらず、ここには神の前に砕かれている詩人の姿があります。ですから、まさにこの詩編は悔い改めの詩と言えるのだと思います。

 3節で詩人は「主よ、憐れんでください」「主よ、癒してください」と、積極的に神に訴えています。ここに使われている「憐れむ(ハーナン)」という言葉は、もともとは、ラクダが迷子になった自分の子を探し求めて鳴いている、そういう思いが込められた言葉だそうです。ラクダという動物は、子どもを産むと、乳離れさせるために、ある時期が来ると母親から子どもを引き離すのだそうですが、母親ラクダはいままで乳を吸っていた自分の子どもがいなくなると悲しみのあまり鳴くわけです。そこにたまたま風が吹いてきてその子どもラクダの匂いがしてくると、母親はその子の匂いを覚えていてさらに鳴くのです。つまりこのような母親の愛情を示す言葉がここに使われている「憐れむ」なのです。母親が子どもを慕い求めて鳴くのはただただ愛情です。慈愛です。子どもラクダに価値があるか無いかは関係ありません。親としてただ本当にかわいいのです。この言葉の背後にそういう深い意味があることがわかりますと、神が人間に対してもそのような愛をもっておられることが想像できます。詩人はその言葉で「主よ、憐れんでください」と叫んでいるのです。

「(3〜4節)主よ、癒してください、わたしの骨は恐れわたしの魂は恐れおののいています。」骨は肉体の構造を支える柱ともいうべきもので、強さが宿っているところでもあります。その「骨が恐れ、魂が恐れおののく」と言っているのですから、この詩人の全人格を象徴的に表しています。
 詩人は今、身も魂も弱り果て、衰え果て、嘆き悲しんでいるのです。

 その苦しい嘆きの中で、さらに5節にあるような神への訴えが続きます。「主よ、立ち帰りわたしの魂を助け出してください。」これは新たな視点から出た願いです。「立ち帰り」の原語はシューブといいます。罪の中にある人間が神に立ち帰っていく時にこのシューブ(向きを変えること)という言葉が使われます。ですからこのところは「御顔を背けて、私から遠く離れてしまわれた神さま、どうか私のところに立ち帰ってください。」あるいは「私のことを怒っておられる主よ、どうかその心を変えてください。」と願っているのです。ここには「立ち帰ってください。助け出してください。救ってください。」というように、神への要求を次々と訴えて神に詰め寄っていく詩人がいます。

 では、そこまで訴えるのはどうしてかと言うならば、5節に「あなたの慈しみにふさわしく」とありますが、これがキーワードではないでしょうか。この「慈しみ(ヘセド)」という言葉は、本来、忠誠とか忠実、誠などを表す言葉で、契約への忠実さを示す言葉なのです。旧約時代は人間と神との関係は、契約に基づいていましたから、「主よ、あなたと私は契約関係にあるのではないでしょうか。だからその契約に対するあなたの忠実さを示してほしいのです。」という心があるからなのです。つまり少し意訳しますと、「神さま、あなたが私に立ち帰り(私の方に向きを変えてくださり)、私を救い、私を癒してくださること、恐れおののく私の魂を平安に戻してくださること、これらはみなあなたの慈しみにふさわしいことではないでしょうか。」と言っているのです。詩人は今の自分を顧みて、何ら頼るべきものはないのがわかっています。しかしただ主なる神の慈しみがあることを思い、ひたすら頼っているのです。それが今の私に残っている唯一の希望であり、この状況を解決する唯一の出口なのだと信じて訴えているのです。

 そしてさらに6節にいきますと、「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず陰府に入ればだれもあなたに感謝をささげません。」というように、もし私がこのまま死んで陰府に行ってしまえば、だれもあなたを思い出さず、感謝する人がいなくなりますと言うのです。陰府(よみ)(シェオール)は死者が逝くと信じられていた深い穴、地下の暗い領域です。そこは太陽がさんさんと照り輝く世界ではなく、神との交わりが絶たれてしまった暗い闇の世界として認識されていました。

 人間が死の国に行けば、だれもそこで神のみ名を賛美することも神に感謝することもできません。だから主よ、私をこのままにしておいてはいけない、あなたを賛美する私が必要ではないかと言っているのです。この詩人にとって何が幸いなことかというならば、それは神をほめたたえること、神との交わりの中に置かれていることでした。それはつまり今、私たちがご一緒に主を礼拝しているように、教会という礼拝共同体の交わりの中に生かされていることです。詩人とってはそれが最も幸いな喜びでした。ですからそれができないということくらい辛く耐え難いことはなかったのです。だから詩人はひたすら癒しと救いを願っているのです。私はもう一度健康を回復されてあの祝福した交わりに戻りたいのだと語っているのです。

 このところは、私たちが置かれていた状況と大変良く似ていると思います。私たちは長い間、御一緒に礼拝堂での礼拝を捧げられなかった時、同じようなことを思ったのではないでしょうか。今こうして教会の交わりの中にあることを心から感謝したいと思います。

 7節と8節では、詩人は再び自分の嘆きを語っています。「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。」「苦悩にわたしの目は衰えて行きわたしを苦しめる者のゆえに老いてしまいました。」そして9節以下で突然変化するのです。「(9〜11節)悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き主はわたしの嘆きを聞き主はわたしの祈りを受け入れてくださる。敵は皆、恥に落とされて恐れおののきたちまち退いて、恥に落とされる。」どうでしょうか、これまでの嘆きと訴えの調子が、急にここでは宣言するような力強い調子に変わっています。いったい何が起こったのでしょうか。ここには何も語られていません。

 詩編を読んでいると、こういう突然の変化がよくあります。詩編は当時の神殿祭儀の中で唱えられたわけですから、おそらく8節と9節の間に何か間奏のようなもの、つまり逆転するような動作とか、あるいは祭司が神の救いを宣言するとか、何かそういうものがあって、それでその前後がつながるのであろうと解釈する学者がおられます。しかし必ずしもそういうことがなくても、イスラエルの詩には突如として変化が起こるのが特色なのだという説をとる学者もおられるようです。どちらにしても、詩人ははっきり語っています。「主はわたしの嘆きを聞き主はわたしの祈りを受け入れてくださる。」嘆いて祈った祈りが聞かれたというのです。

 この詩人はただ主の前に自分が置かれた状況を嘆き、訴え、癒しと救いを求めたのです。そのように素朴な心で率直に神に向かう者の声を、神はご自分に向けた祈りとしてしっかり受け止めてくださったのです。祈りは必ずしも形が整った立派な祈りである必要はありません。ただ心にある思いを神に訴えればよいのです。どのような祈りであろうと、主に向かって祈る声を神はしっかり聞いておられるということを信じて生きていきたいと思います。

 ところで9節に出てくる「悪を行う者」とか11節の「敵」とは誰のことでしょうか。これらは直接この詩人を苦しめた者というより、間接的に詩人をあざ笑っていた人達かもしれません。人が苦しみの中にある時は、周囲の人たちが祈ってくれたり、助けて支えてくれますが、必ずしもそのような優しくあたたかい人達ばかりではないのです。「あれを見ろ、あれは神から見捨てられた問題の人物だ。」という態度をとった人がいたのではないでしょうか。苦しんでいる人に追い打ちをかけるように冷淡な態度で接したり、離れて行ったりする人はいつの時代でもたくさんいます。

 さて、緊急事態宣言が解除されて、私たちはこうして礼拝ができるようになりました。しかし、新型コロナウイルスによって混乱した社会生活がもとのように回復するまでにはまだまだ時間がかかると思います。私たちもいろいろ苦しみましたが、今社会には生きていくことさえ困難な方々がたくさんおられます。苦しみや痛みや辛さを抱えてただ泣くことしかできない人達がおられるのです。この詩人のように「主よ、いつまでなのでしょう。」と自分の限界を覚えて嘆いている人がおられるのです。私たちはそういう方々のためにできることをしながら、神の助けと支えを祈っていきたいと思います。

 この詩編6編では、詩人はひたすら神に祈り願っています。怒りや憤りでなく憐みと癒しを願い、断絶ではなくどうかわたしを顧みて救って欲しいと訴えています。ここには神との対話を求めてやまない詩人の魂の叫びがあります。そして主は確かにその祈りを聞かれたのです。「(10節)主はわたしの嘆きを聞き主はわたしの祈りを受け入れてくださる。」これは詩人の努力によって事態が切り開かれたのではありません。救いは常に神から恵みとして与えられるものなのです。新しい週も、嘆き祈る私たちの祈りを聞かれる恵みの神の導きを信じて、感謝して歩みたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)